立ちはだかるもの
※一尺30cm程度、一間=六尺(1.8m程度)
本陣から逃走するセレネと、それを追うギルダンスタイン。
だがセレネは未だ、第四軍団との合流を出来ずにいた。
どうにもナキルスの連れてきた兵の一部が、乱戦にあぶれながらもこちらを認め先回りをしてきたのだ。
足の速い魔力保有者が三人、騎兵が十五。
右手右翼側に方向転換するが、こちらの救援に向かってきていた第四軍団の兵士達もまたそれに振り回される。
第四軍団弓兵が既に射撃体勢を整え待ち構えているが、そちらもセレネ達とギルダンスタイン達の距離が近すぎ、援護できずにいる。
「おい十班、いいか?」
第十班班長、キーニッツが粗野な笑みを浮かべて尋ねた。
「……了解ですとも」
「いつでもいいぞ、班長」
班員は口々に答えた。
セレネはその問いかけに意味を理解し、渋面を作る。
「……あなたたち」
「十班だけじゃ心許ないな、ケルス、どうだ?」
「ああ、わかった」
第一班、アドルの声にケルスが答える。
カルアとバグが二人を睨んだ。
「役割分担だ。別に死ぬ気じゃねぇよ。俺達と十班であのイカレ野郎の首を獲りに行くだけだ。まだ体力の残ってる三班とカルア達は、手柄をあげる俺達を見ながら指を咥えて駆けっこの続きをしてりゃいい。……そうだろ、キーニッツ?」
「ああ、もちろん。そういうことです、将軍。許可を」
セレネは走りながら拳を握り締めた。
皆、セレネと同じような顔でその提案を聞いている。
邪魔が入りはしたものの、ほとんど十五対一の戦いであった。
それでもギルダンスタインを仕留めきれず、不利を悟って逃げているのだ。
その半数で敵う相手ではないことは確実で、そして死ぬことも避けられないだろう。
「……わかったわ。ありがとう」
礼を述べる。
セレネにそれ以上の言葉は思いつかなかった。
「バグ、わかってるな、抜け駆けはするなよ!」
「ちっ、くそったれ。わかってるよ!」
涙声を隠すように、バグは叫ぶように言った。
カルアは目を伏せ、笑う。
「……生きて帰ってきたら、ほっぺにちゅーくらいしてあげるよ」
「最後までひでぇ女だな。……将軍を頼んだ」
「……、うん」
「……行くぞ」
キーニッツの声にアドルとケルスは離れる。
そしてすぐさま、アドルが叫んだ。
「第四軍団弓兵!! 構うことはない――俺達ごと射抜けッ!!」
アドルは相棒ケルスと共に、第十班に続く。
想像以上に心の中は静かであった。
隣のケルスに視線をやる。ケルスもまた、どこか落ち着いた様子で目線が合う。
長いような短い付き合い。
隊商護衛で偶然出会い、酒場で意気投合。
それから数年、コンビを組んで仕事をした。
俺達の腕なら一稼ぎ出来るんじゃないか、と軍に志願し、
『手前から二番目、三番目は黒です。今日は黒が多くていいですね』
入ったのは黒の百人隊。
軍団長副官直轄、特殊百人隊。
これは幸先がいいと笑って、出世が見え。
けれどその結末はここなのだ。
名誉も大義もどうでもいい。
金。金が稼げりゃそれでいいだなんて笑い合っていたはずなのに、どうしてこんなことになっているのか。自分で自分が分からない。
落ち着いているのが不思議であった。
「この状況から生きて帰ったらちゅーだってよ。けちな女だ」
「一晩付き合ってくれるなら気も変わったんだが、ご褒美がそれじゃあな」
ケルスが笑って答える。
「帰る気がおきねぇ、俺が先に行くぞアドル」
「ああ、すぐに行く」
アドルも笑って頷いた。
接敵間近――目の前にはギルダンスタイン。
真正面から七人で。だというのに、勝てる気はしなかった。
右手から走り寄るのは騎兵と魔力保有者。
どちらも精鋭、邪魔になる。
「おいキーニッツ!」
「わかってる! ランド、ラクル、右だ!」
「了解っ!」
十班から二人が飛び出しそちらへ。
魔力保有者が三人。騎兵は十五騎。二人は死を前提とした足止めだった。
