古兵
一間=六尺=約1,8m
大地を刻み、砂嵐を巻き起こし――その剛腕によって全てをねじ伏せる。
相手は黒獅子ギルダンスタイン。
テリウスに敵う相手でないことは確かであった。
「……中々避けるじゃないか」
「勝てぬとはいえ、ただで死ぬわけにはいきますまいっ」
剣を盾にしたとて、一撃を受けることなど不可能。
そうすれば容易くギルダンスタインの振るう大戦斧は剣ごとテリウスを両断するだろう。
テリウスに出来ることは躱すことだけであった。
勝利の目はない。だが逃げ出すこともできない。
逃げ出せば左翼は崩れ、セレネのいる場所へギルダンスタインが率いる全軍が雪崩れ込む。
そうならぬよう少しでも時間を稼ぐ――それがテリウスに出来ることであった。
稼ぐ時間はコルキスがこちらに気付き、戻ってくるまでの間。
――だがそれも、もはや不可能だろう。
「ぐっ!?」
躱し損ねた左腕が剣ごと両断され、宙を舞う。
気を失いそうな激痛――歯を食いしばって堪え、立ち上がる。
ここから大した時間稼ぎもできない。
テリウスを守る兵はギルダンスタインの刃を前に減り、削られ――もはや何の余裕もなく。
「終わりだ。降参すれば命は助けてやる、テリウス。この戦もこれで幕……戦後を考えるなら、お前も残しておきたい駒だ」
「はは、ありがたいお言葉、ですな……しかし」
多量の血を垂らしながら首を振り、テリウスは天に叫ぶ。
「勇壮なる我が第三軍団、私の死に動じることなく抗戦を続けよ!! 時間を稼げば勝機はある、諦めずに力を振り絞れ!! 王弟ギルダンスタイン、敵将の首はここにあるぞ!!」
テリウスはそう声を響かせる、そして笑い。
兵達の咆哮が返ってくるのを聞いてギルダンスタインを見た。
「これが答えです、殿下。私を殺しても、私が残した兵は消えぬ」
「……困ったものだな。お前のような男を殺さねばならんというのは」
つまらなそうに言って、再び構え。
テリウスも片腕で構える。
これが最後――かすり傷さえ与えることなく、切り捨てられる。
だが、犬死になどにしてはならない。
軍人は無意味な死をこそ避けるべきものだ。
「……殿下!!」
踏み込み、駆けて、大振りな一刀。
見てから構えたギルダンスタインの方が早く、速い。
技術、力、才能――どれをとっても勝てはしない。
だが――
「っ……!?」
テリウスは大戦斧の間合い――胴を中程まで裂かれながらもその剣を投擲する。
円を描いた刃は浅く、ギルダンスタインの腿を裂く。
テリウスに浮かんだのは会心の笑み。
そして、それが終わり。
テリウスの体は両断され、宙を舞い、臓物を散らす。
その城砦を象る優美な鎧ごと、砕けるように。
「……ボーガンめ、良い駒を揃えたものだ」
言いながらも楽しげに。
ギルダンスタインは軽く腿の傷を押さえる。
先に当たったのはギルダンスタインの大戦斧。
テリウスの剣はそれで軌道が変化し、腿を軽く裂いただけ。
痛みはあり、出血もそれなりにあるが、動けぬほどではない。
「殿下! 傷が――」
「いらん、かすり傷だ」
サルヴァもそこでようやくテリウスの護衛を抜ける。
ギルダンスタインの傷に声を上げて近づくが、手当ては無用と手を払う。
その時間も惜しかった。
「良い兵達だ。無意味かもしれんが、一応死を伝えてやれ」
「……は」
サルヴァは無惨な死体となったテリウスに目を向け、一瞬黙祷を捧げる。
そして声を張り上げた。
「諸君らの指揮官、クリシュタンド軍第三軍団長――テリウス=サーザ=リネア=メルキコスは王弟殿下、ギルダンスタイン=アルベランが討ち取った! もはや抵抗は無用、剣を捨て我が方に降るが良い!! 諸君らが剣を向けるは王国であると知れ!!」
ギルダンスタインはその様子を見届けると、すぐに声を上げる。
「間髪入れずに次だ。抜けたのは?」
「1500といったところでしょう」
ギルダンスタインがテリウスの相手をする間、サルヴァは突破口の拡張を行なっていた。
500――ギルダンスタインと合わせ600程度であった兵力は更に1000人ほど増加を見せている。
