飼い主と犬
「アーカサコス家の血を引くものでありながら、脇が甘すぎる! わかっておるのかファーレ!」
頭を下げ続けるファーレ=アーカサコスに老人は唾を飛ばして吠えた。
先日――アーカサコスの枕元に置かれたナイフ。それからというもの、元から良いとは言えなかった二人の仲は更に険悪なものになっている。
決して父に対する叛意はない。
ナイフは盗まれたものだというファーレの弁明にようやく納得はしてくれたが、当たりは前よりも厳しくなり、頭を下げながらファーレはうんざりとしていた。
「はい、父上。以降は気を付けます」
「気を付けるだと? 二度とないようにしろ!! これ以上わしを失望させるなよ」
この老人の無理難題にどれだけ自分が平身低頭で応えてきたか。
それを思い出せば腹の内を揺らぐ感情が重く感じたが、態度には出さない。
そうして数十年、この老人の下で過ごしてきたのだ。
今更だった。
ようやく老人の怒りがキリの良いところに落ち着いたのを見て、ファーレは顔を上げる。
「……父上、女王の件ですが」
「しばらく動きようがないのはわかっておるだろう。あれはそういうメッセージだ」
「……厄介ですね」
「誰にも気付かれることなく屋敷に入り、王国公爵の首にナイフを置いていく……あの護衛の中をだ。少なくとも女王は、そういう駒を持っている」
吐き捨てるように言った。
アーカサコスはまず内部の犯行を疑い、使用人から出入りしていた庭師に至るまで、全員を尋問し――もちろんファーレも例外ではなかった。
ファーレが家を継ぐことが確定している現状、彼に父を裏切る意味はなかったし、何のメリットもない。少し考えればわかることであったがそれでもこの老人は中々納得しなかった。
全てを見下し、全てに怯える。
王国のアーカサコス公爵はそういう、小さな人間なのだ。
「忌み子のクリシェ……実力が噂通りだと考えるならやはり、あれでしょう」
今回の件をクリシェ=クリシュタンドが行なったのではないかと考えたのは、街の些細な噂話から。
王都を飛ぶ大蝙蝠という、下らない笑い話だった。
魔獣の存在があるためありえない、という話でもなかったものの、王都で魔獣が現れた例はこれまで一度もなかった。
ああしたものは深い森や山に棲むもので、人里に現れることは滅多にない。
しかし、それが見間違えでなかったと仮定して、確かに王都の空を飛ぶ何かがいたとするなら、やはりそれは人間の魔力保有者と見ていいだろう。
暗殺者が屋根伝いに屋敷へ侵入するのは珍しいことではなかったし、噂の発端が何より一級市街であったことから今回の事への関連性は高く――そしてそこで思い浮かぶ人物は一人だけ。
アーカサコス家の繋がりは深く広い。
一流と呼ばれる護衛を雇い、見通しも良く作られたこの屋敷。
そこへ誰にも気付かれることなく侵入し、外へ出る技術を持った暗殺者。
裏稼業の人間でそれだけ腕が立つ者がいるのなら既に金を使って抱き込んでいる。そうでなかったとしても、その存在を知らないということはあり得ない。
これは女王クレシェンタからの警告だった。
逆らうならばいつでも殺してやる、という意味合いの。
「女王陛下はどうにも噂通りの方のようだ。今回の件を考えると、殺されず殺すというのはなかなか難しい。どうされますか?」
「すぐには動けん。しかし動かぬままでは一方的に手足をもがれるだけだ。盤面を変える必要がある」
アーカサコス公爵は目頭を揉むように言った。
「二週間後の会談――そこで種をまく。王国が安定すれば、もはやあれは止められん。それは避けねばなるまい」
王国が一度安定してしまえば、クレシェンタは内側だけに目をやればいい。
自分に都合の悪いものを切り捨てるために動くだろう。
当然アーカサコスの首もそこに入っている。
だが、戦となればそう容易くクレシェンタも動けはしない。
戦の最中に王宮を乱すようなことをすれば、他国の思う壺――アーカサコスを目障りに思えど切り捨てるような真似は出来まい。
古くから王宮中枢にあるアーカサコス家、その人脈は広く深い。
それは女王にとっても有益なものに違いなく、クレシェンタがアーカサコスを始末するのはその人脈を掌握してからと考えるだろう。
暗殺ではなく警告を行なったのはそうした理由であると考えるのは妥当で、ならば多少の猶予はあった。
「……内戦終わってまた戦ですか。諸刃の剣になりかねませんが」
「王都まで攻め入られるようなことはあるまいよ。疲弊したとは言え、王国軍は精強だ。王国のため、彼等は良く戦ってくれるだろう」
