高尚低俗
「えへへ、かわいいですか?」
「はい、とってもお似合いですよ」
ひらひらとドレスのスカートを揺らし。
着せ替え人形クリシェはドレスを見せるように、楽しげにくるりと回る。
ベリーは後で卑怯だとセレネに文句を言われることを想像しつつ、可憐なクリシェの姿に柔らかい笑みを浮かべた。
既に会談を見据えたドレス戦争の前哨戦は始まっている。
『あの、クリシェ、今度着るドレスを選んでおきたいのですが……』
朝食も前朝食もなく、姉と使用人の戦いの終わりを見守るしかない状況。
再びあのような悲劇を起こさないため、ベリーに彼女がそう告げたのは朝のこと。
それは当然ベリーにとっても何よりの提案である。
先んじてドレスから装飾までをクリシェの合意の下選んでおけば、今後起きる戦いで圧倒的に優位に立てる。
クリシェが言い出した、というのは非常に重要であった。
卑怯卑劣と罵られても、他ならぬクリシェ様が言い出されたことであるという大義名分が存在するのだから気にする必要はない。
流石にセレネもそれがクリシェの意思ならば、その方向から攻勢に出ることは出来ないだろう。
多忙で事前工作の行えないセレネに対し、どこからどう見ても悪辣、卑怯で卑劣な行いであったが、使用人の中では完璧な理論武装が出来上がっている。
ベリーは基本的に誰が相手でも自分の希望を曲げることはしない。
優しく物腰柔らかく、一見話が分かる賢女のように見せかけてはいるが、ベリー=アルガンという女の根本は非常に頑固で自己中心的――貴族的な感性に満ちていた。
自分の望みのためならば全てを切り捨てる明快さはいっそ清々しいほどで、彼女は料理人よりもどちらかといえば軍人や政治家がよく似合っている。
「珍しいですね、クリシェ様がこんなことを仰るだなんて。わたしとしてはこうやって、クリシェ様がご自身のドレスや衣装を気に掛けるということがとても嬉しいのですけれど……」
「えへへ、クリシェも最近ですね、綺麗っていうのがわかるようになった気がするんです」
腰に手を当て控え目な胸を張り。
薄い水色のドレスを身につけたクリシェの姿はどこまでも愛らしい。
ベリーは少し驚いたように、まぁ、と声を上げてその銀の髪を優しく梳いた。
「言葉にするのはちょっと難しい気がするのですが……」
クリシェは近づき擦り寄って、上目遣いにベリーを見た。
小柄なベリーよりもさらに少し小柄で、クリシェは自然な仕草一つ一つが魅力的で愛らしい。
きらきらと輝く紫の瞳。
上目遣いは殿方にとって魅力的であるのだと色んな本に書かれてはいるが、なるほどと思えた。
ベリーも普段のクリシェを見ていると実感出来る。
クリシェのような可憐な少女にこうして擦り寄られ、上目遣いでお願いでもされようものなら、誰しも命の一つや二つを賭けて見ようと思うのではないか――裏がないからこそ、クリシェの純真は魔性であった。
「そのようなものかも知れませんね。綺麗という感情を言葉にしようとすると、とても難しいです。ただ、綺麗、としか……」
詩人であれば違うのかも知れませんが、とベリーは困ったように言って、クリシェはベリーにも難しいんですね、と、彼女の頬を両手で挟んだ。
少し背伸びをして、幸せそうに口付けると、頬を緩めてドレスをふりふりと揺らす。
控え目に言ってもクリシェは、どうしようもなく可愛い。
少なくともベリーにはこの生き物を綺麗だとか可愛いだとか、そのようにしか表現が出来ない。
やはり言語化は難しい、とベリーは頬を染めつつそう告げるほかなかった。
「でも、やっぱり嬉しいだとか、そういう気持ちにきっと近いように思えますから、ベリーが綺麗って思ってくれるなら、クリシェも嬉しいですし……だから、好きなだけクリシェ、ベリーにお付き合いしますね」
「ふふ、ありがとうございます」