ここから時間を使えば人数をより増大させることが可能であったが、しかし。
「――中央の爺に手を回されるのは厄介だ。すぐに行くぞ」
「は! 総員、狙うは敵将、セレネ=クリシュタンドだ!! 全てを置いて敵本陣へ向かえ!!」
中央のエルーガ=ファレンがその悠長な行動を許すなどとは思えない。
最悪このまま、コルキスが戻るまで第三軍団に貼り付けにされた状態で時間を浪費させられることとなる。
クリシュタンドはその全ての軍団長、大隊長までもが優秀であった。
立て直しの早さは並の軍の比ではなく、一瞬の麻痺を狙う以上の手はない。
幸い敵本陣はテリウスに増援を回し手薄。
十分に抜くことは可能であった。
進み、圧倒する。
ギルダンスタインの先に道は、最初からそこにしかない。
――そうして敵本陣へと彼等は進み、
「……本当に、王弟殿下でしたか」
全ての勝敗を決める敵将、セレネ=クリシュタンドと対峙する。
『――だって、大きな武器は隙が大きくなりますから。人を殺すにはちょっと傷をつければ済むんです、やっぱり小さいのが良いですよ』
本当にそんな小ぶりな剣で戦場に出るのかと尋ねれば、クリシェはそんな言葉を返した。
『体と同じくらい重たい武器だってクリシェは使える自信がありますけれど、でも振り回す遠心力に体がやっぱり引っ張られて、流されてしまいます。効率的に使おうと遠心力を利用して動けば、今度は予想されやすい動きになっちゃって……えーと』
鏡の前に立って、その中に映るクリシェにクリシェは刃を向けた。
『クリシェがクリシェと対峙したとき、一番強いのがどれかと思えば、やっぱりこのくらいの剣が丁度良いと思うのです。重心をわざと狂わせて、大きな武器を扱えば威力は出ますけれど、やっぱり人を殺すには過剰に思います。……体に合った、常に重心を安定させられる程度の軽い剣、が一番ですよ』
それにしたってあまりに心許ない。
セレネは不安であったが、クリシェは言葉通り、その剣一本で全てをこなした。
槍でも斧でもなく、鎧を着込んだ兵士に対していとも容易く。
クリシェの理屈は、常人の理解を超えている。
小ぶりな剣一つを使って、鎧を着込んだ相手に隙間を狙える超人的な技巧――圧倒的な力。
その上に成り立つ理屈であって、セレネにはさっぱりわからない境地なのだ。
そういう風に諦めようともして、けれど言葉は頭の中に張り付いたまま離れない。
『複数に囲まれたときに何より、その隙の差が大きいと思います。大物を振り回して強いのは、相手が逃げる敵ばかりの場合。それで逃げない相手には必ずその隙を狙われてしまうでしょうから、やっぱりバランスが大事なのです。クリシェが複数を相手にするときは必ず囲まれないように――』
――そして、彼女が言っていた理屈をここに来てようやく理解した。
セレネの眼前では黒の百人隊に囲まれたギルダンスタインの姿がある。
轟音と共に振るわれる大戦斧――腕利きの百人隊を寄せ付けない。
その間合いと威力は恐ろしく、擦っただけでも致命傷になりかねない以上、近づくことは困難。
ギルダンスタインは強い。少なくともセレネなどと比べれば、圧倒的に。
「でも……無敵ではない」
轟音――大戦斧の奏でる風切り音。
威力にばかり目が行き、体が強ばる。冷静さを見失う。
しかしそれでも落ち着いて見ていけば、見えてくるものがあった。
巧みな重心移動によって、ギルダンスタインは振り回される大戦斧の質量に体を合わせ。
だが振るう度にその体は先端、巨大な斧の生じさせる遠心力に流されていた。
ギルダンスタインの体はまるで草原を滑るように――いや、実際に滑っている。
ギルダンスタインが扱う大戦斧。総身が鋼、先端には重厚な斧。
単に重さだけで捉えるならば、クリシェよりも重いだろう。
そんなものを武器として振るい、無理に重心を安定させようとすれば体勢が崩れる。
だからその遠心力にある程度身を任せ、その慣性に逆らわぬよう足を動かす。
ギルダンスタインの肉体は物理的に、大戦斧が生じさせる遠心力に耐えられないのだ。
「……隙がある」
コルキスの重厚な鎧は重石の役目を兼ねていた。