とはいえそれは全員同じ。
この場にある全員が死兵であった。
背後――第四軍団弓兵は弓を引き絞っている。
それが放たれる一瞬を稼ぐための――しかし、その前にぶつかる。
「……邪魔だ、どけ」
地の底に響くような声だった。
ギルダンスタインの声は張り上げるでもなく、良く響いた。
命じ、実行させ、強要する。
威圧するような王者の覇気が、その声を臓腑にまで響き渡らせる。
踏み込んだこちらに対し、ギルダンスタインは大戦斧を大振りに構え――
「っ――キーニッツ!?」
そう感じた次の瞬間には振り抜かれていた。
第十班、班長の胴は袈裟に断ち割られ、その隙間をギルダンスタインは抜ける。
この男を相手に拮抗を保っていたのは、十五対一という状況であったため。
時間を稼ぐために無理を禁じて踏み込まず、連携を保ったからこそ。
それが崩れたこの状況では、勝ち目など万に一つもないことを改めて理解する。
第一班、第三班、第十班。
選ばれたのは無作為ではない。
黒の百人隊――そこにある二十の班でも上位五指に入るものが選ばれた。
加え頭一つ抜けたカルアに、同等のセレネ。
あわよくば殺しきれると踏んでいたが、目算は随分と甘かったのだろう。
ある一線を越えた魔力保有者は、その他と隔絶した力を持っている。
その場に、自分を頂点とした空気を作りだしてしまうのだ。
たった一人で戦場の流れを変え、周囲を巻き込む。
その場に荒れ狂う嵐を生み出すのだ。
先ほどまでの時間稼ぎも、その間ずっと心を削られているのを自覚していた。
死にかけたのは何度か――心は疲弊し、安易な道に体を導く。
いっそのこと、その嵐に身を任せ、殺されてしまえば楽になれるのだと。
セレネが逃走を決断しなければ、そう掛からずにその誘惑の餌食になっていただろう。
――どうあれ、犬死にを避けられたことに安堵する。
少し遠くで一斉に弦が弾け、無数の風切り音が響くのを耳にして叫ぶ。
「ケルス!」
「おう!」
ケルスはギルダンスタインの左手から。
そして、親友の剣が届くよりも先に大戦斧が唸りを上げた。
トマトが弾けるような音――真っ二つになる胴体。
何の音かは理解していた。誰がそうなったのかも理解していた。
けれどそれに意識は向けない。すぐに行く。
持っていた剣を投げつけながら踏み込み、真正面。
ギルダンスタインは大戦斧を振り抜いている途中、投げた剣が躱される。
行ける、と判断し、
「が、っ……!?」
その瞬間、足に走ったのは激痛。
大戦斧の柄が両足を払っていた。姿勢が崩れる。
足に力が入らない。折れていた。
だがそれでも手を伸ばし、ギルダンスタインの足を掴んだ。
全力でしがみつき、動きを止める。
もうこれで、矢の雨は避けられない。
「ち……っ」
腰から下が消える。
何が起きたのかもわからない。恐らくその大戦斧で引きちぎられたのだろう。
だが、それでもアドルはしがみつく。動きを止める。
もはや、意識はほとんどなく――それでも、この矢が降り注ぐまでは、と。
一斉に弾ける弦の音――風切り音。
セレネ達はそれを聞きながらも背を向ける。
しばらくして無数の矢は大地に突き立ち、悲鳴が上がる。
その内のどれだけが、彼等の声かは分からない。
けれどそのおかげで距離を離すことが出来る。
「っ……!?」
「足止めをしろ!! 殿下はまだ生きておられるぞ!!」
セレネ達の前に投げつけられたのは無数の槍。
左手前方を見る。叫んだのは軽装歩兵の百人隊長。騎兵が数十。
合流よりも先にぶつかることは間違いない。
「……逃げ切れないわね。進路左、正面から抜けるわ。脇から来られるよりマシ」
「りょーかい。前はあたしに任せてください」
踏み込み、前へ。
体力的にも消耗している。
けれど走らねば、先の犠牲が無駄になる。
時間を掛けるわけには行かなかった。
ぐん、とカルアの頭が消え、更に深く。