クリシェの綺麗は多分な感情が含まれたベリーに対するものであったが、ベリーには彼女の綺麗が何に対するものかという疑問よりも、ともかく良いことだ、という喜びが大きかった。
彼女の成長はベリーにとって何より重要なことであるためだ。
どうあれ、クリシェが自分の衣装にこだわり(意地でもスカート)ではなく興味を持ち始めたというのは良いことで、そうした疑問を深くは尋ねない。
言語化が難しいことも理由にあったが。
「えへへ、ベリーもとっても綺麗です」
「ふふ、ありがとうございます。でもクリシェ様の方がずっとお綺麗ですよ」
自己中心的性格で、様々な才能に恵まれながらも、基本的に自己評価の低い彼女は近頃自分の顔を穴が開きそうなほど見つめるクリシェとそれらの感情を結びつけることはできず――ベリーは他人からの好意に対して基本的に鈍感であった。
クリシェの好意やスキンシップが以前から、一般的に過剰なものであったことも理由だろう。
そしてクリシェも、その感情に関して改めてベリーに解説してもらう必要もないと考えており、現状で十二分なほど満足していた。
ベリーは綺麗と言い、クリシェもベリーを綺麗と思う。
クリシェの中では両想い、――そこに真実などは些細なものとするベリー経典の教えがクリシェの中にはある。
それに照らし合わせて考えれば、改めて互いの言葉を確かめる必要もない。
元々他人からすればその関係を疑われるほどスキンシップ過剰な関係で、単に釣り合いが取れた程度のことである。
クリシェは十二分に満たされていた。
「あ、そうです」
クリシェは思い出したように棚へ向かう。
そして鞄の中から何かを取り出した。
魔水晶――金属で側を覆われ加工されたもの。
金属金具にはやや太い紐が取り付けられており、恐らく首飾りなのだろう。
やや無骨さはあるものの、魔水晶の青い輝きが美しい。
「毒がどうだとかクレシェンタが言ってましたから、一応ベリーにって」
「毒……」
「はい。この辺りで出回ってる奴を集めて、毒に反応する毒ぴりりんを作ったんです。近づけて魔力を流せば大体ぴりぴりってなりますから、使い方は簡単です」
「はぁ……」
ベリーは受け取り眺めた。
魔水晶に刻まれた複雑な術式は時間と共に組み変わり、変化する。
クリシェ曰くうねうね――魔導書に用いられる暗号から取り、暗号刻印とエルヴェナは命名したらしい。
周囲の魔力を吸収し、その魔力で術式の表層が時間経過で書き換わり、内部の核となる術式を保護する。
ベリーのように魔力保有者が触れば更に活性化し、うねうねと幾何学的紋様が魔水晶の中で変化していく。
完全にベリーの理解を超越した仕組みであった。
これを無効化するには空中に描く魔術式――魔法を使って描き解除せねばならないらしいが、その仕組みを知っているベリーでも全くの手探りで無効化しようと思えば何年掛かるかもわからない。
当然、この魔水晶がどのように作用するかも読み取れなかった。
「毒なんてどうやって判別を?」
「クリシェもちょっと大変でした。物を解析していくと小さな粒々になるんですけれど、その組み合わせで色々なものが作られているんです。それが一杯くっついたりして色々な物になったりするんですけれど……」
クリシェは天井や壁を指さした。
「ほら、木や石だとか、そういうものでお屋敷が出来ているみたいな感じです」
「粒々……」
「粒々です。クリシェ達の体もそういう粒々が一杯集まって出来てるんです」
クリシェはなんて説明したらいいのか難しいですが、と顎に手を当て考え込む。
「心臓だとか、血だとか、体を動かしてるのも全部そんな粒々で、毒も同じ粒々で出来てます。体に入ると毒の粒々が体の色んな部分の粒々に悪さをして、それで病気になったり、死んじゃったりするみたいなのですが……毒というのも一杯種類があって、どれがどれに影響するのか、作用するのかっていうの膨大すぎてよくわからないんです」
困ったことです、と言いながら、指を立てた。