魔力保有者が重厚な鎧と、重量武器の組み合わせを好むのは珍しいことではない。
魔力保有者は常人が扱えぬほどの武器を振り回せるポテンシャルを秘めているが、それを振るうにはその体が、あまりにも軽いのだ。
だから多くのものは筋肉と鋼の鎧を身につけ、無理矢理に重心を芯に保つ。
恐らくギルダンスタインが着ていた黒獅子の鎧も同じく――しかし今、ギルダンスタインはその鎧を着てはいない。
大戦斧を使いこなすには、ギルダンスタインの重量が明らかに足りていなかった。
それでも尚、体勢を崩さず容易に大戦斧を振るう姿は見事なもの。
侮れる相手ではなかったが――見ていれば法則が見えてくる。
ギルダンスタインの相手は黒の百人隊。
ほとんどはギルダンスタインの護衛を止めるために動き、こちらには三班だけであったが、この場に冷静さを失わず、焦らず、誘いに乗らず――彼等は百人隊でも選りすぐりの精鋭であった。
そのおかげでこうして、長時間ギルダンスタインの動きを見定める余裕が出来る。
「カルア!」
「あいさっ!」
声にカルアが踏み込む。
それに対するギルダンスタインの反応は鋭敏であった。
真後ろから迫るカルアに対し、全身を捻りあげての横薙ぎ。
背後にも目がついているとしか思えないほどの動きであった。
実際に見えているわけではないだろう。
全ての敵の配置を記憶に焼き付け、そこからの動きを経験で予測し、そうすることで本来無防備なはずの背面――そこからの攻撃を正確に処理しているのだ。
才能と戦場での経験、頭脳、実力。
それら全てが備わってこその超反応。真正面からセレネが行っても相手にはなるまい。
単純な力ならば、ギルダンスタインはセレネの遥かな高みにあった。
とはいえ、この状況――自分は一人ではない。
妹が残していった、最強の部隊が手元にあった。
カルアはすぐさまギルダンスタインの大戦斧に対し、後ろへ跳躍。
けれど振るわれる大戦斧の推進力をギルダンスタインは止めることは出来ない。
体が流れる方向――隙が生じる一点。
反応に合わせ踏み込み、そこを狙ってセレネは剣を繰り出す。
「ちっ」
ギルダンスタインの舌打ち。
肩の鎖帷子を切っ先で浅く裂いた程度。
しかしそこで終わらない、終わらせない。
――更に踏み込む。
体勢を崩したギルダンスタイン――狙うは脇腹。
胸甲の隙間であった。
ギルダンスタインは腰を捻る。躱す。
三閃目。腿への横薙ぎ。躱す。
四閃目。首への突き。躱す。
五閃目。二の腕への斬撃。浅く肉を裂く。
淀みなく、止まらず。
クリシェほどの技巧はない。速さもない。目もない。
それでも、クリシェからは剣を学んでいる。
クリシェは決して守勢にならない。
相手が剣を振るうならば、同時に振るって先に仕留める。
くぐり抜けて空振りにさせる。
間合いが遠く分が悪ければ仕切り直し、自分の得意な間合いとペース、リズムを作る。
魔力保有者として見たとき、クリシェが群を抜いているのはその加速力、踏み込みだけだ。
力で劣る相手は山ほどいる。最高速で劣る相手も多いだろう。リーチなど下から数えた方が早い。
小柄な体の限界があり、身体能力の限界がある。
それでも彼女が他を圧倒するのは、常に自分の優位を保つことだけを考えているから。
奇襲的に間合いを詰め、一息に自分の間合いへ。
異常とも言える踏み込みの速度を活かし、切り結ぶ時間を最小限に。
危険があるなら彼女は踏み込まず、剣を誘う。
右手で、左手で、足で、拳で、投擲で。
そして相手の動き、構えに合わせて構えを変え、常に敵の対応出来ない攻撃を行なうのだ。
反撃を許さず、守勢に変える。
決して相手に攻めさせないよう、ただ攻めて、攻め続けるのだ。
千変万化のクリシェの剣には憧れる。
滑らかで、舞いのように美しく、鮮やか。
あれほどの才能があれば、この一瞬でギルダンスタインを仕留められていただろう。
セレネにはそこまでの才能はなく、だがそれで十分。
一人ではない。相手が受けに回れば、こちらには黒の百人隊。
隙を狙って振るわれる三人の刃。
ギルダンスタインは辛うじてそれを躱す。
だが、その背後、
