悩めるお子様
――歪んだ異常者。
社会的にはそうなのだろう。ずっと前から知っている。
少なくとも、自分は普通とは違う。
彼等の笑い話や冗談が理解出来ない。
他人が悲しんでいても、怒っていても、痛がっていても、自分に関わりないならどうでもよくて、人間が肉塊に変わっても何とも思わない。
『普通の人間』が感じる当たり前が、よくわからないのだった。
本当はそれでいいとも思っていた。
感情は冷静さを損なう。
感情的な人間はクリシェの考える優秀な人間とは真逆に位置していたし、そうした『普通』に近づくメリットを、特にそれほど感じなかった。
ただ、それは社会――人間関係を良好に保つために重要な要素であったから、上手に『普通』の振りは出来るなら覚えておきたいとは思っていたけれど、とはいえそれが駄目なら駄目で仕方ない。
自身が誰より優秀であることは間違いなかったし、社会に混ざる事を諦めるなら、最終的にどうにでもなることだから。
それがなんだかおかしくなったのは――
『……わたしも、クリシェ様のそういう変わった部分が変だとは思いませんし、気味が悪いとも思いません。むしろ他の人にない、クリシェ様の魅力的な個性だと思います』
――あの日から。
それから、クリシェはずっとおかしくなっている。
「…………」
毛布の中で薄目を開けて、温もりを求めるように、エルヴェナの胸に顔を押しつけた。
温かい。心地良い。落ち着く。安心する――持て余すくらいに沢山の感情。
昔はずっとシンプルだったと思う。
体温調節、クッション。その程度のものであった。
けれど今はこうして抱きしめられることに依存している。
そうされると嬉しくて、逆に一人で眠るときが落ち着かなくて、ぐっすりと眠れない。
昔ならそれほど問題に感じなかった。
我慢するのは寒さだけで良かったから。
――自分がずっと弱くなってしまったような気がしていた。
平気だったものが平気じゃなくなり、今までは気にしなかったことで感情が揺れ動く。
反面なくなることが想像出来ないくらいに、喜びも大きくなって。
今の自分にあるのは、どうしようもない不安定さ。
「……ベリー」
クリシェはどうしようもないくらいにベリーに依存している。
好きだとか、愛してるだとか、言葉は一杯教わった。
けれどそれで足りないくらいに、表現出来ないくらいのものがクリシェにあって、そうした何かを持て余して、頭が変になりそうだった。
ベリーはクリシェに何も求めない。そのままでいいのだとただ告げる。
けれどクリシェはベリーになんでもしてあげたい。
返しきれない『お返し』ばかりが貯まっていって途方に暮れる。
だから少しでもベリーに好きになってもらえるように、嫌われないように、悲しい顔をさせないように、喜んでもらえるように。
『普通』の振りではなくて、いつか本当の『普通』になりたいのだ。
叶うなら、ベリーが望む一番のクリシェになりたいのだった。
『……お前は獣だ。人に紛れているだけの』
言われなくても知っている。
ベリーはそれを個性だと言う。
ベリーはクリシェを好きだと言う。愛してくれると言う。
けれど不安はいつも付きまとう。
『くく、お前が慕うものも皆、それに気付けば離れていくさ。セレネも、いつぞやの使用人も勘違いしているだけだ』
今は大丈夫だって、そう言い切れる。
でももしかしたら、来年は、十年後はもしかしたら。
クリシェは異常者なのだった。
そんなクリシェをずっと好きでいてくれる保証なんて、どこにもありはしないのだ。
だからもっともっと、好きになってもらえるように努力して――ああ、やっぱりおかしくなっている。
今は戦場。今は無関係な話。
今考えるべきは今日の戦場の事で、だというのに小さな不安は無関係に、クリシェの胸の内を這い回る。
ただただ、不愉快だった。
ギルダンスタインの顔を思い浮かべて、顔を胸に押しつける。
息を吐きだす。
そうするとふと頭が撫でられ、顔を上に向けると心配そうな表情をしたエルヴェナがこちらを見ていた。
「寝付けないのですか?」
「……なんだか、起きてしまいました」
食事をして、早くに寝た。