老人は悪意に満ちた笑いを零し、ファーレはそれを醒めた目で見つめた。
「――父上にもそろそろ、引退してもらわねばな」
煌びやかな調度品が飾られた応接間。
一級市街にあるナルケス伯爵家の応接間であった。
ナルケス伯爵は自身の屋敷を繋ぎの場としており、多くの貴族がここを利用して表に出せない取引を行なうために利用していた。
裏稼業の人間と会うにしろなんにしろ、貴族には体面というものがある。
疑いの目を避けるため、あるいは証拠を残さぬため。
こうして仲介役を使うのはよくあることで、ファーレもその一人であった。
「……それは」
「そういうことだ。あの女王と対立する道に先がない」
とはいえ、今回話をするのはナルケス伯爵本人。
ナルケス家自体はアーカサコス公爵に取り立てられた貴族であったが、様々な仕事をファーレが代行するようになってからは時間を掛けて抱き込み、ファーレ自身の子飼いとして手にしていた。
仲介をやるナルケスの情報網は広く、アーカサコス家の情報網を牛耳る父に対抗するための手段として丁度良かったのだ。
「このまま父上が権力にしがみつこうとするなら、必ずアーカサコス家は滅ぼされるだろう。それは私にも、お前にとっても不幸でしかない。女王が求めているものは盲目の下僕……我の強いものではこの先、王国で生き残る事はできまい」
ワインに口づけ、ナルケスの顔を眺める。
ファーレの言葉を吟味し、考え込んでいた。
ファーレにつくのが得か、父アーカサコス公爵につくのが得か――ナルケスの頭は今それだけのために働いていた。
多くの貴族にとって保身は何より優先すべきものであり、この男も例外ではない。
見掛けは三十半ば――今年で六十となるファーレとナルケスは歳も近く、親同士の付き合いもあって関係は幼なじみに近いだろうか。若い時分には夢や理想を語り合うこともあったし、趣味から女の好みまで互いによく知っていた。
友情と呼べるものが互いにあって、しかしそれも、利益のためならばゴミのようにあっさりと捨ててしまえるだろう。
油断はならない。
それが貴族というもので、そうでなければ王都では生きられない。
場合によればこの男は容易く自分を裏切り、そして自分もこの男を容易く切り捨てる。
どこまでも寒々しい関係にも思えて、けれど貴族の友情とはそのようなものであった。
「……老けたなナルケス。随分と白髪が目立つ」
「は? ああ……そうですな、老いが早い」
ナルケスは後ろに撫で付けた髪を撫でた。
白髪交じりの髪――まだ三十半ばに見えるファーレと比べれば、ナルケスは老いて見える。歳で言えばファーレよりもいくつか若いはずだが、体質の問題か、あるいは疲れの影響か。
親に隠れ、外に女を買いに行った頃のことを思い出して笑う。
あの頃の色男はもういなかった。そういうことにはめっぽう強く、むしろファーレを引っ張っていくほどであったが――それからの長い年月がその髪に映った。
「いつかは欲がないとお前を馬鹿にしたものだが、私も歳のせいか、同じことを思うよ。……少し疲れた」
「……ファーレ様」
「父ほどに権力への欲もない。王国の高枝に留まり続けるには、多くの労苦を伴う。それだけのことをして得られるものも微々たるものだ」
友人として今は語ろう、とファーレは言った。
「どうあれ、アーカサコス家に先はなく、このまま維持することも難しいだろう。お前も俺も、今後の身の振り方を考えるべき時期が来たということだ」
「はは……田舎でのんびりと、ですか」
「それも悪くはないと近頃は思う」
くく、と笑い、疲れたようにファーレはソファに身を沈めた。
「父上をこの手で殺すのは難しい。返り討ちに遭う公算が高いだろう。……だが、簡単な手段はある」
「……手段?」
「あの女王に理由を与えてやればいい。それならば容易だ」
ワインに口づけ、目を細める。
「既にやりかけていた仕事があるだろう? それを利用してやればいい。……そうすればあっさりと、女王は父上を殺してくれる」
「……と、言いますと」
ナルケスは身を乗り出し、机に両肘を突いてファーレを見た。
「暗殺は失敗――それで構わない。要は、そういうことがあったという事実さえあれば良いのだ。……元々、アーカサコス家の関与が疑われぬよう細心の注意を払ってある。表向き女王にも処罰はできないし、だからと言って無視はしまい。父上が恐怖のあまり暴発したと考えるのは妥当で、であれば今後のために父上を始末するのは妥当なことだ」
ファーレはその目をまっすぐと見返して、続けた。