「――もらいっ!!」
カルアが振るうは神速の切り上げであった。
大地を舐めるように斧が如き曲剣はその体に迫る。
獲った――そう思った瞬間、
「っ!?」
大戦斧を手放したギルダンスタインは、寸前でカルアの腕を掴む。
予想外の動き。セレネの剣もまたタイミングを外され虚空を裂き、ギルダンスタインはカルアの体を振り回すとセレネへと叩きつけた。
――走ったのは衝撃。
振り回された人体は、それそのものが凶器であった。
セレネの体はカルアと共に三間あまりを吹き飛ばされ、受け身も取れずに咳き込む。
咄嗟に立て直す暇もなく、眼前にはギルダンスタイン。
その手甲に包まれた拳を振り上げていた。
「……終わりだ」
「っ、まず――」
ギルダンスタインにセレネを殺す気はない。
セレネを人質とすることが目的であるためだ。
けれどその一撃はセレネを昏倒させるには十分。
咄嗟に振るった剣は体勢も悪く刃を掴まれ――だが。
「っ、邪魔を……!」
ギルダンスタインは大きく後ろへ跳ぶ。
その体があった場所を貫いたのは風切り音。
ガーレンが放った矢であった。
「セレネ、一度退け!!」
「は、はい! カルア!」
脳震盪を起こしているのか、ふらついたカルアの腰を掴み、セレネは跳ぶ。
ギルダンスタインは迫れない。
矢がその動きを牽制するように次々と放たれる。
小さな指揮櫓に登ったガーレンとこちらの距離は二十間近く、けれど矢はどこまでも正確にギルダンスタインの動きを阻害する。
「サルヴァ! あそこの爺を殺れ!!」
「は! ヴィリッツ、足の速いのを何人か率いていけ! 相手は将軍副官だ!」
応じる声――ギルダンスタインと仕切り直した代償。
ガーレンの櫓の前は射線を取るために乱れ、隙間が生じていた。
サルヴァの声に向かったのは五人の魔力保有者。
このままではガーレンの護衛とぶつかることなく、彼の場所まで到達する。
セレネは咄嗟に駆けようとし、
「セレネ、お前はそこだ! こちらは任せろ!!」
「っ……はい!」
ガーレンの声に踏みとどまった。
――そしてガーレンは次の矢を番える。
老いはある。勘は鈍っていない。
騎兵突撃よりも速く――こちらへ向かう五人は腕利きの魔力保有者らしい。
けれど怯えることなく、心は冷え切るほどに冷静であった。
引き絞られていく弓はどこまでも重く感じる。
かつては容易く引けたはずの剛弓。
昔ほどの筋力は自身になく、鷹にも負けぬと誇ったその目は滲んで歪む。
けれど染みついた感覚は失われていない。
空を舞う鳥すら落として見せる――その腕はまだ活きていた。
弦を鳴らし、放たれる矢は吸い込まれるように相手の首へ。
先頭の一人を撃ち殺し、再び番える。
相手は魔力保有者が五人。
距離は二十間。
そして、手には弓。
――であれば、五人全員を相手に勝って当然だろう。
自分が何のためにここにあるのか。
それを思えば、外せはしない。
『――隊長、私は本当、隊長のところで戦えるのが何よりの栄誉だと思ってますよ』
『お前ならすぐにわしを追い越すだろうさ。将軍だって目指せる』
『はは、私としては隊長が将軍に、そして私がその下で……そうしてあなたの補佐をやっていきたいところですが。隊長こそ、将軍の肩書きがよく似合う』
ボーガンは先に逝った。
多くを残して。
『もう、お父さんもそろそろゴルカに任せて畑仕事でもしたら? もう歳なんだし、怪我でもしたらクリシェだって悲しむもの』
『ゴルカもまだまだ、わしに言わせればひよっこだ。危なっかしくてどうにも、あと五年は見ていてやらんと不安が残る。……それこそゴルカが間抜けをして、クリシェを悲しませるようなことがあっては困るからな』
『はぁ……お父さんはずっとそんなことを言って働いてそうよね』
愛娘も、期待を賭けたその夫も。
若くして先に逝った。
『えへへ、今日はですね、おばさんからカボチャをもらったのでカボチャのスープです! それとその、おばさんからパイの作り方も教えてもらって――』
――幼いクリシェを残して。
老いたガーレンではなく、生きねばならないものが死んでいき。
残された自分に、果たして何の役目があるのか。
