嵐と獣
朝日が昇り、二日目の開戦――王弟ギルダンスタインを守る兵達の眼前には、武名轟く大狼グランメルド=ヴァーカス率いるヴェルライヒ軍第一軍団。
その武名と吠える狼の旗は、それだけで向き合う者を威圧する力があった。
対する彼等の多くは寄せ集めの兵。
しかし当然本陣前面には古参熟練の兵士が固められ、勇壮なるグランメルドに対して尚一歩も引かぬ構えを見せていた。
ギルダンスタインは左翼、キースリトンは右翼。
彼らはなだらかな丘の上に布陣するヴェルライヒ軍を広く囲むように布陣している。
ギルダンスタインは九個軍団を二つに分け、自身に五軍団とキースリトンに四軍団――それぞれを一軍の将として布陣した。
まとめて一軍として動かすには、離れすぎた両翼への指揮が遅れることを懸念したのだろう。
彼らの狙いはヴェルライヒ軍中央。
ギルダンスタイン側の右翼とキースリトン側の左翼にそれぞれ二個軍団を用いて縦に並べ、敵に対し倍の厚みを持たせている。
数の差によるヴェルライヒ軍の中央突破を狙っていた。
あえて狙いを見せつけるかのような布陣――ここには意味がある。
ヴェルライヒ軍の兵士は見通しの良い丘に布陣するが故に、敵の様子が一人一人の目によく映った。
いかにヴェルライヒ軍の兵が質で上回ると言っても、戦闘疲労はクリシェでさえ蝕む。
殺しても途切れなく続く敵の攻勢が予想されること――それが彼ら兵士の士気に与える影響が大きい。
――高所を取るものが有利である。
盲目的にそう信じるものは多くあるが、実際は高所を取ることが必ずしも優位をもたらすとは限らない。
戦を見る時その暴力的な闘争――物理的なエネルギーだけに目を向けられがちではあるが、その本質はむしろずっと精神的なものであり、心理的なものであるのだ。
単なる殺し合いではなく、幾万の人間による戦。
その勝敗を決めるのはあくまで士気と統制、組織的戦闘能力であって、死人の多さではない。
丘に布陣し、上から敵の布陣を見て取ったヴェルライヒ軍中央の士気はそのあからさまな敵の布陣によって落ち込んでいた。
視覚効果というのは馬鹿に出来ない。
自分の生死が掛かる戦いで、自分が窮地にあることを望む兵士などそうはいない。
誰もが望むのは栄誉ある生であって、名誉の死ではないのだ。
自分が優勢であることを知れば士気は高まり、劣勢であることを知れば低下する。
それは当然の摂理で、指揮官は上手く兵士に伝える情報を操作せねばならない。
そう言う点で丘という見晴らしの良さが兵士に与える情報、そしてそれによる悪影響は、兵力劣勢のこの状況では無視出来ないほどに大きい。
ギルダンスタイン軍はそれを踏まえた上で、意図的な戦力集中を行なっていたのだった。
戦う前からその戦意を挫くために。
丘の上にあるヴェルライヒ軍には位置エネルギーを利用出来る高所の強みがある。
だが、この中央への心理的圧迫を考えれば、不利とは言えぬまでも有利とは言いがたい。
布陣上両者は拮抗していた。
ギルダンスタイン本陣の中央と左翼は敵右翼の側面迂回と突破を阻止するだけで良い。
ギルダンスタイン軍右翼、そしてキースリトン軍左翼。
それによる中央突破が完了するまで敵の攻勢を防ぐことが彼らの役目。
ヴェルライヒ軍右翼を率いる大狼、グランメルド=ヴァーカスを眼前に――名高き『狼群』に対しながら乱れぬ構えを見せているのは、そのことへの安心感が理由であった。
――しかし彼等の前に現れた一人の少女が、その空気を変える。
兵列の波を裂くように現れたのは常人の身の丈よりも大きな鉄棍を担いだ狼兜。
グランメルドの背後から現れたのは、戦場に場違いな少女であった。
銀色の髪、外套、両手に抱えた無数の白兵槍。
遠目に彼等から見えるのはそれだけで、しかし、
「……忌み子だ」
怯えたように誰かが呟き、あれが誰かも知らぬものも聞いた噂話を思い出す。