隣にいたカルアが地に顎を擦るような姿勢で加速する。
真っ先にバグがそれに続き、セレネ達も続いた。
接触は一瞬。
低姿勢から一気に踏み込んだカルアは騎馬の足を大曲剣で撫で斬りにする。
その先にはカルアを狙う槍――バグの放ったナイフがその持ち手を殺す。
「は、投げ飛ばされて心配してたが、ぴんぴんしてるじゃねぇか」
「当たり前でしょ。あたしを誰だと思ってるのさ」
カルアは言って、横薙ぎに。
まずは騎兵、その運動力を消失させる。
その先頭を崩して隊列を団子にしてしまえば、騎兵などは脅威でなくなる。
殿となった男たちのことからは意識を逸らした。
斬り込み、進む。できることはそれだけで、自分がやるべきことはそれだけだった。
横薙ぎ。馬の首を刎ねる。
袈裟に眼前の兵を断ち切って、左手で馬上から転がり落ちかけた男の首を掴んだ。
そのまま押し潰す。首の肉がひしゃげて、抵抗が失われる。
槍を構えた敵の前に、その肉塊を叩きつけて返してやる。
槍の穂先に死体が突き刺さり、敵の動きが止まる。カルアは体を沈み込ませる。
死体が地面に落ちる前に、その下を潜って切り上げ。返し。
二人を殺して更に前へ。
敵兵の顔面を掴み、振るわれる剣の盾にする。
肉盾は悲鳴を上げて死体に変わる。血が飛び散る。顔に掛かる。
構わない。そのまま叩きつけた。骨の折れる音、更に一人を殺す。
――黒の百人隊の鉄則は連携。
けれど、こちらの方が慣れていた。
自分一人の命を賭けて、複数を相手に殺し合う。そういう日常は長くあったから。
「出過ぎだ馬鹿」
隣の敵が死ぬ。命を奪ったのは小剣――バグのもの。
「馬鹿に馬鹿って言われたく、ないね!」
大曲剣を横薙ぎに。
重く鋭く、鎧ごと断ち切れる。振り回すには使い勝手は良かった。
「……アドルとケルスが一抜けしたんだ。あたし達が先行しないでどうすんのさ」
「全く、惚れるぜ」
「前も言ったけど、あたしはあんたに惚れないよ? 趣味じゃないし」
「……お前なぁ」
呆れたようにバグが嘆息し、それでいながらカルアの真横に迫る敵を狩る。
バグは入隊三日目にカルアへ無理矢理迫ろうとし、ぼこぼこにされた男であった。
裏稼業上がりのバグはそれから心を入れ替え、カルアを口説き落とそうと狙っている――などというのは半分真実を帯びた隊の笑い話。
「まぁその内、俺の魅力に気付くだろうさ」
「鏡を見てから言った方がいいと思うけど」
「男は内面って奴だ」
カルアが鼻で笑い、前へ。
第一班ではカルアとバグが先行組、アドルとケルスがミアの護衛。
無茶をするカルアをサポートするのはバグの役目で、カルアが進めばその脇をバグが抑える。
器用に小剣二刀を扱うバグの腕前は隊でも上位。
視界の広さが何よりも強みで、カルアが後ろを任せるのはいつもバグであった。
口ではどうあれ、信頼している。
カルアは踏み込み、斬り伏せる。
先ほどまでより斬ることに特化した、威力と速度を重視した一刀。
その隙を狙っていた敵の首に、バグの刃が突き立つ。
阿吽の呼吸、敵の腕利きが狙える隙をわざと作り、自分を狙わせバグに始末を。
第一班の二人組は、並の兵では止められない。
だが、それにしても今日は勢いがありすぎた。
アドルとケルスの死。
平静を装いつつも、カルアの剣はいつもより鋭く、踏み込みは半歩深く。
嫌な加速であった。
バグは孤立を懸念し後ろを振り返り、
「少しは後ろも気にし――カルアッ!!」
「え?」
そして、バグはカルアを突き飛ばす。
何をして――けれど文句を言うより先に、バグの体が吹き飛んだ。
胴の上下が二つに分かれ、転がる。
そして、その前にいた敵兵も巻き添えを食らうように千切れて死んだ。
通ったものは鋼の大戦斧。
転がるカルアは一瞬呆けて、後ろに目をやる。
肩で呼吸をしながら、腕と足には無数の矢。
大量の血を流しながらも、腰の大剣を引き抜き、セレネの側の一人が殺される。
