終わりの感触
――ガーレンは荒く息をつき、そして対面にあるサルヴァも同様。
歓声が聞こえていた。クリシェがギルダンスタインを討ったのだろう。
ガーレンはその顔を柔らかく、剣を下ろす。
「……これ以降は無意味な戦いだ。降伏せよ」
ミアは警戒を解くことなく、周囲を固めていた。
サルヴァの兵力は少数で、もはや勝敗も決定的。
ここから巻き返す手も、その理由もなかった。
「……そのようですな」
サルヴァはその言葉に、剣を下ろした。
そして兜を脱ぐと膝をつき、両手を腿の上に。
「――どちらにせよ、私は単なる反逆者ではなく裏切り者、死罪でございましょう。……叶うならば戦場で、一人の戦士としてあなたに殺されたい」
ガーレンはその言葉を聞き、そうか、と一言答えた。
そして近づく。
「最期の戦い、その敵として……あなたと戦えたことを光栄に思います。クリシュタンド将軍があなたのことを、隊長と呼んでいた理由がよく分かりました」
ガーレンは死んだボーガンを思い出し、そして目の前のサルヴァを見て、ため息をついた。
「……敵、味方。信念の違いはあれど、良い男たちが失われていく。年々、多くのものが肩に積み重なって息苦しく感じるよ。……これだから戦は好かん」
「……お手間を掛けます」
「いや、これも務め……わしはそういう定めにあるのだろう」
サルヴァの剣を取る。首を刎ねるにはガーレンの小剣は軽い。
「言い残すことはあるかね」
「……出来るならば、罪は私だけに。家族は愚かな父に巻き込まれただけです」
「善処しよう。戦士として恥じない最期であったと、そう伝える」
サルヴァは頭を下げ、首を晒した。
「ありがとうございます」
「……ああ」
ガーレンは剣を振り上げ、振り下ろす。
骨の隙間を刃が通り、頭が転がる。
側にいた兵が布を手渡し、ガーレンはそれで首を包んだ。
「……勝利の旗を立てろ。戦は終わりだ」
「は!」
「戦場は落ち着きつつある。手の空いている者から負傷兵の手当てを。戦は終わり、同じ王国民――敵味方を問わず、助けられる者は助けよ」
ガーレンはミアに近づき肩を叩く。
「誰がなんと言おうと此度の戦い、殊勲はお前達だ。……よく頑張った。休んでいい」
「……はい」
ミアは震え、けれど拳を握って耐えるように、指示を出し始めた。
夕暮れ――キースリトン軍本陣。
「行けるぞカーリス!! 右手はキースの軍団に任せろ、お前は俺の後ろだ!」
「は!!」
グランメルドの声に第一大隊が突破口を切り拓く。
敵本陣、最後の守り。
敵前衛を突破したグランメルドを止めるものなどもういない。
大鉄棍を振り抜き、遮るもの全てをなぎ倒し。
その姿に狼の群れは続く。
――そして。
「流石と言うべきか……ヴェルライヒ相手にこの軍では、流石に分が悪すぎたな。まさか一日持たんとは」
「まぁ、不憫に思いはしますがね。この程度の兵で、俺の軍団によくもまぁ粘ったもんだ。とはいえ……これは戦、言い訳はない。ここで死んでもらいます」
狼に対するは、竜を象る銀鎧。
古将フェルワース=キースリトンは長い白髭を撫で付け、落ち着き払った様子で満足げに頷く。
「はは、それでこそ戦士というもの。この勝負、お前達の勝ちだ」
「あぁ……? ……そりゃ、降伏するってことですかい?」
「少なくとも、我らが戦う理由は消えたようだ。見たまえ」
グランメルドは眉を顰め丘を見る。
丘にある本陣――そこには戦闘中断を求める青旗が三本。
それは聖霊協約に基づく交渉を望む場合などに使用され――この場合であれば、
「どうにも、王弟殿下は討たれたようだな。……クリシュタンドはボーガンを失えど、その力は失わず。元より際どい戦いであったが……そうか」
戦闘意義の消失。
セレネ側の決着がついたと、そう知らせるものであった。
「……旗手、こちらも青旗を出せ。停戦に応じる」
「は!」
グランメルドは呆れたように嘆息し、肩を落とす。