ベルナイクの首狩人、クリシュタンドの怪物。
熟練の兵であっても、名高い一軍の将であっても、彼女には関係ない。
あの異常者はまるで草でも刈り取るかのように、蛮刀を振るって名だたる猛者の首を引き裂いた。
そう、首――彼女は病的なまでに首を切り裂くことを好み、そうして殺した相手の首をコレクションして笑うのだと言われていた。
ざわめきに静まれと、百人隊長からの声が飛ぶ。
対する少女は抱えてきた槍を放り投げる。
槍は上空。
放物線を描き、まるで進む道を示すように。
適当に投げたように見えた槍は彼等の真正面へと列をなし、全てが同時に突き立った。
何をする気なのか。その瞬間までは誰も理解が出来ず。
両者の矢すらも届かぬ距離からそうして少女は一人、踊り出る。
初速にて馬足を越え、槍を掴んだ少女の疾走は、飛来する矢よりも速く見えた。
そして、その体がくるり、と回り、
「ひ――っ」
――その手から放たれた槍は轟音と共に風を貫き、無数の肉を引き裂き砕いた。
丘の上から敵本陣――黒い鎧を身につけた男を眺め、隣にいたグランメルドが尋ねる。
「槍ですかい?」
「はい、突入点を作るにはいいです。敵前列の重装歩兵の壁を乱しておきたいですから」
両手で抱えるように持つは六尺の白兵槍が八本。
呆れたようにグランメルドが手を差し出すが、クリシェは平気です、とそのまま歩く。
小柄なクリシェにとって八本の槍は多すぎる荷物で、どうにもその見た目が平気ではなさそうに見えた。
常人に比べれば遥かに腕力はあるが、体格による限界というものがある。
平気とは言うものの、実際クリシェに取ってはなかなかの大荷物であろう。
「キース、わんわんの後ろは任せましたよ」
「は! お任せください」
第三大隊長キースに告げて、前線に。
丘をゆっくりと下っていく。
兵達はクリシェの荷物を見ると何事かと振り返るが、クリシェは特に気にしない。
いいというならいいのだろう、とグランメルドはクリシェの槍が他の兵に引っかからないように先導し、兵士達に道を開かせる。
高々槍八本、それでどうにかなるものかと思ったが、クリシェがいけるというなら任せても良いかと納得していた。
投槍は本来突入する手前――号令による一斉投擲によって初めて意味が生じるものだ。
指揮官としては無意味だと考えたが、グランメルドは一人の戦士としてクリシェの言葉には強い信頼を置いている。
構えた戦列に対して。
軍に対し有効だと言ってのける彼女の投槍を見てみたくはあった。
ヒルキントスとの戦いで、グランメルドはそれを見逃しているのだ。
「よし、どけ。我らの姫君のお通りだ」
最前列にまで出てくると、グランメルドはクリシェと共に最前列へ。
弓兵が前面に展開し、そしてその奥には居並ぶ敵兵士が組む隙間なき戦列。
背筋が震えるような高揚。
死の恐怖こそが、いつだってグランメルドの闘争心を掻き立てる。
「それで、本当に一人駆けを?」
「はい。適当に乱しますから、適当についてきてこじ開けてください」
槍を纏めた紐を解き、クリシェには恐怖の欠片もない。
万の敵に対する最前列――そこへいの一番に突っ込む気でいながら、だ。
狂ってる、とグランメルドは頬を吊り上げた。
生粋の戦闘狂であると自負するグランメルドですら、この少女の前には不純であった。
野営地を歩くときのように、この状況にも心を揺らさず普段通り。
絶対的な自信――彼女はグランメルドの基準などでは測れぬものがある。
多くの猛者を見て来たが、一人として彼女ほどの自信家を知らない。
「わんわんが道を作って、クリシェが王弟殿下の首を取って終わりです」
「はっ、単純明快でいい」
「はい、その方がクリシェも気兼ねなく。シンプルが一番です」
言ってクリシェは槍を放る。
遠くから、徐々に近く。