「精々、奴らの好きな殺し合いをさせてやればいい。その後に私が服従を示し、腹を見せてやれば……アーカサコス家の人脈は女王にとっても悪くないものだ。どのような形になるにしろ、息は繋ぐことが出来るだろう」
女王にとって父は目障りな存在。
できれば殺しておきたいと考えてはいるだろう。
それを選択しないのはアーカサコス家に価値を見いだしているから。
ファーレがそれを提供し、完全な服従を見せるならば、女王もアーカサコス家を潰すような無意味は行なうまい。
平身低頭――そのように生きる事は今更苦でもなかった。
あの老人に頭を下げ続けるよりはいくらかましだろう。
「……少し前まではあの女王が本当に忌み子であるのか疑問に思ってはいたが……事実としてやはり、あれは化け物だ。幼き王子達の死もまた、あれの仕業……それを考えると敵対する道は長くない。血も涙も情もなく、忌み子とはそのような生き物だ。そんなものが王位を得た今、考えるべきはどう尻尾を振るか」
これまでと変わらんな、とファーレは苦笑し、ナルケスも笑う。
「確かに。……これまでと何も変わりませんな、私も、あなたも」
「ああ。変わるのは飼い主だけ……しかしそれで全てが収まるならば、何も言うことはない」
どこか疲れたように告げるファーレに、ナルケスは頷いた。
「いたっ!?」
「はい、クレシェンタの負けです。もうちょっとクレシェンタは覚えが良いと思ってたんですけれど……」
クレシェンタの額にデコピンを入れたクリシェは、長剣を片手にうーん、と考え込む。
額を押さえて涙目になったクレシェンタは不満そうに姉を見る。
広々とした王宮の屋内訓練室であった。
常日頃から姉と過ごす時間をなんとかして捻出しようとするクレシェンタ。
そこで目をつけたのが護身用の訓練という名目であった。
命を狙われる危険を考えれば自分の身を守れる程度には剣を覚えておく方が良いですし、そうすればおねえさま不在の時も多少安心ができますわ――などという建前はクリシェを説き伏せるには十分な理由。
流石にこのお願いにはクリシェも面倒くさいなどと断ることも出来ず、三日に一度程度はこうして、軽い訓練を行なうこととなっていた。
「……わたしからすれば十分すごい上達振りだと思いますけれど」
お茶の用意をしつつ見学していたベリーが困ったように告げ、クリシェはそうでしょうか、と不満げに首を傾げる。
まともに剣も握ったことがないというクレシェンタの上達振りは常人からすれば信じられないほどであったが、あくまで自分と比べるクリシェに取ってはそうではない。
「うぅ、だって剣が重たいんですもの。手も痛いですし……おねえさまはわたくしの額を弾いてきますし……」
「クレシェンタが真面目にやらないからです。知ってますか? 犬を躾ける時は、駄目なことは駄目だって叩いて覚えさせるのですよ」
「……わたくしは犬じゃありませんわ」
おねえさまと楽しくお稽古するのですわ、というのがクレシェンタの目的である。
クレシェンタはクリシェにどこが悪かったのかと手取り足取り教えられるのを喜んでおり、当然訓練には身が入っていなかった。
それでも常人からすれば十分過ぎるくらいの成長ぶりであったが、クリシェというのは自己の研鑽に対しては非常にストイックな生物である。
妹のそうした気の緩みを許さず、どうすればやる気を出すのかと考えた結果、一回負ける度に一回額を弾くという厳しい躾をクレシェンタに施すことを決めていた。
「まったく、クレシェンタは不真面目なのがいけませんね。さっきみたいに踏み込まれたらまず……」
「えへへ、どうしますの?」
だが、効果があるのかと言えば微妙なところ。
確かに額を弾かれるのは地味に痛い。
とはいえそれも我慢出来る範疇で、その後に手取り足取り教えてもらえるというご褒美の方がクレシェンタには大きい。クリシェの躾はあまり上手くいっていなかった。
熱心な振りであれこれと尋ねるクレシェンタ。
基本的に剣を振っている時間よりも講義の時間の方が長かった。
動きづらいドレス姿で――クレシェンタもこの辺りの感性はクリシェと似ており、ズボンの類を嫌う――姉に擦り寄り頬を綻ばせる姿は愛らしく、ベリーはそんな女王の姿を見て苦笑する。
クリシェに甘えるクレシェンタはとても幸せそうで、そういう姿を見ると微笑ましい。
ベリーはこの訓練がクレシェンタの口実であると気付いていたが、特にそれに関しては何も言わなかった。
片手間であっても十二分な成果はあったし、彼女が幸せならばそれで良い。
