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ひらりと舞うもの

※一尺30cm程度、一間=六尺(1.8m程度)、一里=400mほど

ヴェルライヒ軍は右翼にクリシェとグランメルドという戦力を集中。

ギルダンスタインの影武者を討ち取り、初日にして敵右翼の一万近くを削り取った。

問題であったヴェルライヒ軍中央はクリシェの一人駆けを目にし、士気は最高潮。

倍する敵の猛攻を受け止めて崩れず、必死の抵抗を見せる。


だが問題は左翼。

右翼側の活躍を聞いて彼等も猛攻を仕掛けるが、こちらは古将フェルワース=キースリトンによって勢いを殺され、手痛い打撃を受ける。


ヴェルライヒ軍3万7000は3万に。

ギルダンスタイン軍改め、キースリトン軍は4万5000から3万2000。

中央で削り合い、互いに右翼で勝利を収める形となったが、総合的に見ればヴェルライヒ軍が大きく優勢を取る。

こちらの損害7000に対し敵は1万3000。

兵数差は2000。

未だ兵数としてはキースリトン軍優位にあったが、兵の質ではヴェルライヒ軍が上回る。

差が縮まれば必然、圧倒するのはヴェルライヒ軍であった。


夜の軍議ではノーザンを含め、全ての者がクリシェとグランメルドの活躍を褒め称えた。

敵陣に対し鮮やかなる中央突破。

クリシェの一人駆けという『演出』が中央の士気を高め拮抗を生んだ面もある。

戦果は軍団長を二人に影武者――将軍代行、今日のクリシェの武勲は史に刻まれるべきもので、


「……ありがとうございます、でも頑張ったのはわんわんですよ。クリシェは突破のお手伝いしただけですから」


とはいえ当の本人は困ったようにそう告げる。


「そう言われても俺が困りますが……確かに前へ出たのは俺の軍団だが、ああもあっさり突破出来たのはクリシェ様のおかげです。突破のお手伝いとは言いますが、あんなのを手伝いでこなせる人間はこの天下にクリシェ様しかいないでしょう」