放物線を描いた槍は不思議と同時に大地を穿ち、
「では」
クリシェが風を裂くように飛び出る。
腰を深く落として一歩、二歩目には既に最高速であった。
その加速力には目を見張るものがあり、しかし見るべきはそこではない。
加速し、過度の前傾姿勢になったその体。
それに急制動を掛けるように、上体を反らすと眼前の大地を踵で蹴りつけた。
全身が吹き飛びかねないその衝撃を膝で柔らかく受け止め、そして暴れまわる上体を前方に――構えられた槍は遥か後方から轟音を立てながら放たれる。
剛弓から弾き出される矢ですら、この槍の速度には追いつけまい。
音すらを置き去りにしかねないほどの速度。
誰もが目を奪われる白兵槍の弾丸は一拍の後、矢すらも届かぬ距離から弓兵の列を貫いた。
そして更に後方、重装歩兵をその構えた大盾ごと粉砕し――呆気なく重厚なその前列に風穴を生じさせる。
間近で見ていたグランメルドは唖然とした。
これだけ言うのだから、自分よりは強力な槍を放てるのだろう。
その程度に考えていたが、クリシェの投槍は軍を相手に十分――言葉通り、軍を相手に不足ない。
彼の想像を遙かに超える、まさに極まった個人技であった。
崩れたバランスと慣性運動に逆らわず、クリシェは地面に手をつき猫のようにくるりと回る。
次の槍へと手を伸ばし、再び加速、急制動――常軌を逸した破軍の槍を容易く放る。
先の一点より若干左――その肉の壁を突き砕く。
――戦場に響いたのは大気を震わす敵の悲鳴と、丘の上からの大歓声であった。
全体から見れば一射で十数から二、三十。
仮に全てを放ったとして、それで殺せる敵の数など二百に届くまい。
4万5000の兵力全体からすれば、与える損害は微々たるもの。
しかしそれだけの戦果をただ一人――単なる個人が全ての兵士に見せつけるのだ。
その士気高揚の効果はもはや万の兵に匹敵するものであった。
眼前の大軍に怯んでいた中央布陣の兵士すらが、右翼で起きたその光景を丘の上から目に焼き付け、全身から振り絞るように歓喜の声を叫んでいた。
逆に、相手に与えるのは常軌を逸した超越者への恐怖。
強固なる前衛を呆気なく、たった一人の少女に突き崩されたことに対する怯え。
誰の指示でもなく、示し合わせたように。
踊る彼女へ向けられるのは無数の矢雨であった。
本来軍に向けられるべき無数の弓はただ突出するクリシェに向けられ、放たれる。
空を黒く覆い尽くす矢の嵐は少女を狙い、けれど少女は何事もなかったかのように前へ進む。矢の雨の中を当然のように加速する。最小限の動きで隙間を縫う。
弓を放つ彼等には、まるで矢すらが彼女を怯えるように――自分から逸れていくかのように見えた。
彼女が三本目の槍を掴めば、彼らは更に恐怖する。
――ただ一人の個人によって、いつの間にか戦場の空気は入れ替わる。
丘の上から見ていた軍団長や大隊長、そしてノーザン=ヴェルライヒですらが、その常理の外にある個人の武に、堪えきれず笑い出す。
統制と戦列、組織の前に死んだはずの古き蛮勇、戦士の原型を、体現せしめる少女の姿。
今では絵空事に成り果てた無双の英雄、その姿がそこにあり――
「――もはやこの場に指示もあるまい!」
そして、それを間近に見せつけられたグランメルドは、背筋を駆け上がる狂熱に声を張り上げた。
「俺は行くぞ、お前達はついてこい!! あのイカれた姫君の後ろにいるのが誰か――それを見せつけてやれッ!!」
三本目の轟音が響き、クリシェが四本目を掴む前にグランメルドは前進する。
配下との歩調など全く気にせぬ全力疾走――グランメルドは一匹の獣と化した。
しかしそれを気にする者などどこにもいない。
『狼群』――元より彼等が知っているのは、その長の背中を追うことと、敵の肉を食むことだけ。
古参の中でも足の速い魔力保有者がグランメルドの疾走に続く。