先ほどまで元気に喋っていた、バグの死体に目をやる。
事態を理解して、感情の全てを押し殺す。
幸いながら、大戦斧は敵兵ごとバグを殺した。
敵にも混乱が生じていることを見て、カルアはその隙をつき後方へ戻る。
ギルダンスタインから距離を開いたセレネの隣へ。
「――どう転んでも、この辺りが終着点だな」
ギルダンスタインが構えるのは王家の大剣。
返答を待つことなく剣が揺れた。
更に一人が反応する間もなく、胴を袈裟に裂かれる。
左肩から右の脇腹まで――骨と革鎧をバターのように。
ギルダンスタインが正中に構えた剣は、尚も王者の剣。
剣を構えた相手が振りかぶる前に、その命を容易に奪う最速の剣であり、鎧ごと相手を引き裂く荒々しい剣技であった。
高貴さとは無縁な簡素な鎧に身を包み、全身から血を溢れさせた満身創痍。
それでもなお、眼前の相手を畏怖させる気迫と眼光。
「分かれて!!」
カルアが叫び、全員が硬直から解け跳躍、距離を開く。
ギルダンスタインの剣はまだ生きていた。
それを囲むように、全員が訓練通りの間合いを取る。
正面はカルア――けれどギルダンスタインは構わず踏み込み、剣を振るう。
唸る風の音。轟音。剣圧。
込められた威力はどれほどのものか。
頭の先から兜ごと、股下までを両断してなお止まらぬだろう。
手負いのものとはとても思えない一閃であった。
咄嗟に後ろに跳躍してそれを躱し――脇腹を走るのは衝撃。
「なっ!?」
カルアを蹴ったのはセレネ――体が横に流れ、そしてその場所を影が通過する。
ギルダンスタインの眼前に踏み込んだ影は、その剛剣と一合打ち合い、距離を開いた。
「……血迷ったかファレン」
「はは、この老いぼれも約束がありますゆえ、こうして御前に」
ギルダンスタインと同じく、簡素にすら見える鎧に身を包み、骨の浮き出たような邪貌に笑みを。
エルーガ=ファレンは長剣を手に立っていた。
「お前如きが、俺に時間稼ぎをできるなどと思っているのか?」
「無理でしょうな。先ほどの一合で手が震える有様……久しぶりに走ったせいか、骨も軋んでくるようです」
カカカ、と笑い声をあげて、腕を振る。
速く、鋭く。
奇襲的なものとは言え、ギルダンスタインが受けを選択せざるをえない一撃。
それを十全に振るえていたのは昔の話。
エルーガに二合目はない。
それを分かった上で、エルーガは笑う。
「しかし、殿下もその怪我――状況が見えておられないようだ。……これでもう、時間は稼ぎ終えました」
そして指で示すは本陣。そちらでは歓声が響いていた。
ギルダンスタインは一瞬そちらに気を向け、
「っ……!」
――跳躍する。彼が意識を向けた方向とは真逆。
飛来したのはエルーガの、第四軍団の兵列から届いた白兵槍であった。
ギルダンスタインのあった大地を穿ち、それと同時に兵列を割って出たのは大柄な体躯の男。
血に汚れた、虎を象る銀鎧。
手に持つは、常人では持つこともできぬ総身鋼の大戦槍。
大地に足をめり込ませながら疾走し、彼等の前に踊り出る。
「いやぁ、間に合ったようですな。これで間に合わぬとなれば、俺も将軍に顔向けが出来ないところでした」
コルキス=アーグランドは力強く笑う。
セレネはほっとしたように息をつき、後ろへ下がる。
「遅いわよ、コルキス」
「走るのは苦手なんです、鎧のせいで地面にめり込んじまって……まぁ、でも、ここからはご安心を。クリシュタンドの番犬が、主人の危険を払いましょう」
「ふふ、心強いわ」
セレネは笑い、ふっと目を細めた。
未だ剣を手に、戦意を失わないギルダンスタインがそこにいた。
矢傷を負い、体中から血を流し――父の亡骸を思い出す。
そこにあった、無数の傷痕。
恐らく父も。
英雄ボーガン=クリシュタンドも、こんな風に傷だらけになりながら戦ったのだろう。
「……もはやこれまででしょう、殿下。降伏を。いくらあなたが強いと言っても、こうしてアーグランド軍団長が現れ、あなたは手負い。この状況では勝ち目がありません」