呆れたようにグランメルドが答え、クリシェは唇を尖らせる。


「だって、わんわんと違ってクリシェは目的を果たせていませんから」


だがどれだけの言葉を掛けられても、クリシェには欠片の興味もない。

軽く礼を述べる程度で無関心。

自身の挙げた絶大な戦果――けれどクリシェに取ってそれは最低限、当然のものであって、それ以上のものではない。

結果としてギルダンスタインを討つという本来の目的を達成出来てはいないのだから、クリシェの基準としては決して褒められるものではなかった。


「……セレネがちょっと心配です」


そして、ギルダンスタインの所在が未だ掴めてない。

落ち着かなさそうにクリシェは椅子を揺らし、目を伏せる。


「お気持ちは分かりますが……報告を待つほかありませんね」

「……わかってます。セレネだって想定はちゃんとしてるはずですから」


グランメルドもクリシェの様子を気にするように、戦果に対して上機嫌という表情ではなく、考え込むように腕を組んでいる。


ギルダンスタインがセレネの側に走ったとなれば大事――だが、それに振り回されるわけにはいかない。

そう見せかけてこちらに隠れ潜んでいる可能性は十二分にある。

クリシェはその報告を待つため、ここに残っていた。


ノーザンは抜け目ない。

金を厭わず出自も問わずに募兵するギルダンスタイン軍には、兵站から一兵士に至るまで多くの間者を忍ばせていた。

少なくとも今晩の内に確度の高い情報がもたらされる。


だが――ノーザンがこうして彼女を引き留めているのは、半ばクリシェに対する心配である。

3万対3万2000。

差は大きく縮まり、ノーザンには勝利が見えていた。

仮にギルダンスタインが隠れ残っていたとしても、もはや負けはないという自信もある。

本当のところで言えば、彼女に残ってもらう必要はない。

今日彼女が挙げた戦果はそれほど十分なものだった。


個としての彼女の力は極まっている。

今回の彼女個人の働きを戦場における影響力という点で見て取れば、それだけで『狼群』のような精強なる一個軍団に匹敵しよう。

彼女は文字通り、規格外の怪物と言えた。


しかし当然、その活躍に比例して負担は体へ確かに残る。

グランメルドと共に、ろくに休息も取らず戦場を駆け回ったのだ。

共に行動出来る直轄部隊、黒の百人隊もいなかったことの負担もあるのだろう。

無表情なその顔にも、隠しきれない疲れが滲んでいる。

セレネの下へ走りたがるクリシェに、間者からの報告を待つよう告げたのはそれが理由――彼女を休ませるためだった。


『……情けない話なんだけれど、あの子の体調には気を使ってあげて。超人に見えるけど、体は普通の女の子なの。魔力の扱いが上手だからそれで誤魔化すけれど、体力だってあなた達ほどあるわけじゃないわ。お馬鹿だから平気な顔で無理するの』

『はは、いつもそうやってあちこちにクリシェ様のことで声をかけているのですか? 心配性というべきか、なんというべきか……麗しい家族愛ですね』

『う、うるさいわね。いいでしょ、妹のことなんだから……っ』


クリシェの初陣――凄まじい活躍を見せた先日の神聖帝国との戦。

あの後クリシェが高熱を出し、重く見たボーガンに帰らされたことは知っていた。

魔力保有者は体内の魔力を操る。常人に比べれば丈夫とはいえ、だが結局の所、基本となるのはその肉体であった。

魔力を扱うものであっても筋力鍛練を行い、体を鍛え上げる理由は色々とあるが、その一つは健康維持のため。エネルギーを貯蔵するためとも言える。

体重で言えばノーザンの半分もないだろう。

痩せ身で背丈もなく、彼女の体は本来戦場に耐えられるものではない。

魔力を用いなければ、兵の振るう長剣すら扱うのは困難だろう。


その無理をただ、才覚と魔力によって成立させているだけ。

同じく最前線を走り回り、大戦棍を振り回して戦っていたグランメルドの方が体力的には余裕があった。

長年戦場を戦い抜いてきたグランメルド達とは、肉体の完成度が違いすぎるのだ。

見掛け以上に重い疲労があるのは間違いない。


少なくとも彼女は自分を二の次にする人間で、許可すれば食事を取ることも休むこともなくセレネの所へ走るのではないかと思われた。

クリシェの能力に対し疑うものはないが、しかし体調不良となれば不安は出てくる。

一度少し休ませて、落ち着かせてやるべきだった。

彼女をこのまま行かせるわけにはいかない。


体調管理など初歩の初歩。

軍人が何より先に学ぶべき事柄である。

そういう点で、やはりクリシェはまだまだ子供なのだろう。

信じられないほどに強く、けれど危なっかしくもあり、どうにも不思議な少女であった。


「明日の方針に関して、大きな問題はありません。クリシェ様の場合体力回復を優先したほうがいいでしょう。今日のところはお休みを。明朝に報告します、どうあれ、ここを出るのはその時に」