「ち、ようやく本陣まで抜いたってのに、すっきりしねぇな……」
「くく、どうにも一手遅かったようだな。この老人の首には、女神の加護がついているらしい」
「はぁ……何をしてたのかもわからなくなりますよ、全く。カーリス、俺の兵を殺させないよう気を配れ。しばらくは落ち着かん」
「は。……全く、災難ですな」
「ああ、クリシェ様を恨みたい気分だぜ」
そうして、ヴェルライヒ軍側の戦闘も終結する。
数万の死傷者と、多くの将を失ったアルベラン王権戦争。
その戦いは王弟ギルダンスタインの死亡――第一王女、クレシェンタ=ファーナ=ヴェラ=アルベランの勝利という結果を迎えた。
クリシュタンド側は敗戦の兵士達にも酒を振る舞い、盛大な宴を催した。
敵味方あれど同じ王国民。
旗は違えどそこに罪はないものとし、混乱を最小限に食い止める。
指揮官に対してもその扱いは同様で、反逆者に対する扱いは非常に甘くあった。
これは王女殿下の慈悲、という名目であったが、王国は内乱で多くを失っている。
これ以上の損失を増やすことを避けたのだった。
正当な処罰を与えるほどに、王国には余裕もない。
事前に処罰は最小限に抑えるよう話が決まっており、それに倣った形であった。
「いつの間にかいないと思ってたら……何してるの、カルア」
「あー、ミア、いやね、ちょっと静かに飲みたかったからさぁ」
ミアが天幕に入ると、カルアは椅子代わりの樽に腰掛け、一人で酒を傾けていた。
既に随分な量を飲んでいるらしく、カルアの顔は赤い。
珍しく、随分と酔っていた。
勝利を祝い、死者を見送るための宴。
明日、集めた死体をまとめて焼くことになる。
クリシェも参加し、宴は意外なほど明るく――皆無理をしながら笑っていた。
話題の中心は死んだ者達のことと、クリシェのこと。
場がしんみりとしないように、という気遣いもあったのだろう。
クリシェの活躍を誰もが褒め称えた。
多くの死者を出し、ナキルスには翻弄され、ギルダンスタインは討ち取れず――そんな自分達の無力さを思ったためかも知れない。
あれだけの死闘を潜り抜けながら、自分達の手柄を誇るものはいなかった。
けれど、
『クリシェは最後にちょっとお手伝いをしただけです。あの場、あの状況――クリシェがいなくても状況は優位にありましたし、それはこの隊の活躍があったからでしょう。セレネを守るというクリシェの命令をがんばって果たしてくれました』
クリシェはそんな事を言い、
『死んだ人達に言ってあげられないのは残念ですね。クリシェの命令を無視して死んだ命令違反者ですから、褒めたり叱ったりしたかったのに。……お馬鹿です』
そう続けた。
ジュースに近い酒を傾け、目を伏せて。
いつも通りの無表情、でも『お馬鹿』という言葉に込められた意味を誤って受け取るものはいない。
ミアも、彼女に言われたお馬鹿という言葉――その本当の意味にそこでようやく気が付いた。
クリシェは体調不良であったらしい。
その辺りで気付いたカルアが呆れた様子で彼女を連れ出し、将軍の天幕へ連れて行くことを告げ、しばらく。
ご褒美のちゅーはまだかとミアがあちこちから迫られている間にも帰って来ず。
ミアは途中でそれに気付いてその場から逃れるように、彼女を探して天幕に戻ってきたのだ。
カルアは酒を注ぎ、あおる。
空の酒瓶がいくつも置いてあった。
どう見ても飲み過ぎで、ミアは酒瓶を掴むとカルアの手の届かないところへ置いた。
「何すんの」
「体壊すよ、そんなに飲んだら。だから没収」
「一日くらいいいじゃんか。あたしはぐっすり寝たいんだ」
「……もう十分でしょ」
「十分じゃない」
ミアはむっとカルアを睨むと、酒瓶を掴んで一気に傾ける。
ほんの少し零しながらも全部を飲みきり空にすると、カルアの前――テーブル代わりの樽に叩きつけるように置いた。
「……これで終わり」
「はぁ……何ムキになってんの」