軍を辞め、村へ戻り。
そうして一度錆び付かせてしまわなければ、賊にも、ギルダンスタインにも。
奪われずにきっと、守り抜けたはずのものだった。
若い頃軍に入ったのは、大切なものを守り抜くための力を求めて。
老いてから軍に戻ったのは、もう二度と奪わせないために。
であれば、ここでやることは決まっていた。
「……一射とて外さんぞ、小童共」
放ち、番え。
更に一人を殺したことに意識の欠片も向けず、次の獲物を淡々と狙う。
二十間の距離――そこを彼等が進む間に三人を殺し、盾を構えた男の足を貫く。
間合いが詰まればもはや弓など放り捨てる。
体は戦場での全てを忘れていない。
屈辱と後悔の全てを忘れてはいない。
真白になった長髪を揺らし、躊躇もなく小剣を引き抜き、踏み込む。
――魔力保有者。
彼等が持つのは圧倒的な身体能力――老いたガーレンとは根本的に体が違う。
踏み込めば獣の疾走の如く、運動能力は自身の数倍。
だがそれを勘定に入れた上で、まだやれると確信する。
足を貫いた兵士は体勢を崩し、残ったもう一人は憤怒を露わに長剣を振りかざした。
速度は自身の三倍はあるだろう――とはいえ、その速度を自由自在に使いこなせるものなどそうはいない。
人の域を越えた加速は姿勢を乱し、隙を生じさせる。
相手の振りはやや大振り、その胴が開く。
「……邪魔をするな!」
腰を落とし、振るわれる刃に踏み込んだ。
剣が当たるはガーレンの背中――革の鎧。外した剣に威力はない。
そのまま男の腰を掴むように身を起こし、その体を遙か後方へと弾き飛ばす。
魔力保有者に対しては、相手の力を利用し、潰す。
それが持たざるものの戦い方であった。
背面に吹き飛ばした相手を見ることなく、体勢を崩した男の方へ。
咄嗟に振るわれる刃に力はなく、寸前で見切るとその顎を蹴り上げる。
ガーレンにしてみれば赤子の手を捻るようであった。
大抵の魔力保有者は泥臭い戦いには不得手、慣れていない。
両者もつれ合うような戦いで、その運動能力と優位を失うことを避けるためだ。
クリシェのような天才であればともかく、魔力保有者だからと言って常に安定してその魔力を扱えるわけではない。
肉体を強化するには、ある程度の冷静さと集中力が必要になるのだ。
もつれあうような戦い――混乱の最中で魔力を十全に扱えるような人間はそういない。
だからこそ誰もが自分の優位を失うことを恐れ、嫌がり、ある程度の距離を保った『綺麗な戦い』に自然とこだわる。
――明確な意識の違い。
彼等は必然、咄嗟に振るわれる格闘に対する反応が鈍くなる。
こちらにあるのは老いた体。
男が捨て身でこちらに組み付くことを選択したならば、ガーレンは殺されていただろう。
けれど男は剣によって距離を取ることを選んだ。
無意識にもつれ合う格闘戦を避け、距離を取ることを選択した。
だから、この男は死ぬ。
転がりもだえた男の首に小剣を突き立てると、再び背後へ目を向ける。
受け身を取ったらしい男はすぐにこちらへ。
顔には投げ飛ばされたこと、他の全員を呆気なく返り討ちにされた事への混乱が浮かんでいる。
しかし乱れた精神を立て直す時間も作らず、こちらへ向かってきていた。
まだ若く、経験が足りないのだろう。
死体から剣を引き抜き、投げつけ踏み込む。
咄嗟に弾いた男の足が止まり、その体へと体をぶつけるように小剣で刺し貫いた。
鎧の継ぎ目――脇腹から肋骨の隙間を通すように。
「老兵だからと舐めるなよ、小童共。……この程度の死地、くぐり抜けられぬとでも思うたか」
地の底から滲むような声で吐き出し、ガーレンは再び弓を取る。
ここで死ぬ程度の命であれば、どうして己が生き残ったのか。
若き有望な命をいくつも失い、それでもここにある理由は何か。
容易く殺されてやるものかと、ガーレンは呼吸を乱しながらも全盛期を取り戻す。
――老いはあれど、その魂に陰りはなく。
「このわしを討ち取りたくば今の十倍を向けるが良い! この命、安くはないぞ!!」
魔力も持たぬ老兵――ガーレンが咆哮を上げる。