「……はい。キース、クリシェが出る場合、軍団長代理を命じます。そのつもりで」

「は。承知致しました」


ノーザンは頷き、キースに告げる。


「君はこのまま残ってくれ。詳細を詰めていく」

「は」

「では、クリシェ様」

「はい。ありがとうございます、ヴェルライヒ将軍」


クリシェはそう言って席を立ち、天幕を出て行く。

それを見送ったグランメルドが言った。


「……いやはや、肩を並べてその活躍を見ていただけに、ああいう様子を見るに同一人物とは思えんな。なんというか、調子が狂う」

「気性はむしろ、お優しい方なのだよ。むしろあちらが本当で、ほんの子供……」


ノーザンは自嘲するように言った。


「我々はそんな子供におんぶに抱っこというわけだ。あの方がいなければ竜の顎からここまで、こうも上手くはいっていない。……恥じるべき事だ」

「確かに。……こうもお膳立てされて、これ以上情けないところは見せられませんな。俺の軍団は明日も動ける。キース、お前の所はどうだ?」

「は。我が第一軍団は損害軽微、疲労も薄い。前面に出しても問題はありません」


グランメルドは愉快げに笑い、狼のように歯を剥き出しにした。


「よし、それでこそだ。将軍、再び俺達に主攻を。あの爺さんを驚かせてやりますよ」

「爺さんではなく、キースリトン将軍だ。敵とは言え口を慎めグランメルド。……とはいえ、いいだろう、明日もお前を使う。行くならば決める気でいけ」

「ええ、もちろん。兵の質は今日でよく分かった。やってみせましょう」







――そうして翌朝、クリシェの下に報告がもたらされる。

夜も明けぬ時間に身支度を調え外套を。

一晩休んだことで、クリシェの疲労はいくらか回復していた。

昨日休むことなく戦ったせいか、体には微熱。

気怠さもあるが差し障りの問題もない。


荒間にあった若干の苛立ちや不安も随分と落ち着いていた。

思考は明瞭。不安が尽きることはないが、とはいえどうなったとしても、セレネが殺されることはないだろうとも考える。


ギルダンスタインがセレネを執拗に狙うのは、クリシェに対する人質を取るため。

ギルダンスタインは不愉快な男であったが、少なくとも馬鹿ではなく、損得を考える――クリシェやクレシェンタのように実際的な人間に見えた。

大義名分などより、利益を取る。利益のために大義名分を利用する人間だ。

セレネを殺すことにギルダンスタイン側のメリットは何一つなく、デメリットしかないのだからあの男はセレネを殺さない。


もし手遅れなら戦を――クリシェはセレネとクレシェンタの望みを諦める。

隠れて成り行きに任せ、セレネを救出。

ベリーとクレシェンタを連れてどこかの山にでも逃げる。

しばらく不便はあっても、それでいい。

後のことはどうとでも出来るのだ。


そう考えることで、クリシェの心は落ち着いていた。


クリシェはノーザンに、セレネの所へ向かうことを告げ、キースのところへ一瞬顔を出し。

そうして第一軍団の大きな馬を一頭借りて、軽い荷物を括り付ける。

荷物の大半は昨晩の内に用意をしていた。


「じゃあ、エルヴェナ。色々危ないですから、あんまり動き回らないように」

「はい、クリシェ様。クリシェ様の方こそお気を付けて……ご武運をお祈りしています」


やりとりはそこそこに、そうしてクリシェは馬に跨がり走り出す。


走ればクリシェの方が速いのだが、とはいえ百二十里。

体力は無限ではない。全力疾走でとなれば、流石にクリシェの疲労が大きい。

そのため、途中で乗り捨てるつもりで馬を使うことにしたのだった。


馬の鞍にはたっぷりとクッションを敷くことで尻の痛みを防ぐ。

裾が良く開くタイプの短めなスカートにしたおかげで、跨がることにも問題ない。


準備万端、そうしてクリシェは草原を疾走する。


朝焼けの中進む彼女の姿は一枚の絵のように見え――るはずであったが、そこで彼女にトラブルが起きた。

風のせいで異様にばたつくスカートである。


「っ……もう」


ばたばたばたと猛烈な向かい風、短いスカートであったのも問題だろう。

まくれ上がるスカートを片手で押さえ、馬上で何度も座り直し。

いかにも間抜けな姿であったが、クリシェは品行方正な淑女を一応目指す少女である。