呆れたように、小馬鹿にするようにカルアが言い、ミアはその目を見返した。
「カルアのことが心配だから、ムキになってるの」
カルアは一瞬固まって、目を逸らした。
怒られた子供のような仕草だった。
いつもとは、逆。
「……話して」
膝をついて言った。カルアはしばらく何も言わなかった。
戦いの後、ミアへした報告は簡素なもので、単なる業務報告。
何があったのかも聞いていない。
しばらくすると、カルアは諦めたように口を開いた。
「アドルとケルスはキーニッツ達と一緒に、捨て身でギルダンスタインの足止めをして死んだ。俺達ごと撃てって弓兵に言ってさ。格好いい死に様じゃないかな」
欠片もそう思ってはいない口調で、カルアは言った。
班を組んでから、ずっと一緒に行動してきた。
そんな仲間を目の前で失って、平気でいられるはずもない。
「上手くはいって、でも仕留めきれなかったみたい。傷だらけになりながらも追って来て、バグは周りが見えてなかったあたしを庇って真っ二つだ。……あたしに惚れてるなら、生き残って格好いいとこ見せて欲しかったとこだけどね」
苦笑して、目を伏せる。
「その後はガイコツ軍団長が来て、アーグランド軍団長が来て……うさちゃんがあっさりギルダンスタインを斬り殺して、おしまい。……これで全部かな」
「……わたしが聞きたいのは、そんなことじゃない」
「これ以上何が聞きたいのさ」
「カルアが我慢してること」
言って、カルアの頭を抱く。
しっかりとした、剣士の体。けれど今はどこか華奢に感じた。
「何? いつもの仕返し? あたしを泣かせたいの?」
「泣かせたいの。おかしい?」
「……おかしいね」
くすくすと笑って、カルアもミアの背中に手を回した。
「どうせ慰められるなら、もうちょっと胸にクッションがあるほうがいいなぁ。ぺたんこだから顔がちょっと痛い」
「……うるさい。文句言わないの」
「……ふふ、ミアだから仕方ないか」
カルアは楽しげに言って、息をつく。
「正直、もっとやれると思ってたから、悔しい。……一人相手に十五人掛かりで逃げ回るハメになるなんて、欠片も思ってなかったよ」
「……そう」
「強いのは分かってた。一人じゃ勝てないだろうなってさ。……でも将軍もいて、百人隊でも精鋭を集めて……あたしもいて。うさちゃんには勝てないけれど、あたしだって、もっと出来ると思ってたの」
少し傷んだ――けれど美しい黒髪を撫でた。
背中を掴んでくるカルアの手に力がこもる。
「うさちゃんが来て、呆気なくギルダンスタインを殺して。終わったら普段通り、お子様みたいに笑って将軍に抱きついてたよ。……お手伝い、なんて言ってたけどさ、うさちゃんにとっては本当にそれくらい簡単なことだったの」
今は熱を出して寝込んでるけどね、と笑って続けた。
「あたし達じゃ全然太刀打ち出来なくて、仲間を犠牲にして逃げた相手を、本当に呆気なく。あんな化け物相手だって、うさちゃんはあっさり勝てちゃうの。……うさちゃんがもしあたしの代わりにあそこにいたなら、誰一人死なずに勝ってたんだろうなってわかってさ」
「……うん」
「あたしは、何してたんだろって思ったの。……うさちゃんとまではいかなくたって、せめてギルダンスタインに対抗出来る力があったなら、少なくとも、あの場の誰も死ななくて済んでたのに」
顔が押しつけられて、胸に何かが染みてくる。
震える肩は小さく見えて、そのままぎゅっと抱きしめる。
「……カルアのせいじゃない」
「慰めは――」
「違う。わたしのミス」
ミアは強い語調で言った。
「わたしが後一班、カルアのところに回せれば良かったの。でも、できなかった。……少なくとも敵の……ナキルスだっけ、大男が来るまではそれが出来たはず。隊長――ダグラさんならきっとできてた。そうしたら、軍団長が来なくたって全部終わらせることが出来たかも知れない」