足の遅いものは彼等が置いていった兵士を乱暴な手段で指揮下に組み込む。
彼等の長がこのように飛び出すことはそう珍しいことではない。
捨て身染みた特攻、統率なき攻勢。
敵の血肉を喰らい、命を磨りつぶし、そうして幾度も地獄をくぐり抜けてきたからこそクリシュタンド最強と――『狼群』の名を周辺諸国に轟かせてきたのだ。
既に彼等に迷いは無く、士気は頂点を振り切っていた。
ギルダンスタイン軍の弓兵指揮官は状況を理解し、声を張り上げる。
だが彼等の部下は狼の群れに踏みつぶされようとしていることにも気付かず、突出した恐怖の象徴――銀色の化け物を狙い続ける。
殺さねば殺される――そういう集団ヒステリーに飲み込まれているのだった。
放たれる槍の威力は彼等の軍人としての常識と理性を完全に砕き――彼らを軍という組織部品から、単なる哀れな一個人へと変化させてしまっていたのだ。
破軍の槍が放たれ、少女は次を掴み。
少女の可憐な容貌が、余計に彼等から現実感を喪失させる。
端にいた弓兵ほど早く、自身に迫りつつある敵軍の存在に気付き精神を立て直したが、その常軌を逸した槍に狙われる中央は統制が利かず、
「きさ、ま――ぁ、ッ!?」
通りすがりに指揮者を切り裂くクリシェによって、その状況は悪化する。
くるくると身を躱し、剣技というよりいっそ舞いのような鮮やかさで。
クリシェは弓兵の列へ斬り込み踊る。血煙が渦を巻き、悲鳴が幾重にもこだまする。
大地を舐めるような姿勢で視界から消え、擦り寄る猫のように間合いを詰めた。
誰もが彼女を警戒しながら彼女の姿を見失い、血花が咲いてようやく彼女の存在を認識する。
死体は皆この状況に理性を失わぬ猛者であり、そしてその全てが首を中程から裂かれて死んでいた。
彼女が通り過ぎても、彼等の地獄は終わらない。
響いたのは人が生じさせたとは思えない、鈍い轟音。
人波に頭一つ高く見えるのは狼を象る兜。
片手で天高く掲げるのは、常人では持つ事も出来ぬ六尺七寸の大鉄棍。
宙を舞うのは味方の弓兵――その歪になった肉塊であった。
――大狼グランメルド=ヴァーカス。
そしてそれが背後に率いるのは、彼と同様、人の域を超えんばかりの猛者達であった。
無数の戦場と地獄をくぐり抜けてきた狼は、もはや逃げ惑う弓兵達の息の根を止め、その列をかき分け進んでくる。
そしてその背後には更なる軍勢の姿。
完全に中央弓兵は士気が崩壊――その統制を失った。
クリシェはもはやそれを見ることなく、最後の槍を掴み取る。
この短時間でこれだけ放った影響は小さくはなく、体には疲労感。呼吸は乱れている。
変に伸びた筋が少し痛み眉を顰めるものの、とはいえそんなことはクリシェの考慮に値しない。
どれだけの疲労、痛みがあろうと、意識を失わない限り自分は機能する。
同じように戦える。
感じる苦痛や疲労などクリシェに取ってはどうでも良いことであった。
クリシェが求め、守ろうとするもの――これはそのための戦いであるのだ。
彼女はいつだって、それが誰かのためであるなら自身の労苦を厭わない。
先ほどまでと変わらぬまま。
自らが吹き飛びかねない運動エネルギーをただ手に持つ槍に。
放たれる槍は眼前――既に崩壊した敵前列へ飛び込み、そこにあった無数の人生を終わらせる。
肉がひしゃげ、抉れ、弾け飛び、生き残った兵士達は自分を怯えた目で見た。
クリシェは気にしない。
彼女に取って『それ以外』は常にどうでも良いことであった。
元々クリシェに取って、この世界のほとんどのことはどうでも良いのだ。
ただひとつまみの大切なものだけのために、彼女は全力を尽くすだけ。
花壇の雑草を引き抜くように。服の埃を払うように。
無感動にただ、目の前を綺麗にしていくのみだった。
「はっはぁ!! ようやく追いついたぞ!」
クリシェの右脇から、抜けたグランメルドが鉄棍を振るう。