魔力がゆらゆらと揺れ動く。
「それが分かれば万能治療魔水晶、みたいなのも作れるかもなのですが、何千回何万回と実験が必要になりそうなので諦めて、別の方向で見てみようと」
「……魔力、ですか?」
「はい。魔力は粒々に干渉して、分解したり再構成したりできるので、これに特定の粒々構成を覚えさせて特定させて、ひとまずこの辺りで使われてる毒は感知出来るようにしました。目を閉じてても触ればカボチャだってわかるような感じでしょうか」
わかりやすいようでよくわからない例えであったが、言わんとしていることは理解出来た。
語り口とは裏腹に非常に高度で――この世界の仕組みのようなもの。
その一端に触れたような内容だった。
目に見えないような小さな何かが世界の全てを作っている。
面白い発想――いや、彼女が言うからには事実なのだろう。
以前読んだ本の内容を思い出した。
「……世界は魔力で構成されているのだとか、そういう仮説を以前本で読みましたね」
肉体拡張や魔水晶を用いた際に生じる現象。
触らずに物が熱され、動かされ――物質は魔力から生まれたものであり、だからこそ魔力はありとあらゆる物に干渉出来るのではないか。
古い本にはそのような仮説が記されていた。
「んー、確かにそう言えるのかも知れません。魔力は小さな粒々になりますし、小さな粒々は魔力になり得ますから。魔力が最初にあったのか、物が最初にあったのか、という話なのですが」
「卵が先か、鶏が先か、ですね……」
ベリーは楽しげにくすくすと笑う。
小さな頃はそういう研究をしてみたいと考えたこともあったような気がする。
「ちょっと楽しいですね、こういうのは」
「楽しいですか?」
「はい。わからないことを知っていく、というのはとても面白いと感じます」
ベリーは微笑み、クリシェも微笑む。
「えへへ、クリシェも新しいことを覚えるのは結構好きです。共感ですねっ」
「ふふ、おんなじです」
ぎゅう、と抱きついてくるクリシェを撫でて、手の中の魔水晶を眺めた。
揺れるような幾何学紋様は美しく、鮮やかだった。
魔水晶の青い輝きは綺麗で、吸い込まれるよう。
ベリーはその首飾りの紐を首の後ろで結んでぶら下げる。
装飾を特に好まないベリーではあったが、これは特別なものだった。
「……肌身離さず、大事にしますね。ありがとうございます」
「えへへ、ベリーとっても似合ってます」
安直な褒め言葉でもクリシェの言葉となればやはり違い。
その額に優しく口付けた。
くすぐったそうにしながら、クリシェはむぅ、と唇を尖らせた。
「でも、ちょっと大きかったですね。お仕事の邪魔になりそうです。もう少し小さいのに作り直しましょうか?」
「大丈夫ですよ。あまり見せびらかすのも良くないですし、普段は内に入れておきますから」
言ってベリーは首飾りを襟首から中へ。豊かな胸元へ落とした。
クリシェはじーっとそれを眺め、真面目な顔で告げる。
「……胸が大きいとポケットみたいに使えて便利かもですね」
「く、クリシェ様……」
ベリーは顔を赤らめ苦笑した。
クリシェは楽しげにベリーの胸に頬を擦りつけ、ベリーの胸は柔らかくて大好きです、などとのたまい。
そして恥ずかしそうにクリシェは顔を上げる。
「さ、さっきの話なのですが……」
「さっきの?」
「その、本当は綺麗が分かるようになったってだけじゃなくて……えと、ま、毎回ベリーとセレネがクリシェのドレス選びで口論するのを、なんとかしたいなって、その……」
「ああ、なるほど。ふふ、ちょっとしたじゃれ合いのようなものですよ」
ベリーはくすくすと笑って、平和を感じるじゃありませんか、とクリシェに言った。