「そりゃ、結果論じゃない」
「そう、結果論。でも手こずってた時点で判断はつけられた。わたしの方にはあの時多少の余裕があった。優先順位が間違ってたの。あの場では何よりも、将軍とカルアの方を優先するべきだったの」
いい? と言ってミアは続ける。
「隊長はわたし。死んだ人達の責任は全部、指示したわたしの責任。……断じて、一兵士のあなたの責任じゃない」
「……らしくないこと言わないでよ」
「いっつも責任おっかぶせてくるのはカルアでしょ。カルアのせいでわたしが隊長と軍団長に何回頭叩かれたことか、もう思い出せないくらいなんだから」
ミアは笑って、抱く手に力を込めた。
「こういうときだけ、ずるいよ。カルアの方がらしくない。……わたしに迷惑掛けて、責任おっかぶせて、カルアはそれでいいの」
「……ミアって変態なの?」
「うるさい……うぅ」
そこで手から力が抜けて、ミアがそのままへたり込む。
顔が真っ赤になり、目が潤んでいた。
「……強くもないのに一気飲みなんてするから」
「だって……」
「仕方ないな、もう」
カルアは目元を拭うとその体を抱き起こす。
毛布を敷いただけの簡素な寝床に運んで、優しく下ろした。
「迷惑を掛けてるのは一体どっちだか」
「……えへへ、一緒に寝てあげようか?」
そう言いながらミアはカルアを抱き寄せた。
カルアは苦笑し、その柔らかい栗毛を撫でた。
「本当、ミアって酔うと抱きつき癖あるよね。おねえさん心配」
「そんなことないもん。……寝るの? 寝ないの?」
「……はいはい、わかったよ」
カルアが横になるとミアは頬を緩め楽しげに微笑む。
「……カルアはそんな風に、わたしを馬鹿にしてるくらいで丁度いいの」
「はぁ……自分が何言ってるのかわかってんの?」
「わかってないかも……うーん……ともかく、それでいいの」
カルアは苦笑し、ミアの唇を押さえた。
もう喋ってないで寝なさい、と呆れたように告げると、ミアは頷き、顔を寄せ。
「っ」
「……おやすみなさい」
そうふにゃふにゃと言って目を閉じた。
カルアは顔を真っ赤に口を押さえて硬直し、寝息を立てだしたミアを睨む。
しばらくそうして寝顔を眺め、嘆息し、
「……今度からミアには酒を飲まさないようにしとかないと」
脳天気な顔で眠るミアの額をつついて、カルアもまた、目を閉じた。
――二日後、セレネの天幕。
「はぁ、全く。熱が治まったばっかりなのに。……こっちに向かって来ている所なんだからもう少し待ちなさいよ」
「……だって、もうずっと会ってませんし」
「大袈裟。……たった一ヶ月じゃない」
「一ヶ月も、です」
クリシェは唇を尖らせ、セレネは頬をつまんで引っ張る。
「……ふぅん、どうしても行くんだ? 忙しくて大変なわたしを放って、クリシェは自分がベリーに甘えたいからって行っちゃうんだ?」
「う……」
「そうよね、なんだかんだ言いながら、わたしなんかよりベリーのところの方がずっといいものね。本当はクリシェ、わたしのことなんて嫌いなんでしょ?」
「ち、違……」
途端に視線を泳がせ、迷い始める。
セレネはそれを見てくすくすと笑い、うーそ、と彼女の頭を撫でた。
「冗談よ。クリシェは十分過ぎるくらい頑張ってくれたもの。体に気をつけて行ってきなさい」
「……セレネ」
「また王都で会いましょ。ベリーとクレシェンタには元気にしてたって伝えてちょうだい」
「……はい」
クリシェは背伸びをしてキスをすると、頬を緩めて微笑む。
セレネもまた同様、その銀色の髪を名残惜しむように撫でた。
本心では寂しくあったが、とはいえ、セレネには山ほど仕事がある。
クレシェンタが来る前に、王宮をある程度整えておく必要があった。
「軍団のことはキースに任せてます。何かあれば大体のことはキースが」
「ええ。そう言えばエルヴェナは?」
「荷物の準備をしてくれてます。エルヴェナはカルア――黒の休暇に合わせてしばらく休ませようと思っているので、それまでセレネのところで使ってください」
