にゃんにゃん
お披露目の式典には特に中身があるわけではない。
アルベラン女王の戴冠に対し、各国からの祝いの言葉が読み上げられ、適当な贈答品を受け取り。
美辞麗句――建前と上辺だけの下らないやりとりがあるだけであった。
重要なのはその後の会談。
王城の会議室、そこでは女王クレシェンタをはじめ、ザーナリベア大神官、ガルシャーン副議長オールガン、エルデラント王国宰相クロルス――そして、帝国西部大司教エルベバートが長方形の机を囲んでいた。
他国からは国のナンバー2、あるいはナンバー3。
自らの意思一つで今後のことを決定出来る権限を持つ者達だった。
何の権限も持たず、一人数段格の落ちるエルベバートは顔を青くしながら冷や汗を拭う。
彼は国の上層部の面子のため貧乏くじを引かされたようなものだった。
ここは国同士の話し合いの場。
本来エルベバートのような小物――西部地域の教区を司る程度の大神官ではなく、大神官長、あるいは枢機卿が座っているべきである。
明らかに彼はこんな場所に同席して良い身分ではないだろう。
早く終わってくれないものかと居心地悪そうに、エルベバートは少し挙動不審を見せ、隣を見る。
王国の南西部の小国――この四国からすれば遥かに劣るクースラン王国から参加している王弟クラウゼがそこに座っている。
しかし流石に王族と言ったところで、この状況にも堂々たる姿。
エルベバートの仲間はいない。
「しかし、女王陛下。平和平和と仰るが、それを仰るならまず、これまでの王国の蛮行――その精算を行なうべきではありませんか?」
口を開いたのはガルシャーン副議長オールガンであった。
クレシェンタはそちらに目をやる。
南の猛将ダグレーン=ガーカとよく似て、髭だらけの野卑な顔立ち。
賊か何かが似合いそうな男であった。
しかしこう見えて、元は王族だというのだから驚きである。
ガルシャーンが共和制になったのは精々二十年ほど前のこと。
それまではアルベランと同じく王制国家であったのだが、何を思ったかこの男は王族の身でありながら王家の腐敗を正すべしと反乱を起こした。
結果として王家を打倒、共和制を打ち立てた後も『自分が議長の座に座っては王位簒奪と何一つ変わらない』として副議長の座についたらしく――クレシェンタには何がしたいのかよくわからない頭のおかしい人物である。
とりあえず声がうるさいのでクレシェンタは嫌いだった。
「二十年前の内戦の折――王国が掠め取った北方の領土。土地を追われた民の嘆きは今も尚消え去ってはいない。それについてはどうお考えなさる?」
クレシェンタは困ったように首を傾げる。
「あの戦は当時のガルシャーン王家より要請があってのことですわ。断じて侵略ではなく……それに、そのことについてのお話は貴国が納得の上、十五年も前に終わっているはずですけれど」
「納得。なるほど、あれを真っ当な話し合いであったと仰るか。弱り細った我が国に対し、軍事力をちらつかせての会談を?」
挑むようにオールガンは尋ねた。
クレシェンタが生まれる前のこと。細かいことなど知るはずもない。
「無論、先々代のこと。現女王陛下であるあなたに思うところがあるわけではない。しかしアルベラン王国を継ぐ者として、平和を語る前にまず、アルベランが行なってきたこれまでの精算を行なうべきだと私は考えますな。……女王陛下が本心より平和をお望みになるのであれば」
――でなければ故郷を追われた民も納得が出来ないでしょう。
オールガンの言葉は明確な脅しであった。
クレシェンタは微笑を浮かべて受け流す。
「なるほど。ではお金を払えば結構でしょうか?」
クレシェンタは言って、眉を顰めたオールガンが言葉を紡ぐ前に続けた。