「ドレスだなんて些細な事で、あれが良いこれが良いだなんて言い合えるのは素敵なことなのです。……戦となれば命がけのやりとりに頭を悩ませねばなりませんが、ドレスの口論で失われるのは希望するクリシェ様の衣装だけ。そんな下らないことに頭を使って口論するのは、きっとお嬢さまも楽しいと思っておられますし、わたしもそうなのです。ですから、クリシェ様がご心配されるようなことはありません」
ベリーは指を立て、ご安心ください、などと微笑んだ。
姉と使用人――二人のやりとりが喧嘩に見えて心配しているのだろう、とベリーはクリシェを安堵させるよう語りかける。
クリシェの心配はむしろ、それによって失われる朝食達である。
二人の口論に対してはクリシェも何一つ心配をしておらず、全くもってベリーの説明は的外れであったが、だからと言って朝ご飯が食べられなくなるのをどうにかしたい、などと恥知らずな言葉をオブラートなしで示すことなどクリシェの美意識が許さない。
「え、えと……はい」
「下らないことに全力で悩み、口論する……こういうゆとりを持てるというのが何より素晴らしいもので、平和だからこそ得られる時間です。わたしもお嬢さまも互いを憎み合ったりなどしておりませんし、やはりちょっとしたじゃれ合い――ですから、ご安心くださいませ。本当に喧嘩をしているわけではありませんよ?」
優しく頭を撫でられクリシェは頷く。
流石のクリシェも二人が本気で喧嘩をしているなどとは思っていないが、そうするのが処世術であると弁えていた。
二人がその下らない、ちょっとしたじゃれ合いに全力を尽くすせいで、クリシェがお腹ぺこぺこになるのが嫌なのです、などとは口に出せない。
ベリーが楽しんでいると言うのならなおさら――クリシェの第一はベリーが喜ぶことなのである。
「まぁ今回はわたしの勝利が決まってしまったような気がしますし……ちょっと残念ですね」
「そ、そうですか……」
クリシェは言いつつ、とりあえず先にドレスを決めてしまえば問題は起きないだろう、と自分を納得させる。
今回は当日になって空腹で過ごすなどということはあるまい。
セレネも大人しく引き下がるに違いなく、少し可愛そうだとは思ったが、クリシェとしては自分の朝食の方が大事である。
仕方ない犠牲と納得し、同時に安堵を抱く。
「あのね、元帥と同等の立場のクリシェがドレスなんて絶対おかしいでしょ! 国家として、その顔になる軍人が可愛らしいドレス姿なんて一体誰に見せるつもりなのよ! 馬鹿じゃないの?」
「そうやってお嬢さまはすぐ人格批判に……全く。仮にクリシェ様がご立派で可憐な軍装姿をしていたところで、他国の方から恐れられるどころか侮られるでしょう。ちぐはぐなものを見せるよりはいっそ割り切って、王族としてドレスでその場に臨む方がずっと良いに決まってます。勇猛そうな将軍にはどうあっても見えないんですから、兵の方達が士気を高めそうなドレス姿のほうがずっとそれらしいではありませんか」
「あなたの趣味じゃない! クリシェはアルベリネアで王国最高の名誉爵位を持つ武人なの! ドレスにするならするで、もっと武人らしいドレスというものがあるじゃない!」
「お言葉を返すようですが、それはお嬢さまの趣味でしょう。ほら、クリシェ様が自らお選びになったドレスです。ここは他ならぬクリシェ様の希望を第一とすべきではありませんか?」
「だからやることが卑怯で陰湿なのよ! わたしが軍務で忙しいからってその間にクリシェを籠絡するなんて、それでもあなたは気高きクリシュタンド家の使用人なの!?」
「わたしはクリシュタンド家使用人でも、クリシェ様の側仕えですので、やはり第一はクリシェ様……卑怯だなんて。主人の意向に添うのが使用人の役目……その役目を卑怯などと仰られるのはあまりに暴論ではありませんか?」
「じゃあクリシェに聞くわ。あなたはそれでいいの? わたしの意見なんか興味もなくて、必要もないって?」
「え? うぅ……」
「卑怯なことをなさりますね」
「卑怯なのはどっちよ!?」
だが斜め上の未来はクリシェの安堵を容易く打ち砕いた。