しかし当然、やるならばもう少し実利のあるものが良いとも考えていた。
「んー……そうですね、クリシェ様。クレシェンタ様には剣の扱いよりも純粋な護身術を覚えて頂いた方が良いのではないでしょうか」
「護身術……」
「はい、女王陛下が剣を持つ、という機会はあまりありませんし……素手や短剣で戦う術の方ですね。剣の扱いは今でも十分過ぎるくらいですし……」
「それですわおねえさま、わたくし、そっちのほうがいいですわ」
クレシェンタは言って、すぐさま持っていた刃引きの長剣を棚に置いた。
長剣を振ることはできても、手の皮は剥ける。
当然痛い。
そしてクレシェンタは痛いことが好きではない。
自分から言いだしたこととはいえ、どうにかしてこの剣を手放せないものかと考えていたクレシェンタは、即座に憎きベリーの提案に乗る事を決めた。
「たまにはアルガン様も良いことを言いますわね。そっちのほうがとっても理に適ってますわ」
「そうですか。ありがとうございます」
ベリーはくすくすと笑って、クリシェは困ったように、クレシェンタの頬をむにむにと引っ張る。
「確かにベリーの言うとおりかもですが……加減が難しいですね。護身術と言ってもどういうのを教えれば良いのか……クリシェの剣を躱すだけだと追いかけっこになりそうですし」
「簡単な徒手格闘だとか……えーと、そうですね……」
ベリーは二人に近づいて、クレシェンタに手招きする。
首を傾げて近づいてきたクレシェンタに、少し失礼しますねと声をかけ、右手を取り、
「ぅえっ!?」
そのまま軽く捻りあげた。
クレシェンタの右腕が伸びきり、その肩を軽く押さえて動きを封じる。
完全に腕の関節が極められ、体勢を崩して倒れかける寸前で止め――抵抗しようとしたクレシェンタが悲鳴をあげた。
「あ、すみません。久しぶりでちょっと加減が……」
「な、何しますの!?」
うぅ、と腕を押さえるクレシェンタをそのまま後ろから抱いて、頭を撫でつつ機嫌を取り、ベリーはクリシェを見た。
クリシェは少し感心したように頷く。
「ああ、そういうやつですね。クリシェ、そういうのはあんまりしないのですっかり忘れてました」
「ふふ、襲い掛かってくる相手への対処としては理に適っているかと。わたしもご当主様から少し教わった程度なのですが、とても理論的ですし」
クリシェは基本的に相手を殺すことだけを考える。
それは単純明快、非常にわかりやすい危険の排除手段であったが、普段はドレスで武器を持たないクレシェンタでは難しい部分もあるだろう。
蹴り一つでもクリシェは普段から補強ブーツを履いているからこそ殺傷手段として用いることができるが、クレシェンタはそうではない。
素人相手となればともかく、鍛えた相手には純粋に攻撃力が不足する可能性がある。
一撃で殺せないならむしろ攻撃は危険が大きい。
相手に掴まれれば体格に劣る側が不利なことは自明だった。
であれば次点として相手の動きを封じるべきで、ベリーの提案はそういうもの。
関節を極めれば、自分より遥かに身体能力に優れた相手であってもどうにかなる。
「感覚的なものよりこういうものの方が、クレシェンタ様にも覚えやすいのではないかと思いまして。……剣も毎日のように訓練なさればすぐに上達するのでしょうが、それほど時間は取れないでしょうし、それよりはこちらの方が一度理屈を覚えてしまえばクレシェンタ様には簡単でしょう」
「うぅ……離して下さいましっ」
うねうねと身をよじるクレシェンタを押さえつつ、ベリーは楽しげに笑う。
クリシェはそんなクレシェンタの頬などを突っつきながら、なるほど、と頷いた。
「じゃあまずは体の仕組みからですね。関節や筋なんかを一つ一つ――」
――そして、一刻ほど後。
剣の稽古をやっていることを聞いたセレネがアーネを伴い入室すると、
「あ、あの……何やってるの?」
「む、むぐっ!?」
ソファの上で両手足を縛られて転がるクレシェンタがそこにいた。
クリシェはうーん、と首を傾げてそれを見ており、ベリーは困ったようにセレネに目をやる。
「え、えぇと……護身術の訓練から縄抜けのやり方にちょっと方向が変わりまして……」
「ほら、クレシェンタ。セレネが来ましたよ。ちゃんと関節を外せば抜けられるようにしてありますから頑張るんです。じゃないとおやつは抜きですからね」
「むぐ、うぅ……」
セレネは額を押さえて深くため息をつき。
アーネは顔を真っ赤にしつつ縛られた女王をまじまじと眺める。
彼女の中で、クリシュタンドの背徳は今や取り返しのつかない場所にまで進んでしまっていた。