太ももどころか下着まで丸出しにしながら走るというのは彼女の美意識が許さない。


一面の草原、誰が見ていなくともクリシェが見ている。

であれば彼女は妥協しない。

馬に限界のペースで走らせながら、クリシェは必死ではためくスカートと格闘する。

短めで裾も広く――馬に乗るためのスカートは、むしろここに来ては下着を見せつけるために存在するのではないかという荒ぶり方であった。

一瞬、砦に置き去りにしてきた乗馬ズボンのことが頭に浮かぶ。


『一応持って行くだけ持って行きなさい、もう。嫌なのは分かるけれど』

『クリシェは長距離移動ですから荷物は少ない方がいいですし、馬に乗らないから平気です。太ももの間がごわごわしますし……ズボンは男の人の穿くものです』

『あのね……ああ、もう。いいわよ、好きになさい。下らないところで頑固なんだから、後悔しても知らないわよ』

『……クリシェはズボンなんかで後悔なんてしません』


その時のやりとりを思い出し、クリシェは首を振る。

後悔はしていないと自分に言い聞かせた。


積み重ねられたクッション。

これがクリシェの尻の高さに影響し、風を悪化させていることに途中で気付いたが、しかしこれはクリシェに取っても生命線。

馬車に馬――クリシェにとって最大の敵は肉付きの薄い尻への衝撃である。

馬に乗るならクッションを捨てるわけにはいかない。

さりとて、下着を晒しながら走り回るのもいかがなものか。


「むぅ……仕方ない、早めに乗り捨てましょうか」


結論はそう決まる。

そもそも馬は好きではない。

この馬を更に限界まで走らせて、それから乗り捨てすれば良い。


多少の疲労は多少の疲労。元より走る気であったのだ。

距離をある程度稼げば、馬の役目はそこで終わり――だったのだが。


「……、なかなか頑張りますね、あなた」


――問題は馬である。

馬は強靱だが、所詮生物の範疇を超えないもの。

一日二百里、場合によれば三百里を走り抜くとはいえ、全速力で走らせれば十里も持たず力尽きる。

そのため駈足で走らせつつも、馬をなるべく疲れさせぬよう時折速歩や並足で休ませるというのが普通であった。


ただ、乗りつぶす気でいるクリシェは構うことなく、最高速――襲歩で走らせ駈足で休ませるという、馬に対して情の欠片もない走りを強要している。

精々、行程の五分の一程度でもいい。

それだけ走ってくれれば十分、馬の足が折れようが死のうがどうでもよいという考えであったが、適当にクリシェの選んだ馬は稀に見る名馬であった。

無尽蔵とも思える体力――限界かと思って乗り捨てようとすれば、鼻息荒くまだまだだと言わんばかりに草原を風のように駆ける。クリシェのスカートは風の抵抗をモロに受けてバタバタと暴れる。

もしやクリシェへの嫌がらせを目的としているのではないか。

そうクリシェが邪推してしまうほど強靱な名馬であった。


「うぅ……」


男性からすれば半分かそれ以下。そんなクリシェの体重もあるのだろう。

どうあれ馬が走れると言っている以上、スカートがめくれることを理由に降りるわけにも行かない。体力温存という目的に関して言うなら十分すぎる頑張りである。

そうして馬と風――はためくスカートとの戦いは長く続いた。


その戦いの終わりが見えたのは、剣戟音を耳にしたとき。


遠くに見えるのはこちら側――セレネの伝令。

襲い掛かっているのは、ギルダンスタイン側の騎兵であった。

敵騎兵は二人、恐らく伝令狩りに散っている騎兵だろう。

こちらの伝令は一人。


見た以上放置するわけにも行かない。

クリシェはそちらに馬を走らせ、飛び降り、首を裂き。

そうして二人を処理してやると、伝令は窮地を救ったクリシェに感謝の意を告げる。


話によるとセレネの軍団は元の地点から大きく西に移動しているらしい。

敵軍もそれに伴い西へ移動したのを見て、まっすぐ抜けてきたものの、この草原に散らばっていた伝令狩りの騎兵に運悪く捕まってしまったとのこと。


「事情はわかりました。となると、随分東に来てしまったみたいですね」


セレネ達は元々キールザランの東で戦っていたため、そちらを目指して走っていたのだが現在位置は真逆の西側。道の都合もあって走り出しで東へ進路を取ったのであったが、失敗であったかとクリシェは唇を尖らせた。