「違いますわよね。戦で生じた憎悪や怨恨はそのようなもので、次の日に綺麗さっぱり消えるものではありませんもの」
一度弱みを出せば終わり。
外交では食い物にされるだけだ。
常に場の空気と言葉で優位を取る必要がある。
「ガルシャーンとアルベランは、長い年月で幾度も戦を繰り返し……そうした殺し合いで生まれた恨み全てが、一時の金銭で解決出来るわけではないでしょう?」
クレシェンタは続けた。
「更に年月を数十年遡れば、あの土地はアルベラン王国のものですわ。オールガン様の仰る故郷を追われた民、そのおじいさまの頃にはガルシャーンに故郷を荒らされ支配され。わたくしたちはそんなことを繰り返しておりますの。不毛だとは思いませんこと?」
「次は千年前に遡るおつもりですかな?」
「ふふ、そうではありませんわ」
クレシェンタは楽しげに笑う。
「オールガン様の民を想うお気持ちは素晴らしいもの。ですがそれを解消するにはやはり、長い年月が必要だと思いますの」
何を言いたいのかとオールガンは腕を組み、クレシェンタの目を見つめる。
「……故郷に戻りたいと思う民がいて、その方が真実その土地の方ならば、王国は最大限それを受け入れますわ。南部は豊かな土地ですもの、行なうべき事業も多く、住む場所や仕事も斡旋出来るでしょう。失われたものは取り返せずとも、新たなよりどころを作ることは出来る」
その目を堂々と見返して、クレシェンタはますます笑みを強め。
浮かべるのはどこか、人を食ったような笑みであった。
「後必要なものは国と国とが手を取り合うことと、憎悪が薄れ新たな生活に慣れるまでの年月だけ。……どうかしら? 民のことを第一に考えるならば、これは両国にとっても悪くない提案のはずですわ。もちろん、オールガン様が本心より平和をお望みになるのであれば、と但し書きを付けなければなりませんけれど」
幼き女王は愉しげに、オールガンの言葉をそのまま返した。
そして背後の赤毛の使用人――ベリーの淹れた甘ったるい紅茶へ口付ける。
半ば挑発めいた言葉に居合わせた王宮貴族達はぎょっとするが、響いたのは部屋を震わす笑い声であった。
「はっはっは、これはこれは、無礼な質問をお許しを。お若いながら動じもせず、貫禄がある。それに随分と聡明な方でいらっしゃるようだ。失礼を申した」
「お気になさらずオールガン様。そのように仰ってもらえて嬉しいですわ」
赤に煌めく金を揺らして。
妖精の如き女王は、その美貌に柔らかい笑み。
内心ではうるさい声に耳を押さえてしまいたい衝動を堪えていた。
クレシェンタを測るための質問であったのだろう。
クレシェンタが単なる理想家で――戦を恐れ言われたままに金を出すならば戦を前に搾り取る気でいたのだ。
戦費の掛かる戦よりも、そちらの方が遥かに利益が上がる。
そうして国力を削いだ後に攻め入り、国土を切り取れば良い。
「かの黒獅子――アルベラン大公爵を退け王位についたと聞いて驚いておりましたが、なるほど理解が出来る。今後の王国の未来は明るいものになりそうですな」
その証拠に、オールガンは美辞麗句を重ねることでクレシェンタの提案を流した。
あくまでガルシャーン上位となる取り決め以外を行う気はなく――そしてアルベランに攻め込むことは半ば規定事項なのだろう。
特にクレシェンタも気にせず、それに乗った。
「ありがとうございます。これからの王国に平穏がもたらされるのであれば、わたくしもそうしたいと思っておりますわ」
「聞き捨てならないお言葉ですな」
横から口を挟んだのはエルデラント王国宰相クロルスであった。
老人は長い顎髭を弄び、クレシェンタを睨んだ。