そしてすぐに十数人が彼に続く。
「最っ高の突撃だ。こりゃあ癖になる!」
「……何よりです」
グランメルドは少し疲れたらしいクリシェの様子に笑い、お任せを、と告げた。
「これだけお膳立てをしてもらったんだ。抜けるまではお休みを。ここからは俺の軍団だけで十分です」
「ん……わんわんの言葉に甘えます」
クリシェは怯える敵の群れに目をやると、先頭から退き中へと入る。
代わりに飛び出したのは狼群――その最精鋭。
グランメルドの配下達の質は黒の百人隊より上であった。
最前線への慣れが違う。黒の百人隊にいたならば、彼らは皆最上位だろう。
それが数十人――グランメルドの軍団はやはり質が良いとクリシェは感心する。
突破力、攻撃力という面で見た場合、同数で戦えば劣るのは百人隊。
彼等は兵士個人の武力として突出したものがある。
指揮を放棄した大隊長まで集団に混じっている様子を見るに当然かとも思えたが、それにしても精強であることは間違いない。
「っとぉ、ありがとうございます、姫様!」
「気を付けてくださいね」
兵士に迫りつつあった敵の首を浅く裂くと、そう一言告げて再び中央へ。
クリシェは周囲に視線を走らせる。
とはいえ連携、防御面ではやはり悪い面も目立った。
仲間に構わず突撃し、敵を殺す。
士気も高く、結果として圧倒的な攻撃力を手にしているが、連携を重視しないために持続力という点に問題がある。
全員がグランメルド級の実力者であればどうにかなるのかもしれないが、そうでなければ魔力保有者は常人より優秀なだけの兵士でしかない。
刺されれば死ぬし、切られれば死ぬ脆い体――彼等の消耗率は百人隊と比べれば高くなるに違いないと考え――
「後列! 上がれ!!」
隣にいたグランメルドの声が響き、クリシェは耳を押さえる。
声と共に後続が速度を上げ、そのまま先頭にあった魔力保有者と入れ替わった。
後続に魔力保有者はほとんどいない。
が、代わりに軽装歩兵としては非常に優秀な兵士達であった。
この乱戦の中、ある程度の統制が成り立ち、個人技も優秀。
そして入れ替わった魔力保有者の代わりに――
「ひ、ぃ――っ!?」
めぎょ、と。
響くはグランメルドの奏でる歪な肉のドラムであった。
左右に振り回せば左右に敵の骨と鎧が砕け、肉が飛び散る。
鉄棍の扱いは力任せで乱暴――しかし単なる兵士を相手であれば非常に効率的にも思えた。
魔力保有者に先行させる場合に自分は休息し、そして彼等が休息する間グランメルドが前に出る。
結果として突撃の衝力を失わず、敵に休息と立て直しの間を与えない。
全くの無鉄砲ではないのか、と少し感心する。
精強なるグランメルドの軍団は、意外に細かい攻撃のリズムとペース配分が守られているのだ。
魔力保有者と自分を矛に、そうでない兵士を盾に――それを上手く使い分けている。
クリシェは軽く跳び周囲を確認すると人の海へと潜る。
見えたのは軍団長――そして次に浮上するのは、
「ぁ、がっ!?」
首を裂く時。
その副官の首をついでに裂くと、グランメルドがすぐに追いつき口の端を吊り上げる。
「俺にも残しておいてもらえると嬉しいのですが」
「手柄が欲しいならわんわんが殺したことにしてもいいですよ。クリシェはどうでもいいです」
「はは、そういうことじゃないんですが……まぁ、クリシェ様にはわからんでしょう!」
近場にいた兵士を弾き飛ばし――そしてそれで終わり。
開戦から半刻にも満たない時間であった。
クリシェ=クリシュタンドとグランメルド=ヴァーカスはまさに鎧袖一触。
敵本陣正面の兵を圧倒し、食い破る。
兵列を抜けて踊り出るは敵本陣――見えるは王弟ギルダンスタインの王国旗。
誰より先にクリシェが、そしてグランメルドが続く。
こちらを見た兵士達――そして奥、馬上にあったギルダンスタインは馬から飛び降りる。