とはいえ、東に走っていなければここで伝令と会うこともなかったのだ。

結局無駄足を踏むところだったことを考えれば、早めに気付けて良かったとも言える。


「ええ、道は――」

「平気です。覚えてますから。……あ、そうです」


連れてきた馬に目をやる。

鼻息荒く、力の限りを振り絞ったのだろう。

しかし、まだその瞳には力がある。


「この子も連れて帰ってあげてください。クリシェ、馬のこと分かりませんけれど、随分良い馬みたいですから」


乗りつぶすつもりでいたものの、馬というものは非常に高価なもの。

これだけ走る馬ならなおさら乗りつぶすには勿体なく思えた。


「はぁ、ですが、クリシェ様は……」

「走って行きます。あなたの報告内容もこちらにとってそう重要なものではありません。ここからはゆっくりでいいですよ」


主に軍の移動と兵站に関して。

伝令の報告はクリシェが来た以上、差し迫って重要な事柄ではなかった。


疲れた馬を持って帰ってもらうには丁度良い機会。

スカートとの格闘にはうんざりしていたこともあり、ついでに持って行ってもらえばいいとクリシェは提案する。

だが――


「は。ありがとうございます。しかし……クリシェ様を走らせるわけにもいきません。どうぞ、私の馬を」

「え、あの……クリシェは別に走っても……」

「開戦時間がズレたとはいえ、クリシェ様がついたころにはもう戦いは始まっているでしょう。クリシェ様の疲労を考えれば、そのほうが良い」


言い分は至極真っ当。クリシェには若干の熱もあるのだ。

しかしクリシェは馬にはもう乗りたくない。既に一生分乗った気分なのである。

反論を考え、馬を見る。

馬の鞍には家紋がついていた。

この男はどこぞの貴族で、この馬は軍の持ち物ではなく私物――名案を思いつき手を叩く。


「あ、そうです、えと、クリシェは乗りつぶすつもりで馬を走らせてますから、軍の所有物ならともかくあなたの大事な馬を乗りつぶすのは――」

「いえ、気にしないでください」

「え、と……その……」

「クリシェ様が来たと知れば兵達も皆、大いに沸き立つでしょう。そのためになら乗りつぶすつもりで構いません。それがクリシェ様のためとならば、この馬、ファーナスにとってもこれ以上ない誉れでしょう。こうして命を救って頂いた上、何もできないのは心苦しい。どうか、お使いください」