黒の百人隊はこちらで運用していた半数近くを失った。
元々予定していたものではあるが、しばらくの休暇を与えておきたい。
「わたしも少し落ち着いたら、後で改めて礼を言いに行くわ。随分助けられたというか、あの隊がなければ負けていたでしょうし」
「はい。想定していた最悪のケースとは言え、無理をさせすぎました。……もうちょっと上手くやれれば良かったのですが」
聞いた状況から考えれば、想定以上に黒の百人隊は働いていた。
とはいえ、犠牲を出しながら――見覚えのある顔がいくつも消えていて、何とも言えない感情がある。
どうすれば良かったのかと結果論ならいくらでも考えることが出来たが、それはあの状況では博打。
結局選択肢のなさが安全策を選ばせ、そして当然の被害を生んだのだ。
「各々ができる限りのことをやった結果、ある程度は仕方ないって割り切るしかないわ。メルキコス軍団長の損失も痛いけれど……」
セレネはため息をつく。
抵抗を続けた第三軍団――クリシェはテリウスが生存していると見ていたが、討ち取られた後であったらしい。
長くクリシュタンドを支えた軍団長。
その死の影響は決して小さくはない。
「……おじいさまが死ななくて良かったです」
「本当に。ガーレン様にもすごく助けられたわ。わたしは助けられてばっかりね……様子、見て来たんでしょう?」
「はい、一応アーネが頑張ってました」
ガーレンは無理をしたのだろう、クリシェと同じく体調を少し崩した。
妙にやる気を出したアーネがお任せくださいと身の回りの世話を行なっており、ここのところずっとそちらに張り付いていた。
「お任せください、なんて言ってましたけれど……おじいさまに迷惑を掛けていないか、クリシェちょっと心配です」
「……ガーレン様はアーネを随分気に入ってらっしゃるようだから、大丈夫だと思うけれど」
何事にも一生懸命、アーネの美点だけをガーレンは捉え、よく出来た娘だと彼女に対してはべた褒めであった。
要領が良いというより、あまりにも出来すぎなクリシェやベリーを見て来たがために、却って彼女のような普通な娘が親しみやすいというのも理由にあるだろう。
元より酒以外に食事や飲み物への拘りもなく、クリシェの母――グレイスが不器用だったこともあり、ガーレンにとっての普通は基準が低い。
そんなガーレンに対して当然、アーネはよく懐いていた。
ベリーという使用人をずっと見て育っただけに、目の肥えたセレネはアーネに対して色々呆れるところがないではなかったが、とはいえその相手が満足しているのならばそれは良いのだろう。
「ま、大丈夫でしょう。……それよりまさか、歩いて行く気じゃないわよね?」
「荷物を運ぶのに馬は一頭借りるつもりですけれど……もう馬に乗るのは懲り懲りです。私用で馬車を使うのも問題ですし……」
「そうやって避けてるからいつまで経っても慣れないのよ。わたしだって最初は痛かったけれど、慣れたら平気よ」
「……慣れるまででも痛いのは嫌です」
「聞き分けのない子」
ぐに、と頬をつまんだ。うぅ、と唸る。
軍人となるような人間、普通なら何回も怪我を繰り返したりして痛みには強くなっていくのだが、クリシェは訓練で怪我をすることなんてない。
その影響もあるのだろう。
クリシェはいつまで経っても痛いことに慣れず、我慢強いだけで非常に痛がりだった。
必要なければ我慢することを嫌い、頑固でもあり、その辺りは彼女の可愛い欠点の一つと言えるのかも知れない。
「クリシェ様、準備が整いました」
「あ、はい」
天幕の外からエルヴェナの声。
同じく馬の鼻息が聞こえて、セレネと共に天幕を出る。
そしてクリシェはその場で立ち止まった。
馬を引き、敬礼するのは見覚えのある男。
この前助けた伝令であった。
「…………」
そして体格の良いその馬にも、何やら見覚えがある。