「まるで平穏を乱すものは外にあると言わんばかり。いつの時代も周辺国へ災いを振りまくのがどの国か、歴史を見れば明らかでしょう」
「アルベランがそうだと?」
「ええ。アルベランが発する平和という言葉は、次なる侵略のための準備期間でしかない。その言葉に騙され、何度我が国は焼かれてきたか」
仰るとおりごもっとも、と思いながらも、クレシェンタは微笑を崩さない。
エルデラント王国は、王国を名乗ってはいるが絶対王政のアルベランとは違い、どちらかといえば蛮族の部族連合に近い国だった。
封建国家というよりやはり連合で、力ある部族の長が盟主となり、エルデラントの王を名乗る。
部族の長達は一度王が決まれば王に忠誠を尽くすが、部族同士の仲は当然良くはなく、内戦が多い。
更に王が死ぬ度次の王を巡って有力部族が戦いあって力を削ぎあい――アルベランが何かと理由を付けて領土を掠め取るというのは毎度のことであった。
「お言葉を返すようですけれど、王国の西部ではエルデラント軍による挑発的な越境と略奪を聞かない日はないですわ。そうした報告を聞けばこちらとしても対処せねばならず――まずは貴国にも、戦の火種を作らぬようご協力願いたいのですけれど」
「単なる賊の襲撃を我が国の仕業であると、責任をなすりつけているだけであろう」
当然、そんな事実を認める訳がない。
エルデラントは王国と変わらぬ領土を西の山脈まで広げているが、周辺国の中で一段落ちるのはそうした内輪揉めのせいだろう。
技術的、文化的にはそれなりに文明的ではあるが、頭の中は未開人。蛮族である。
国の形をした賊の集団であって、非常に目障りな存在ではあった。
とはいえ西部と接する豊かな平野部は粗方王国が切り取って、残るは森。
エルデラントは国土の大半が森のため、攻め滅ぼすのは難しく、返ってくるものも少ない。
未だに国として残っているのはそうした事情で、自分の代になる前に滅ぼしておいてくれれば良かったのに、とクレシェンタは先王達を少し恨んだ。
現在の王はエルデラントでも東部出身で、当然アルベランに対し好意的ではないだろう。
この宰相の強気な様子を見れば、攻める事は確実なのだろう。
南も西も結局は同じく、王国を攻めない理由はない。
東のエルスレンも全く無意味な使者を送っており、どうにも他に無能もいなさそうな様子。
ここから巻き返すのは難しそうかと早々に戦争回避を諦め、クレシェンタはこの会談が早く終わることを願った。
「あの女王は中々の傑物だな」
「気に入りましたか?」
「ああ、気に入った。帰ったら軍の準備だ」
「気に入ったから攻めるんですか……しかも今から準備ですか?」
錬成岩で作られた白き廊下――その途中で発せられた副議長オールガンの言葉に、長身細身の武官長ザルヴァーグが呆れたような顔をする。
特に見るべきところもない特徴のない顔立ち――ガルシャーン武官長という武官筆頭の立場にありながら、ザルヴァーグの顔には華がない。
元々は貴族でもなく、平民で靴屋。二十年前の内戦時に反乱軍側に参加し、戦場で頭角を現しオールガンの補佐へと成り上がった男で、オールガンから最も信頼される武人であった。
此度の訪問にも護衛長として同行している。
オールガン自身は権力に興味がないが、ガルシャーンの政府はオールガンの人望によって成り立っている。
副議長という立場はともかく、実質的なガルシャーンの長であり、決して失われてはならない存在。
武官長ザルヴァーグが護衛につく厳重さは自然なことであった。
「攻めるならあのガーカが相手。数年単位で準備を行なっても良いくらいだ」
ダグレーン=ガーカ。
幾度となくガルシャーンを打ち破った猛将であった。
象をはじめとした猛獣を相手にあれだけ立ち回るのはあの男くらいであろう。