クリシェは冷ややかな感情を帯びたまま、冷静に前へ出た。
走り込んで来ていた騎兵隊の列に頭から突っ込むとその先頭三騎を殺して潰し、後続を転倒させる。
周囲にあるもの――クリシェには全ての動きが止まって見えた。
騎兵の手にあった槍を奪い取ると、次いで正面。
壁を作る障害物を投槍で穿つ。
砕け散った肉片すらを気にせずクリシェは踏み込む。
純然たる殺意だけがそこにあった。
対する全ては彼女の無機質な紫色に見据えられ、言葉を失い、戦意が凍える。
彼女は暴虐の嵐であった。
雷と暴風をその身に纏い、通り過ぎる全てを引きちぎり、食い破る。
踏み込めば風を置き去りに。
見ている者の意識すらが虚空を眺めた。
辛うじて見失わずにいた熟練のものだけが、その刃が放つ閃光を捉える。
戦場で扱うには小ぶりな二尺にも足らぬ刀身。
刃の側に折れ曲がった刃は磨き上げられた鉈のようで、だというのにその刃圏は槍の間合いに等しく思えた。
まるで彼女の腕そのものが鎌か何かのようで、人の首は紅の草花か。
振るわれる度刃は残光を、そして血雨を周囲に撒き散らす。
戦いではなかった。
辛うじて構えた熟練の剣を、すり抜けるように少女は一閃。
それで勇者の命が一つ、呆気なく終わりを迎える。
素人の如き若者も、数十年を剣に費やした達人も、いずれも等しく。
少女の刃は人の域を超えていた。
少女の前の壁――それを更に砕いたのは人であった肉塊。
ただ力任せに強引に、グランメルドは掴んだ死体を戦列に叩きつける。
「どけぇッ!!」
その場にあって彼の体躯は一際大きく映った。
弾け上がる魔力の渦がそうさせるのか。
ただ握力にて兜ごと兵士の頭蓋を圧壊させ、狂笑する。
背後に引き連れるは狂った狼の群れ――彼はまさに大狼であった。
彼女らの前に、兵とは叫ぶ障害物。
戦術も何もかもを力でねじ伏せ、突破する。
――そして。
「……終わりです」
二本の尾を揺らした少女が黒塗りの獅子鎧――ギルダンスタインの心臓へと、奪った剣を突き立てた。
誰もがその場の傍観者であり、彼女の暴威を止めるものなどいなかった。
が――
「また、こんな……――っ!」
最先頭にあって冷静であった、彼女の美貌に怒りが宿る。
苛立たしげに死体の鎧を踏み抜き、その胴をひしゃげさせてあばらをへし折った。
その様子にグランメルドが気付き、周囲を見渡す。
兵達の顔には恐怖と――安堵。
「……この後に及んで影武者、か――くそったれめがっ!!」
近くにあった敵兵の頭蓋を砕きながら、グランメルドは叫ぶ。
「王弟ギルダンスタインは我らに恐れをなして逃げだした!! 見よ、貴様らが王と崇めたまやかしを!!」
クリシェの殺した影武者の死体を掴みあげると、その首を易々と引きちぎり、頭上に掲げる。
どうあれ、目的を達成出来ていないのであれば継続するまで。
敵を真っ二つに分断した今、ギルダンスタイン軍左翼――そこにある一万に生き残る術は無い。
「……クリシェ様、仕方ありません。このまま敵左翼をこちらの右翼と合わせ潰します」
「ちょっとだけ、待って……ください」
クリシェは思考の終着点に、拳を握る。
何故、わざわざクリシェに顔を見せ、あれほどにクリシェを挑発したのか――
「……そういうことですか」
昨日の開戦は昼の予定であった。
軍を分けた報告のあった一昨日――朝の段階で彼我の距離は百二十里。
軍はゆとりを持っても、八十里は行軍が出来る。
そのため早ければ昼前――遅くとも昼過ぎには接敵するという見込みであった。
しかし結果としてギルダンスタインの到着は昼を大きく過ぎ、夕刻が近づいてから。
兵の疲労を考え、到着と同時のぶつかり合いを避けた。
クリシェ達が南下せず、現在の場所に布陣したため更にゆとりを見た。
こちらは彼らの行動をそのように考えたのだ。