セレネは形ばかりの降伏を求めた。
頷かないであろうことは理解している。
血を噴き出しながらも、諦めずに剣を手に。
理由は矜持か、別なものか――
「この程度の傷と状況で降伏しては、お前の父に顔向けできんな」
少なくとも、目の前にあるのは一人の戦士であった。
「あれは良い闘いであった。誇るといい、お前の父はまさしく英雄――戦士であった」
少なくとも、父はこの男と戦士としての戦いを行なったのだろう。
――だから後悔なく、その目は最期に笑って見えたのだ。
「殿下!!」
叫び走り寄ってくるのは先ほど邪魔をしたボロボロの百人隊。
咄嗟にカルア達がそちらへ構え、
「……そこで良い、クラリアス」
ギルダンスタインは手をそちらに向け、彼等を静止させる。
「お前達は見届け人だ。……生きて残れば遊んで暮らせる褒賞を用意してやるとは言ったが、その約束はどうにも果たせそうにないな。命が残るだけ良いと思え」
「っ……殿下」
ギルダンスタインはくく、と笑い、大剣を肩に担ぐ。
コルキスが真剣な顔で一歩前に出る。
「将軍の仇――その男の最期が無様なものではなかったことを、心の底から良かったと思います。……俺が相手となりましょう、王弟殿下」
ギルダンスタインはコルキスに目をやり、コルキスは槍の穂先を突きつけた。
その場の誰もが息を呑み、しかし。
「お前では役者不足だな、アーグランド」
「……何?」
「戦場にあって、勝利というただ一つ……その目的を阻んだものはお前ではない。俺の最大の敵として――立ちはだかるものは、お前ではない」
ギルダンスタインは空を見上げ、天頂に近づく太陽に目を細めた。
寒空にあって熱気があり、熱を帯びた風が体を撫でた。
「――先ほどの歓声。いかなるものかと考えた」
ギルダンスタインはその太陽に手を伸ばすようにしながら、続ける。
「ナキルスが突破に成功したならば、この状況はまだ分からぬ。俺の勝利の目は残っていた。だが、あちらはお前達の本陣。ナキルスが連れてきたのは小勢――あれの突破ではあれほどの歓声はあがらぬ。仮にそうだとしても、既にここに来ているはずだろう」
拳を握り、太陽を掴もうとするように。
「つまり、ナキルスは死んだというわけだ」
ギルダンスタインはそう告げた。
「だが、ナキルスは俺の信頼する男だ。少なくとも、あの状況で討たれるとは思わない。這ってでもここに来るだろう。……別の要因がなければな」
そして頬を歪ませた。
「まさか、昨日の今日で既にこちらへあるとは思わなかったが……初日でもう俺の影を討ったか。決して、侮っていたわけではないのだがな……」
本陣から踊り出る影。
鎧兜も身につけず、銀色の髪と外套を揺らし。
それはあっという間にここまでの距離を走り抜き、立ち止まる。
ギルダンスタインは振り返る。
――勝利する気でいた。
竜の顎でボーガンを討ち取った時点で、勝利はこちらに傾き。
王宮を掌握し、兵と将を手にすればもはや勝利は見えていたのだ。
だがクラレ=マルケルスは時間稼ぎにもならず。
無敗の将軍アウルゴルン=ヒルキントスは返り討ちに遭い。
命懸けで手にしたはずの竜の顎を、僅かな時間で失った。
そして今日には、彼女の作った百人隊に手間取り、致命的な時間を食い。
だから、この少女は――クリシェ=クリシュタンドは、ギルダンスタインの前に立ちはだかるものとしてこの場に立っていた。
スカートを揺らした少女は小首を傾げて眉を顰め、セレネに目をやる。
「セレネ、降伏ですか?」
「……いいえ。あなたとの決闘を希望しているわ」
「……決闘?」
ますます不可解そうに、不思議そうに。
クリシェは紫色の目を冷ややかに細め、ギルダンスタインに視線を向けた。
「あれだけ逃げ回っておいて、ちょっと意外ですね。あなたはそういう、よくわからない美意識にこだわる人間だとは思っていなかったのですが」