ずい、と男は真剣な目で手綱を差しだしクリシェに告げる。

クリシェはうぅ、と目を泳がせる。


二匹目の馬ファーナスも、とても良く走った。





クッションを付け替え忘れて尻には鈍痛。

馬になど二度と乗るものかと、限界を向かえた馬ファーナスを乗り捨て走ってしばらく。

幸い昼にもなってはいない。時間としては朝の内に入るだろう。

戦場は刃を交え始めてそう時間も経っていないはず――だが、戦場に近づけばその入り乱れた様子が見て取れた。


「……状況が進みすぎてますね」


開戦が随分早かったのか。

少なくともギルダンスタインは兵の疲労に構わず、夜の内に動いていたのだろう。


東側――クリシュタンド軍から見て左翼側からクリシェは近づく。

左翼第三軍団は敵に抜かれている。

だが、組織的戦闘能力は失われておらず、後続を押しとどめていた。

恐らく、軍団長のテリウスはまだ生きているのだろう。


テリウスを無視して突破したのは間違いなくギルダンスタイン。

こちらの本陣の旗は落ちていないが、敵の旗も見える。


セレネは無事。けれど危険な状態にあると見ていい。

速度を上げる。ここまで来れば体力の心配はしなくてもいい。


「っ、クリシェ様――」


気付いた兵士が声を上げ、クリシェは構わず前へと進む。

眼前には第三軍団。そしてその増援に本陣の兵士がこちらに来ているようだった。

本陣に残したのは恐らく一大隊、1000人程度か。

これだけ大規模な配置変更――接触前からセレネ達は第三軍団の集中突破を狙っていることに気付いていたことは間違いない。全くの奇襲ではなかったはず。

何かしらの構えは取れているだろう。


右翼コルキスの旗は敵陣深くに。

本陣襲撃には気付いているが戻れていない、あるいは戻る途中か。


どうあれ、戦闘は続いている。

ギルダンスタインはセレネを捕らえることが出来ず、セレネもまたギルダンスタインを仕留めてはいない。

この状況、ギルダンスタインはセレネを捕らえることだけに力を費やしている。

そういう捨て身の攻勢であった。

ギルダンスタインが死ねば軍は終わるはず――あの男の生存は確実だった。


「邪魔です」

「っ!?」


第三軍団を抜けたギルダンスタイン軍は丁度、こちらに背を向ける形。

そこにある兵士、その肩に飛び乗り跳躍する。


切り抜けて行くには密集しすぎている。

上からの方が抜けるには早く、状況を確認する意味でも都合が良い。


「……おじいさま」


まず見えたのは指揮櫓の上に立ち、弓を構えて指示を飛ばすガーレン。

そして大男に対応するミアだった。


百人隊を使い両翼より包囲――けれど大男は足が速く、中央を突破されかけている。

敵の力を見誤ったのだろう。お馬鹿、と眉を顰める。

失敗に気付いたらしいミアは兵に武器を拾わせ、大男への火力集中を狙う。


「セレネは……」


クリシェは視線を左右に、セレネを探す。

セレネの甲冑――後ろ姿が見えた。セレネは中央、エルーガの方へ走っている。

側にはカルア達がいたが、後ろからは大戦斧を持った長身の男。

――ギルダンスタインだった。


そしてそちらには――


「……まずはミアですね」


セレネの所から視線を戻し、クリシェが駆けるはミアの場所。

大男は斧を振り上げ、距離を見てクリシェは加速する。


兵の隙間を抜き、数人の首を狩る余裕すらあった。

放たれた大斧――それが間の抜けた顔のミアに届く寸前。

回転するその刃の腹を補強された踵で蹴り飛ばす。


「お馬鹿」


そして、嘆息しながら続ける。


「まったく、これだからミアは……後でお説教ですからね」


周囲に静寂。

少しの間を空けて彼女の姿を見た者達から歓声が沸き起こる。

その大音量に眉を顰めつつ大男を見る。


突如現れたクリシェに、周囲は時間が止まったように戦いを忘れていた。

それは大男――傷だらけのナキルスも同様。

信じられない者を見たかのように、クリシェを見て歩みを止めている。


「うぅ、軍団長……」

「……あんまりクリシェに手間を掛けさせないで下さい。忙しいんですから」

「で、でも、わ、わたしもすっごく頑張って……」

「……お馬鹿」

「あぅ……」


手甲で兜をごつんと叩き、まぁいいですとクリシェはナキルスに向き直る。