しかし、それならばあちらは更に時間を遅らせて夜でもいい。
開戦のタイミングを選ぶのは向こうなのだから。
何故あの日の夕刻、わざわざ顔を見せたのか――こちらと向こうにある力の差を測り、寄せ集めの兵達に戦場の空気を味わわせるためとも考えられたが、違う。
わざわざ夕刻を待って顔を見せたのは、こちらに朝まで気付かせないため。
ギルダンスタインがここにいるのだと、クリシェを安心させるため。
「……クリシェと戦うつもりなんて、最初からなかったんですね」
顔を見せた夜の内にギルダンスタインは移動し――そして増援として分かれたナキルス=フェリザーの軍団へ合流する。
狙うは当然、
「……セレネ」
クリシェは痛むほどに剣の柄を握り、呟いた。
――翌日、ドーバル平原。
「……本当に、王弟殿下でしたか」
クリシュタンド軍本陣。
セレネ=クリシュタンドはこちらの守りを突破してきた男に目をやる。
「いくらか考えてはいたが、あれと戦うのはリスクしかない。あれを大人しくするにはどうすべきかと考えれば、やはり原則に倣い弱点を突くべきだと思ってな」
身につけるのは黒き獅子鎧ではなく、夥しいほどの血を浴びた鈍色の甲冑であった。
要所を守る軽装のハーフプレート。
その姿は単なる一隊長に見え――しかし肩に担ぐは身の丈を越える大戦斧。
彼が引き連れた大部分はこちらの守りに抑えられてはいるが、彼の周囲にあるのは少数ながら精鋭であった。
「安心せよ、殺しはせぬ。人質の意味をなさぬからな。あれに関しても同様、一応の約束がある。……そこで提案だ」
ギルダンスタインは笑って、周囲の状況を示す。
コルキスは敵右翼に深く斬り込んでしまっている。
エルーガは前方――この状況に気付いているが、ギルダンスタインの牽制が効いている。
「俺はこの軍の将として、お前に降伏を求める。応じるならば――ギルダンスタイン=カルナロス=ヴェル=サーカリネア=アルベラン、この名に誓い、王国に流れる血に誓って、これをこの内乱――その最期の流血としてみせると誓約しよう。……無用な死人は出したくなかろう?」
「ありがたいお言葉ですわ、王弟殿下」
――けれど、と続けた。
剣を引き抜き、突きつける。
ボーガンの長剣であった。
「ですが、一軍の将として――多くの血と犠牲の上に立つ身として……そして、家族を守る一人の家長として、あなたの誘いに首を縦に振ることはできません」
青い瞳を揺らさず、芯に。
セレネはギルダンスタインを見据える。
ギルダンスタインはただ楽しげに笑う。
「……あがくじゃないか。くく、気に入った。……お前は王妃にしてやらんでもないぞ」
「できるものならば。――それと、殿下は一つ、勘違いしておられますね」
セレネもまた兜の下、その美麗な顔に薄く笑みを浮かべた。
「……この場にはまだ、あなたが死ぬという結果が残されていますよ」
兵列を裂き。
飛び出た影が刃を振るう。
当然のようにギルダンスタインはそれを受け止め――しかし、すぐに距離を取る。
彼がいたその場所に、無数の影が躍り出る。
身につけるのは黒塗りの鎧ではなく――けれどその全ては魔力保有者で構成されていた。
斬りかかった女は兜の下から黒髪を揺らして、セレネを守るように前に立つ。
そして数十の兵士がそれに倣った。
天に掲げられるのは三日月髑髏の百人隊旗――
「お姫さまを奪うにはそれなりの試練があるもんだ、殿下。知らなかったかい?」
「なるほど、あれの部隊――黒の百人隊だったか」
くく、とギルダンスタインは笑い、大戦斧を担ぎ上げ、
「……お前の考えか、それとも忌み子の考えか……なかなか考えたものだな。戦の締めには悪くない。――いいだろう」
英雄ボーガン=クリシュタンドを相手取ったときのように。
「……相手をしてやろうじゃないか、雑兵ども」
――その全身から膨大な魔力を迸らせた。