「先日は助けて頂きありがとうございました。馬を探しにいらっしゃったので、是非先日の馬をと。いやぁ、手のつけられない暴れ馬と有名な奴だったようで……連れて帰るのも大変でした」
「そ、そうですか……」
「先日の鮮やかな乗りこなし振り、颯爽と現れた姿……今でも目に浮かびます。先ほどまでは興奮していたのですが、流石、こうして主人を目にすると落ち着いて……」
しみじみと語る男に対し、クリシェは馬から視線を逸らす。
「……クリシェはその馬の主人じゃないです」
「はは、ご謙遜を。このような馬に認められるのは、生まれ持っての才覚というものですよ」
馬は嫌そうな顔をしたクリシェの前に進むと、その横腹を見せた。
そしてぶるん、と鼻息荒く、背中の鞍を首で示す。
「一応、この前敷かれていたクッションを真似して乗せてあります。荷運びだけとは聞いているのですが、それでは勿体ないですしね、この馬なら旅には持って来いでしょう」
ずい、と手綱を突き出される。
なんとなく別の馬が良かったが、括り付けられた荷物の手前、嫌などとは言えない。
渋々受け取るとセレネは尋ねた。
「サイズがちょっと違うけど、ズボン、貸してあげようか?」
「いいです、乗りませんから」
まるで言葉を理解するように、馬はぶるん、鞍を示した。
そしてずい、と身を寄せる。
「……の、乗りませんからね」
クリシェは馬を睨んでそう告げる。
――その後、クリシェは歩くのが遅いと言わんばかりにアピールを繰り返す馬に屈服。
クリシェは結局、横乗りで旅をすることとなった。
――それから更に数日。
ベルガーシュ城砦の横を通るのは、地平線まで届きそうな行軍縦列であった。
皇国軍、4万がなす縦列。
その縦列の中でも黒塗り鎧の兵士と騎兵が囲む箱馬車の中――
「……退屈ですわ」
「もう少しでお昼ですから、お休みなされては?」
「寝過ぎて疲れましたの!」
頬を膨らませ足をぱたぱたと揺らす第一王女、クレシェンタの姿があった。
赤に煌めく金の髪を両手で掴み、不機嫌そうにベリーを睨む。
対する赤毛の使用人、ベリーは楽しげに視線を落とし、手を動かす。
毛糸で縫われているのはマフラーだった。
一つ一つを丁寧に潜らせ、形を整えていく。
「んー……では、クレシェンタ様もいかがでしょう?」
「嫌ですわ、面倒くさい。マフラーくらい売ってるものを買えばいいんですわ」
「その面倒が良いのですよ。自己満足ですけれど……こうして丁寧に、着ける方の気持ちを考えて……ふふ、寒くなってきましたし、白いマフラーもクリシェ様にきっとお似合いになると思うのです」
「……一体いくつ作る気ですのよ」
これから寒くなるから、などとベリーは既にいくつもマフラーを編んでいる。
灰色、茶色、緑色――どれも似合いそうだ、などと言いながら、放っておけばその内ほとんどの色を網羅しそうな勢いであった。
「ようはおねえさまの点数稼ぎをしたいだけでしょうに」
「愛する方に喜んで頂けるよう、点数稼ぎをすることはおかしいことでしょうか?」
クレシェンタはますます不機嫌にベリーを睨み、ベリーは楽しげに笑う。
膨らんだ頬を指で押し潰して、いけませんよ、と微笑み言った。
「折角のお顔が台無しです、笑顔ですよ、笑顔」
「……あなたは楽しそうでいいですわね。ずーっと暗い顔してらしたのに、おねえさまが勝利したと分かった途端にやにやにやにや。アルガン様には秘密にするよう言っておけば良かったかしら」
「まぁ、意地悪なことを仰って。……ん、こんなところですね」
マフラーを持ち上げ、広げ、ほつれがないことを確認する。
両端をレースにしているだけで、特に柄をつけているわけでもない。
シンプルなもので、丈夫さにこだわっていた。
クリシェはどちらかといえばシンプルなもの――実用的なものを好むため、変に装飾にこだわるよりはそちらの方が良いと考えたのだ。