ナキルスは息を呑み、構えた。


「……見覚えありますね。あの時王弟殿下の隣にいた人です」

「ええ、お目に掛かるのは二度目です。……しかし、三度目はないようだ」


ナキルスは笑って、残った大斧を両手で持つ。

彼女を見た時点で、必殺の大斧を軽々と蹴り飛ばされた時点で理解している。

戦場でひらひらとスカートを揺らし、緊張もなく、構えも取らずに血濡れの曲剣をぶらりと垂らし。

油断と隙の塊のようでありながら、銀の髪から覗く紫色はどこまでも無機質に、全てを見透かすようにナキルスを見ていた。


斬りかかる自分をイメージする。斬り殺される自分がイメージされる。

少女に対して勝利する自分の姿は浮かばない。

ギルダンスタインの所へはもう行けないだろう。

ここで死ぬのは確実だった。

だからこそ捨て身を覚悟し、その上でナキルスは笑う。


彼女の腕や足の一本、せめて傷の一つだけでもいい。

ナキルスは躊躇もなく、自分の命をそのためだけに使う事を決めた。


「確かにそうですね。もう会うことはないでしょう」

「――っ」


言葉と同時、クリシェは踏み込む構えを見せ。

――それよりも早く、ナキルスは大地を蹴った。


「な!?」


だが、それは誘い。

クリシェが動いたのは後ろであった。

大地に突き立ったナキルスの大斧に手を伸ばし、引き抜く。

そして引き抜いた勢いのまま体をしならせ――ナキルスへと投擲する。


捨て身の突進。もはや、方向転換も利かない。

眼前には大斧が迫っていた。

反動を殺すようにクリシェは転がりながらも、既にこちらへ跳躍を完了している。


紫色の瞳には冷えた輝きがあった。

ナキルスが捨て身で迫ることを読んだような動き。いや、ような、ではなく読んだのだ。

ナキルスの動き、意図を全て見透かした上で、安全策を講じたのだ。

両者に隔たる圧倒的な実力差を計算に入れた上で、万に一つの可能性すら奪うために。

目の前の少女は、どこまでも冷徹であった。


大斧を弾くことは可能。

だが大斧で受ければ間違いなく、この化け物に殺される。

これは、それを狙った投擲なのだ。


――であれば、答えは一つ。


大斧を左手に、右腕を突きだした。

飛来する大斧は鎧の装甲ごとその剛腕を切断する。

気を失いそうな激痛――ナキルスは目を血走らせ、歯が割れるほどに食いしばる。

放たれた大斧の軌道は変わり、少なくともこれで致命傷は避けられた。


しかしクリシェは尚も平静だった。

腕を犠牲にそれを防いだことに、驚きどころか表情一つ変えず。

距離は四間、まだ遠い。


ナキルスは腰を捻り、全身の力を振り絞って左の大斧を振るう。

距離は三間――まだ遠い。

しかし、それでいい。


横薙ぎに大斧を振るい、投げつけ。

――狙うは彼女の足。

唸るような風切り音をあげて、放たれた大斧はクリシェの足へと迫る。

この一撃でその足を切断するなどと、そんな都合の良い夢は見ない。

目の前の化け物は僅か二間、この距離で放たれた大斧すらを容易く避けるだろう。

生死の狭間、ナキルスの深層でそんな未来予知めいた直感が働いていた。


ただし、放たれたのは水平螺旋を描く刃。狙いは足元。

潜ることも、この距離では横に避けることもできまい。

無傷でやり過ごそうとするならば、出来ることは上への跳躍。

そして空中ではいかに力があろうと、どれほどの技術があろうと出来ることは限られる。

そこへこの左拳を叩きつける――それだけをナキルスは考えた。


放たれた刃との間合いは一間に。

彼女は姿勢を低く、跳躍の体勢を取るかに見え――


「っ……!?」


高速回転するその斧の柄を、当然のように掴みとった。


その遠心力に彼女は逆らわず、小柄な体は玩具のように振り回される。

けれどそのまま地滑り、踊り、ひらりと舞って――そのまま全てを掌握し、支配する。

そこに込められたナキルスの全身全霊を、受け止めるのでもなく、殺すのでもない。

ただ、利用するために。


旋風を巻き起こし。

舞いは一瞬――返ってくるのは風切る轟音。


気付いた時には眼前に斧、肌で風圧を感じていた。

咄嗟に残った左手を伸ばす。切断される。

――そして今度は、その胴も。


「ぁ、が……」


吹き飛び転がる視線の先に、自身のものであった下半身を見る。