鉄壁の布陣でありながら柔軟性を失わず、ガルシャーンにとって王国軍でイメージされるのはまずあの男である。
此度の内戦を聞いて、早々に北西エルデラントの戦いを切り上げ機会をうかがっていたオールガンが動けなかったのも、ガーカが油断なく南を睨んでいたため。
エルデラントに兵力を割かれた状態で挑むのは危うい相手であった。
今回クレシェンタの誘いに乗ったのも、クレシェンタを一度見てみたいという気持ちもあったが何より、ガルシャーンの体勢を整えるためだ。
ここからの数ヶ月や一年程度で、内戦から国が完全回復することはない。
単なる戦と違い、内戦によって生じる敵味方の消耗は全て自国の財政に負担を掛ける。
同じ数ヶ月であっても、元々余力のあるガルシャーンが優位に立てるのは当然であった。
ガルシャーンを出る前に帝国からの打診があった。
恐らく、前回とは違い今回は共同作戦となるだろう。
前回の帝国侵攻時にも同じ要請があったが、その時断ったのは留守を狙うようで気が引けたからだ。
オールガンは生死と誇りを賭けた戦ほど滾るものを知らない。
その好敵手として選んだガーカを背中から討つような卑劣はあまりしたくなかった。
「……ん?」
オールガンが目を向けたのは中庭であった。
そこでは一人の大男と、薄水色のドレスを着た、銀髪の美しい少女がいた。
「んー、これは……」
「ははは、見事な細工でしょう。これは昔、メルキコス軍団長に鎧くらい気を使えと怒鳴られて、ボーガン様と同じ職人に作ってもらったものなのですが……」
式典の際コルキスは鎧姿で参加しており、クレシェンタ――についたベリーを待っていたクリシェと偶然遭遇。
待つついでに少し話していた。
虎を模した勇壮な兜に興味を見せたクリシェ。
コルキスは兜を脱いで見せ、その来歴などを説明する。
「見ての通り、虎を――」
「にゃんにゃん」
クリシェは目をきらきらとさせて顔を上げた。
「えへへ、猫ですよね。ベリーが好きなのです。にゃあにゃあって。コルキスも好きなんですか?」
「……え? あ、いや、猫ではなくてですね……」
「……確かにアーグランド軍団長ではなく、コルキスって呼ぶのも良いとは思うのですが……実はですね、軍の兵士の間では親しみを込めた愛称というものが流行っているのです」
「あ、愛称ですか?」
「はい、ほら、ガイコツ、みたいな。えへへ、ガイコツってクリシェが名付けたんですよ。ガイコツみたいな顔してるのでっ」
「ら、らしいですね……」
その恐ろしくて誰も口に出来ない愛称でエルーガを呼んでいるのはクリシェだけで、愛称が流行しているのも軍ではなくクリシェの中だけである。
コルキスは極めて大人な対応を取った。
「これからクリシェの下で働いてもらうことになるコルキスも呼び捨てじゃなくて、何か愛称を付けてあげたいなって思ってたんです。なかなか思いつかなかったのですが、今ぴぴんと来ました。これからはコルキスのこと、にゃんにゃんって呼びますね」
「……は?」
「ヴァーカス軍団長はわんわんですし、ほら、ちょっと雰囲気も近いですし。二人揃ってわんわんにゃんにゃんってすごく素敵ですっ、呼びやすいですし」
ぴょんぴょんと小さく跳ねつつ。クリシェはよほどの上機嫌である。
出会ってからこれまで一度も向けられたことがないクリシェの溢れんばかりの笑顔――それは勇猛で知られるコルキスがたじろぐほどの力を秘めていた。
「はい、にゃんにゃんの兜、お返ししますね」
背伸びをして小さく飛び、コルキスの頭に『虎を模した勇壮な兜』を被せてクリシェは満足そうに何度も頷く。
コルキスは側にある池に目をやり、そこに映った鎧姿の大男を眺めた。
全身を筋肉と鋼の鎧に覆われた、戦士の肉体。