出来映えに頷くと、ふとベリーは閉めっぱなしの窓に目を向ける。
「……どうしましたの?」
「いえ……」
そちらを見たのは、なんとなく。
しかし少しすると馬の声が響き、周囲が騒がしくなり、兵士達から声が上がる。
声には少女の名前が含まれていて、
「もう、ぶるるん、しばらく大人しくしておくんですよ。……久しぶりですね、キリク、ちょっとぶるるんをお願いします」
「は。ぶるるんと言うのは……その」
「この馬の名前です。呼ぶのに不便でしたからつけました」
ベリーはその声にマフラーをぎゅっと抱いた。
そして馬車の扉を開く。
「っ……」
丁度クリシェは護衛の班長に手綱を渡していた。
そして彼女はベリーを認めると、ぱぁ、と花開くような笑みを浮かべる。
助走もつけずに飛び跳ねて、ベリーの胸に飛び込んだ。
その勢いにベリーは椅子の上――に座るクレシェンタの太ももに尻餅をつき、悲鳴が上がる。
「ベリーっ、元気でしたか?」
「……はい。クリシェ様こそ、お怪我はありませんか」
「えへへ、はい」
ぎゅう、とベリーは手に力を込め、華奢な体を抱きしめた。
クリシェには痛いくらいで、けれど幸せそうに笑みを浮かべる。
それを見ていた周囲のものも、その姿に内乱の勝利を実感し、笑いあい――ベリーの尻と背中に押し潰されるクレシェンタだけが苦悶の声をあげていた。
「……これからは、また、ずっと一緒です。沢山お料理したいです」
「はい、もちろんです。ふふ、クリシェ様がいらっしゃらない間に色々と皇国の料理も覚えまして、クレシェンタ様と一緒に――あ」
ようやく気付いたベリーが腰をあげると、顔を真っ赤に憤怒を浮かべたクレシェンタがそこにあった。
「こ、こ、この……っ、使用人の分際で、わ、わたくしの上に尻を乗せて――」
「ああ、そう言えば、久しぶりですね、クレシェンタ」
「そう言えば……?」
クレシェンタは硬直し、目を潤ませる。
クリシェは気にした風もなく。
「お、おねえさま! わたくしがどれだけ頑張って――」
「……何怒ってるんですか、もう。駄目ですよ」
クリシェは言って扉を閉めると、クレシェンタにキスをする。
ベリーの膝の上に跨がりながら、その頭を撫でた。
「良い子良い子」
「……そ、そんなことでわたくしの機嫌は……」
言いながらも既に怒気は半ば消失している。
上目遣いに頬を染め、自分の頭を撫でるクリシェの手を見ていた。
「も、申し訳ありません、つい気付かずお尻を……」
自分のしたことに気付き、頬を染めたベリーは謝罪をし、
「……そんな言葉で許されると思ってますの?」
そんなベリーをクレシェンタは睨み付け、
「クレシェンタ」
そんなクレシェンタに、クリシェが一言横目で告げる。
クレシェンタはうぅ、と黙り込んだ。
そこで思い出したように、クリシェは首に掛けた小袋からキャンディを一つ取り出す。
「……ちゃんと、ベリーの所に帰ってきました」
「はい、ずっと、お待ちしておりました」
そして、それをベリーの唇に押しつける。
くすりと笑ってベリーはそれを口に含み、出来上がったばかりのマフラーをクリシェの首に巻き付けた。
クリシェは少し不思議そうにその感触を手で確かめ、頬に当て、嬉しそうに笑う。
温かいです、とベリーの胸に顔を押しつけ、
「……ただいま、です」
それから少しの間を空けて、身を預けたままそう続けた。
その言葉にベリーはその瞳を潤ませ、伏せて、こぼれ落ちそうな雫を拭う。
頷くとクリシェの身を起こさせ、その頬に手を添えると笑顔を浮かべ。
「はい。……お帰りなさいませ、クリシェ様」
長い睫毛を揺らして瞼を閉じると、ゆっくり顔を近づけた。
その言葉に偽りがないことを示すように、口付けは長く。
滲んだキャンディの蜂蜜が甘く香る。
どんな果実よりも甘いキスは格別のもので、愛情に満ち。
――それはクリシェに取って、長い戦の終わりを告げる感触だった。