くるくると手の内で曲剣を回し、笑みを浮かべる。
「でも安心してください。クリシェはちゃんと、約束を守ります。あなたがどういうつもりでも、どんな人でも――クリシェは必ず殺してあげます」
無機質な瞳が輝くように。
微笑を浮かべながらも、その目だけは笑っていない。
冷酷な殺意だけが滲んでいた。
「それで良い。……戦えばお前が勝つ。それでもお前はこの場において、俺の命を賭けて挑むべき相手なのだろう」
笑って、ギルダンスタインは剣を構えた。
正中、正眼。両手をその大剣の柄に。
変幻自在の剣の軌道。
――それを操る右手は天を。
その軸となり、土台となるのは柄尻。
――剣に調和をもたらす左手は地を。
あらゆる攻撃への対応を可能とする正眼は、全ての敵に対する剣。
王者の剣は天地の全てをその剣に収めることを理念とする。
ギルダンスタインの構えは見事なまでに美しく、まさに王者の構えと言えた。
「そうですか。逃げないなら何よりですね。クリシェはもう、この戦いにはうんざりでしたから」
対するクリシェは右手に剣を持ちながら、構えない。
彼が作る天地、世界に対して自然体。
天地を統べる王者の剣に対して、無垢にして無形であった。
彼女の剣は、何ものにも囚われる事なき狭間の剣。
ギルダンスタインの作る天地、王者という人の理の外にある。
彼女は無空。
技を極めるのではない。
力を手にしているのではない。
あらゆる剣技を超越し、その瞬間における最善を生じさせる。
無形――その在り方そのものが彼女という理であった。
「あなたを殺せば全て終わり――それで、全部すっきりです」
大地に身を沈めるような、そんな踏み込みは滑らかに。
間は五間。
――既にそこは、クリシェの間合いであった。
並の剣士ならば気付いた時には首を刎ねられているだろう。
彼女の踏み込みは荒々しさの欠片もなく、ただただ静謐であった。
静から動への変化が存在しないように見え、動いているのに動いているとは思えない。
意識の隙間を抜け、まるで彼女との距離が――空間そのものが縮まるようであった。
だが、対するギルダンスタインには辛うじてそれが見えていた。
時間が引き延ばされるような感覚。水の中にいるかのように重たく感じる体。
全身に傷を負い、疲労し、コンディションはむしろ最低だろう。
しかしだからこそその後の生を捨て、極限までこの状況へその全神経を集中させることができた。
音は聞こえなくなり、視界は色褪せたように。
その体、これまで培ってきた全ての能力がただ、クリシェの動きにだけ向けられている。
滑らかなクリシェの踏み込みに反応が遅れ、けれどすぐに気付く。
致命的な遅れではない。
クリシェは一歩で三間を詰めた。
踏み込もうとすれば五間を踏み込むこと容易だろう。
そこで足をつくのは、ギルダンスタインがどのような攻撃を行なっても対応するため。
そうやって、常に彼女は先を取るのだとギルダンスタインは理解する。
彼女がギルダンスタインの真正面、そこで大地につけたのは左足。
ギルダンスタインは剣先を右へ揺らし、クリシェはそれに一瞬で反応する。
進む先はギルダンスタインの左側面。
――だが、それは偽攻だった。
彼女がギルダンスタインの左側面へ踏み出すべく体勢を整えれば、反転。
ギルダンスタインは剣を大きく左に傾けた。
彼女は左足をついている。
その状態で重心を右に傾けているのだ。
もう左手には逃げられない。
ギルダンスタインが全身全霊を込めて繰り出すのは横薙ぎ。
ここまで培ってきた全てを込めた、最短、最速。
彼女が避けられぬはずの一撃。
剣で受ける他ない――だが、彼女はそこから跳躍する。
右足を大地につくことなく、左足で跳ぶ。
そして、足場にしたのは自身に向かって振るわれる、ギルダンスタインの大剣であった。
横薙ぎ、上を向いた剣の腹。