それがにゃんにゃん。
もはや狂気である。
――なるほど、ファレン元帥補佐もグランメルドもこれにやられてしまったのか。
俺は同じ轍を踏むまい。
慌てたようにコルキスは声を発する。
「い、いや、待ってくださいクリシェ様、そ、その愛称は流石に……」
「……あれ、誰か来ますよ? にゃんにゃんのお知り合いですか?」
しかし既にクリシェの興味は他にあった。
甘い声で呼ばれたにゃんにゃんという響き――そのあまりの自然さが、もはや取り返しのつかないことを示すかのようにコルキスには感じられた。
「ん……さっき式典に来てた人ですね。ガルシャーンのオールガン副議長?」
流石にコルキスと比べれば体格に劣るが、それでも十分な大男と言えるだろう。
筋肉で張り裂けそうな礼装で歩いてくるのは髭を生やした中年の男。
「これは、いつか見た顔だな。クリシュタンドの……」
「軍団長、アーグランドです、副議長殿」
コルキスは咄嗟に姿勢を正して踵を打ち鳴らした。
外国の要人に対する場合は害意なきことを示すため、両手を腰の後ろで組む。
「そうだ、クリシュタンドの軍団長。随分も前のこととなると、流石に記憶が曖昧だな。もっとも、君のような人間は一目見ればそう忘れることもないが」
クリシェはコルキスの様子を眺めつつ、スカートをちょんと持ち上げ一礼する。
見るからにお姫さまといった様子で、気品漂う姿であった。
先ほどまで部下ににゃんにゃんという呼び名を強要しようとしていた悪鬼とはとても思えない。
「……そちらは、女王陛下の隣におられた」
「クリシェ=アルベリネア=クリシュタンド様です」
コルキスがすかさず答えた。
クリシェは気にしていないが、王族は自ら名乗ることをしない決まりである。
このように側のものが紹介するのが当然で、コルキスは王族としてひとまずクリシェを扱う。
他国の要人相手にクリシェを喋らせるのが少し不安であったのも理由である。
「……アルベリネア」
女王クレシェンタの隣に立つ彼女が誰か――それについては紹介もなく、誰もが疑問に思っていた。
女王には姉があり、そしてその姉こそが内戦にてギルダンスタイン側についた将軍達を打ち破り、ギルダンスタインを斬り伏せた英雄であるのだと噂話は聞いている。
あれがそうなのではないかと誰もが思いつつも、それを誰かに表立って尋ねることは出来ない。
王族の名を尋ねるなど、どの国においても無礼不作法の極みであった。
基本的には事前に調べるか、今のように向こうから紹介されるのを待つほかない。
大抵恥を掻かさぬよう、相手側が気を使うのが常であった。
リネアは王国の正騎士を示す名誉爵位であり、そこに王国の名から取ったであろうアルベリネアという聞き慣れぬ爵位。
まさしく、この少女がそうなのだろう。
人形のような無表情で、観察するような紫の瞳だけが無機質に輝いていた。
愛想もなく、朗らかな笑みもない。
クレシェンタに似ているようで似ていない、どこか寒気のするような美貌――纏う魔力は静謐と言えるものであった。
肉体の拡張――魔力による仮想の筋肉。
それが既に展開されていることに気付き眉を顰めた。
こちらを警戒しているのかと考え、そうではないと直感的に感じ取る。
立ち姿には筋肉の強張りや歪みといった一切の緊張がない。
はじめから、日常的に。
彼女は常に、そのようにして過ごしているのだろう。
恐ろしいほどの集中力と安定性であった。
日常的に魔力を扱うことは非常に難しい。
肉体のそれに比べてあまりに強い力――戦場ならばともかく、些細な加減が難しいのだ。
アルベランのもう一人の姫君の噂を聞いた時、オールガンは疑い半分であった。