腰から下に感覚はなく、両腕も、もはや存在せず、


「さようなら」


いつの間にか、少女は側に立っていた。

ナキルスを見下ろす紫色は、ただ無造作に曲剣の刃を振り下ろす。

首が裂ければその血すらを忌むようにそこから離れ、興味が失せたように視線を切った。

この場を一時支配していた猛者は、そうして単なる肉塊に変わる。


敵も味方も関係なく、誰もがこの場でのナキルスの実力を理解し、畏怖していた。

超人染みた百人隊に対し、その蛮勇のみで圧倒し、矢と槍を受けながらも猛進する怪物。

先ほどまでこの場を支配していたのは、間違いなくナキルスであった。

そんな猛者の呆気ない幕引き――その一方的な戦いを見て、クリシェの到来に安堵していたものですらが唖然とする。


ナキルスは負傷していた。クリシェは強い。

だがそれでも、ある程度の拮抗が両者の間に成り立つと誰もが考えていたのだ。

最終的にクリシェが勝つにしろ、それでも良い戦いになると思い込んでいた。

けれど、蓋を開けてみれば。


彼女とナキルスの間にあったものは実力差などという言葉で表現出来るものではなく。

そこに生じたのは戦いですらない、単なる一方的な惨殺劇であった。


忌み子のクリシェ――ベルナイクの首狩人。

戦士も勇者も英雄も、その少女の前には関係がない。

怪物と、化け物と。

そう呼ばれる実力者すらを容易く喰らう。終わらせる。

いかなる努力、戦術、技巧や意志であっても関係なく、彼女は全てを無価値にする。


立ちはだかる全てを砕く、止まることなき暴威の具象。

――それは少女の姿をした絶対者であった。


血の一滴を浴びることなく佇む少女は、誰もが恐れた猛者の死体に目を向けることもなく。

周囲を軽く見渡し、口を開いた。


「……戦いは終わりです」


響いたのは、鈴の転がる甘い声。

声を張り上げているわけでもない。しかし静寂の訪れたこの場には、その声が良く通った。


感情のないような紫――その視線が首を通る。

視線に怯え、剣を取り落とすものがあった。

戦いは、終わり。

言葉通り、この少女の前には戦いは戦いでなくなる。そう理解する。


この化け物に勝てるものなど、どこにもいない。

転がる無惨な死体――偉大なる戦士の亡骸が、何よりもそれを示していた。


この場にある全ての命は、その小さな少女の掌中にある。


「きさま、よくも――っ、……っ!?」


大剣を手に叫んだのはナキルスの副官か。

体格の良い男は声を張り上げ、クリシェに殺意を見せる。

ただ、踏み込もうとした男は、その一歩目を踏み切る前に首を刈られた。


滑らかで歪な曲剣は小ぶりながら、まるで抵抗もないように肉を裂く。

血を浴びぬようクリシェは『死体』の胴を蹴り飛ばす。

副官であった猛者の死体は吹き飛び、転がり、一拍置いて血を撒き散らす。

反抗する者はそれが最後であった。

彼に続く勇者はいない。


再び静寂が戻る。時間が止まったように、誰もが動けなかった。

ただ一人――それを許される少女だけが平然と歩く。


「ミア、あとは適当に。危ないですからおじいさまのところに誰か行かせてください」


クリシェはミアに告げると再び周囲に目をやる。

少なくとも落ち着いた。ここは本陣――優勢はこちら。

問題はない。


「は、はい……」


殺されかけ、その相手が無惨に殺され。

目まぐるしく状況が変わり、周囲に混ざって半ば硬直していたミアはその声に気を取り戻す。


「それと、後でお説教ですからね。ちゃんと生きておくように」


お姉さんぶった調子でクリシェは指を突きつけ、ミアはそれを眺めた。

いつものようなやりとり。お説教。

どうしようもない地獄のような時間の終わり。


ふ、と涙が零れて拭い、


「っ……はい!」


そして笑顔で彼女に答えた。

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作者X(旧Twitter)

  2024年11月20日、第二巻発売決定! 
表紙絵
― 新着の感想 ―
[気になる点] まさか、このお馬さんも魔力持ちだったり? [一言] ミアへの折檻が実行されることが決定した瞬間である、
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