そこに右足を叩きつけるように、踏み下ろす。
「っ――!?」
ギルダンスタインはその怪力で堪えようとする。
クリシェの体重は軽い。持ちこたえられるはず。
だが、クリシェは常に自身の最大を使う術を身につけていた。
跳躍に掛けた力は最低限、剣を踏める高さに持って行っただけ。
体重の全てをその右足の一点に集中――ギルダンスタインの剣は大地にめり込み。
――そして更に、左足で剣の上に踏み込んだ。
王者の剣を大地と見立て、足場に。
それは十分な力を、自分の持つその曲剣に伝えるため。
いつの間にか彼女の右手に剣はない。
左手に持ち替えられていた剣が鋭く、ギルダンスタインに刃を走らせる。
腰の捻り、それが描く刃の螺旋。
刃の上であって損なわれる事なく、剣閃に描かれるは美しき死の軌道。
視線が合う。
無機質な紫色が見開かれ、ギルダンスタインの全てを捉えていた。
その全てを見透かすように。
首に刃が触れ、裂けていく。
王国旗が遠く、目に映った。
――天へと突き立てる剣の紋章。
けれどギルダンスタインの剣は天ではなく、大地に突き刺さっていた。
目の前の少女はそれを踏みにじるように、剣の上に立っている。
生まれ落ちてから最初で最後。そんな敗北の瞬間だった。
首を払われ、意識が消えてなくなる前に。
この世の全てを見て笑う。
あるべきものが、あるままに。
信じた全ても、裏切られた全ても、何もかもが頭から消えていく。
ただその中で、自分を殺す者の姿に目を向けた。
彼女こそが神の子――忌み子と言う名のアルベラン。
――歪み狂いし王家の始祖、その正統なる後継者であった。
少女は首を払って、跳躍する。
ギルダンスタインは膝をつき、ただ、声なく笑う。
笑う自身を見て、小首を傾げる少女の姿はどこまでも美しく。
魅入られるような、無垢なる魔性を帯びていた。
竜の顎で出会ってから、全てを賭けて挑んだ。
この少女に勝利するため、他の全てを放り出して。
だがそれでも足りなかったのだ。
自身の望みのためならば、前に立ちはだかるもの全てをねじ伏せる。
王とは力。
この少女ならば、天にすら剣を突き立ててみせるのだろう。
紛い物の自分をただ笑い――そうして、意識を手放した。
――セレネは目の前で起きた一瞬の勝負を目にし、瞼を閉じる。
静寂に満ちていた。
わかりきっていたような結末。
あまりにも呆気なく、あっさりと――セレネを苦しめた仇敵は地に伏せる。
「えへへ、終わりましたよセレネっ」
クリシェは死体に構わずセレネに飛びついた。
もう、と叱るように頬をつまんで、周囲を見渡す。
カルアはギルダンスタインの死体を呆然と眺め、拳を握り締める。
口をきゅっと引き結んで顔を伏せた。一人がその震える肩を叩く。
コルキスはギルダンスタインの剣を手に取る。
このような場合であっても、ギルダンスタインは王国大公爵。王弟である。
王族であり、同じ王国民が首を晒して回るなどと言うことは許されない。
エルーガは意気消沈した周囲の敵兵に、静かな声で武器を捨てるよう促していた。
父のことを思い浮かべて、目を閉じ。
セレネはクリシェの頭を撫でながら、コルキスに呼びかける。
「……コルキス」
「は!」
声を掛けるとクリシェは途端に抱きつくのを止め耳を塞いだ。
響くのは、大気を振るわすコルキスの声。
「王弟殿下の首は正統なる決闘の上、英雄ボーガン=クリシュタンドがご息女――クリシュタンド軍第一軍団長、クリシェ=クリシュタンド様が手ずから討ち取り、その仇を取った!! これ以降の戦闘は正々堂々たる決闘により勝負を決したお二人に対する侮辱であると心得よ!! 以降、一切の戦闘を禁ずる、双方剣を納め、速やかに戦闘を取りやめよ!!」
そして、少しの間を空け叫び、
「この戦い、アルベラン第一王女殿下と我々――クリシュタンド軍の勝利である!!」
――その声に、歓声が大地を揺るがした。