あっという間に五人を殺して見せた老兵の姿に周囲は沸き立ち、それに倣うように咆哮、歓声を上げる。
「ナクライス、お前の隊は左から回り込め! 第三軍団は未だに崩れておらん。後続を切り取り殿下を孤立させよ!」
「っ、は! ガーレン殿!」
サルヴァは苦虫を噛みつぶすように、再び弓を構えたガーレンに目をやる。
サルヴァの周囲にあるのは一般兵に混じったクリシェの兵――黒の百人隊であった。
先ほどのタイミングで出せたのはサルヴァにとっても最大限。
相手は魔力も扱えぬ老兵一人。
向かったのは五人の魔力保有者。
万が一にも失敗するはずなどないと考えていた。
ボーガン=クリシュタンド、ノーザン=ヴェルライヒ。
そしてコルキス=アーグランド、グランメルド=ヴァーカス。
古兵ガーレンは元々、そんな怪物達を率いた百人隊長。
頭が切れる実力者であることは知っていたし、彼のかつての名声は聞いていた。
だがそれは百人隊長としての黄金時代、過去の話であり、その戦歴も怪物というべき実力者達を率いてのものである。
まさか老境に差し掛かってなお、複数の魔力保有者を返り討ちにできる実力を持つなどとは思いもしなかったのだ。
ボーガン=クリシュタンドは絶対的な能力主義者、能力のないものに立場も地位も与えない。
彼が単なる縁故によってあの老兵を副官に置いたなどと、侮ったつもりはなかった。
だが、そう思いながらもサルヴァは侮っていたのだろう。
魔力を持たぬ身でありながら、老兵ガーレンはあの怪物達から敬意を向けられる存在なのだった。
その矢は正確無比――サルヴァは身を躱す。背後の兵が貫かれる。
二十間の距離から容易くガーレンの矢は乱戦に乱れた兵士の命を射抜いた。
その上で周囲の兵を掌握し、この乱れた場の全てを見事に操る。
作戦会議で表に出ることはなく、戦略、戦術に口を挟むことはなく。
決して目立つ男ではなく、華もない。
けれどこの場におけるガーレンの存在は、誰よりも強大な敵のように感じられた。
英雄達を率いた老兵ガーレン――忘れ去られし勇者。
思わぬ伏兵の存在に、サルヴァは嫌な汗を背中に感じる。
放っておくべきではない。
まさにこの混沌に満ちた乱戦こそが、百人隊長であった彼が真の能力を発揮する場所なのだ。
だが並の兵では先の二の舞。
行くならばサルヴァしかなく、その上ギルダンスタインがセレネを狙う以上、サルヴァはこの場の指揮に全力を尽くさねばならない。
「四班から七班! 右から回り込んで! 十二から十五は左! 残りは今の前衛と後退を!」
――劣勢。
自身が相手にしているクリシェの百人隊は精強であった。
全てが魔力保有者で構成される部隊。
単なる兵ではなく、その機動力、戦力、共に一般的な水準を遥かに超える。
だというのにその女隊長はその能力を十全に使いこなしていた。
指揮官にとって乱戦指揮ほど難しいものはない。
指示は周囲の雑音に掻き消される。
敵味方混在する中ではその位置も掴めなくなる。
その上で魔力保有者という超人達を自在に掌握するなど、並の能力ではなかった。
顔は見たことがある。
村から出てきたような未熟な娘。クリシェが選んだ百人隊副官であった。
このような娘に指揮などできるものか――その人事に困惑していたが、今ここにある彼女は最前線の指揮官として何一つ不足はない。
年齢が能力に直結するわけではないと知っている。
しかし分かっていても、その姿には驚かされるものがあった。
クラレ=マルケルス。アウルゴルン=ヒルキントス。ゲルツ=ヴィリング。
クリシェによって潰された三軍のことを考える。
竜の顎から、彼女等はクリシェと共に最前線にあったのだろう。
濃厚な経験は村娘をすら戦士に変えるのだ。
こうなれば、己も死力を尽くす他ない。
見たところ剣の技量は未熟。
距離と機会を探り、目を走らせ――
「っ……」
「間に合ったようですな、サルヴァ殿!」
そして、そんな場に現れたのは全身を血で濡らし、両手に大斧を掴んだ巨人。
野獣の如く頬を吊り上げ、右手の大斧を肩に担ぐ
「……ご無事なようで何よりだ。さぁ、指示を!」
剛腕――ナキルス=フェリザーであった。