ガルシャーンにも名を響かせた王国の英雄ボーガン=クリシュタンドを失いながら、常勝不敗のアウルゴルン=ヒルキントス、黒獅子ギルダンスタイン=アルベランを討ち取った剣姫。
聞けばそれは十五にもならぬ娘だという。
そのような娘が踊れるほどに、戦場というものは甘くない。
戦場を誰より知るがゆえ、オールガンは疑った。
大方手柄の横取りだろうと、その程度に考えていた。
しかし、この目の前の少女を見ればあり得ない話ではないとも感じる。
それほどにこの少女の姿は、何とも言えない気味の悪さをオールガンに訴えていた。
今まで目にしたどのような武人とも違う。
コルキスのような圧迫感でもない。
背筋がざわつくような感覚――それは幼き頃、生け捕りにされた魔獣を間近にした時感じたもの。
本能から来る恐怖であった。
「……なるほど、アルベリネア――間近に見ればわかる。噂通りの方のようだ」
オールガンは右手を差し出す。
クリシェは不思議そうにそれを眺めて、少し嫌そうに手を出した。
顔と同じで手の甲も毛むくじゃらである。不潔そうであった。
「同じ武人として、こうしてお会い出来たことを光栄に思います。いずれ、遠くない日に改めて会うことがあるかも知れませんな」
「はぁ……ありがとうございます」
右手を握られたクリシェは、襲い掛かられたらどう殺そうかと考えつつ、軽く会釈をする。
基本的に片手の自由を奪われる握手自体好きではない上、手は毛むくじゃらでしかもやや汗ばんでいた。余計に不潔である。
既にクリシェの中で、オールガンの評価は嫌いへ傾いていた。
手を離されるとクリシェはすぐさまハンカチを取り手を丁寧に拭う。
オールガンは気にしなかったものの、コルキスと武官長ザルヴァーグの顔がぎょっとする。
あまりに不作法、凄まじく失礼であった。
場合によれば国際問題に発展しかねない無礼である。
とはいえ、クリシェは自称品行方正な少女――彼女の中では汚いものに触ったら手を清めるのは理に適った作法であり、むしろ清潔感溢れた良識ある所作。
彼女の知識にない失礼無礼は、彼女の中ではノーカウント。
何一つ疑問を覚えることなく、握手した右手を隅々まで丁寧に清める。
コルキスとザルヴァーグは唖然としながら彼女を見ていた。
「ガルシャーンには王国では見ることのない様々な獣がいる。その際には是非とも、アルベリネアにそれをお見せしたいところです」
「えーと……ありがとうございます……?」
ある種の宣戦布告であったが、クリシェは単純にそういう挨拶なのだろうかと首を傾げた。
色んな獣を見せてくれると言っているのだから、ひとまず礼を言うべきだろう。
その程度の理解である。
戦場で会おう、などと遠回しな言葉は全く伝わっていない。
「それでは、また。行くぞザルヴァーグ」
しかしクリシェに全く意味が通じてないことを知らぬまま、宣戦布告は済んだと言わんばかりに颯爽とマントを翻し、オールガンは歩いて行く。
すぐにザルヴァーグもそれに続いた。
「見たかザルヴァーグ。あれは見た目で侮れぬ怪物だぞ」
「……確かにすごいですね。握手していきなりハンカチで手を拭うところとか」
「ん?」
「いえ、なんでもないです。……あちらも気に入りましたか?」
「気に入った。くく、面白いではないか王国は。……これで熱が入ったというものだ」
獣のように笑って、オールガンは獣の如き笑みを浮かべた。
「どうしました? にゃんにゃん」
「い、いや、呼び名もそうですが……あれはいけませんよ。握手の後にいきなり手を拭うのは」
「……? クリシェ、手は綺麗にしておきたいので」
「そ、そうじゃなくてですね……」
握手の後に手を拭うのは失礼であるとクリシェに納得してもらえるまでに、それから半刻を要した。