落ち着かないときにはそうするに限る。
けれど眠りが浅く、何度か目覚めて。
まだ太陽も昇らない時間であった。
「……戦の最中ですから。仕方ありません」
エルヴェナは言って、常魔灯に指を当てる。
指先に帯びた僅かな魔力――それを与えられた常魔灯は暖色の光を優しく放った。
魔力を内蔵させているタイプの常魔灯であれば、魔力保有者でなくとも誰もが持つ微々たる魔力で点灯させることが出来る。
だがクリシェの持って来ているそれは内蔵式ではない。
エルヴェナがそれを容易に点灯させたことに少し驚いた。
魔水晶に魔力を送り込むことはきちんとその術を学んだものにとっては容易であるが、そうでないものには難しい。
「上手ですね」
「……え?」
エルヴェナは首を傾げ、それからクリシェの視線から察して微笑む。
「ああ……こういうものの手入れはさせられていたので」
魔力を内蔵しないタイプの常魔灯は主流ではなく、ある種試験器のようなもの。
常魔灯の質が悪かった時代には、貴族の間で相手の能力を測るために使われていたらしい。そのためわざと発光し辛いように作った常魔灯なども存在していた。
多すぎず、少なすぎず。
適当な魔力を安定して送り込まねば常魔灯は明滅する。
発光に必要な魔力を理想的な配分で送り込まねば時間も掛かる。
今は常魔灯自体質が良くなっているし、試験器としての役割は完全に形骸化しているのだが、こうしてその力を測るには十分機能する。
その点、エルヴェナのそれは丁寧で、ある程度洗練されていた。
不愉快な事柄から意識を背けるように、クリシェはそちらへ意識を傾ける。
「……戦が終わった後、良い仕事が見つからなさそうならクリシェの手伝いをさせてもよさそうですね。エルヴェナは気が利きますし、覚えるのは早そうです」
言った後、それもそうだとクリシェは頷く。
よくよく考えれば魔力の扱いが『それなりに上手』なカルアの妹であるのだから、単に使用人をしてもらうよりはそっちの方が良いかも知れない。
基本的に屋敷のことは、ベリーとクリシェで十分過ぎるのだ。
「……手伝い?」
「はい。国が落ち着いたら、クリシェはちょっと色々なことを研究したいですから、その手伝いです。魔水晶を使った工作ですね」
ボーガンや、怪我をしたダグラを見たときに思ったようなことだった。
上手くやればああした傷もちゃんと治す仕組みを作れるかも知れない。
思いつきであれくらいのことができたのだから、きちんと学びさえすれば。
「戦場は色々と不便ですし、怪我だとか問題も良く起こりますから。そういうのをなんとか出来るようになれば良いな、って」
「……恐れながら、私は学がありませんのでお役には立てないかもしれません」
「クリシェも全然勉強してませんから、気にしなくていいですよ。手探りですし」
本当はベリーが一番いい。
頭も良く、クレシェンタの次に魔力の扱いが上手で、パートナーとしてはこれ以上ない相手であるのだが、クリシェはベリーの大切な料理の時間を奪うような真似はしたくない。
それを思えばやはりベリーは難しく、とはいえセレネもクレシェンタも忙しい。
適当な相手となれば、やはりエルヴェナだろう。
「今回の戦いは今日で終わらせる気ではいますけれど、戦争はしばらく続くかも知れませんから。クリシェの周囲で誰も死んだりしないようにしたいのです」
「……そういうことでしたら、否応ありません。お役に立てるならばどんなことでも」
エルヴェナはくすりと微笑む。
カルアのような顔で、ベリーのような笑顔。
そのままクリシェを起こすと膝の上に乗せ、優しく抱いた。
「……目が冴えてしまったようですし、紅茶でも淹れましょうか」
「えへへ……はい。エルヴェナは眠くないですか?」
「はい。元々眠りは短くても平気な方で」
戦場で何かあったのか。
クリシェが落ち着かない様子であることはわかっていた。
ここに戻ってきてからどこか苛立たしげに見え、ベッドに入ってからもどうにも寝付けない様子。
かと言って何も言わない彼女にそれを尋ねることも出来ず、彼女が完全に眠ることを諦めてからは少しでも気が休まるように、エルヴェナは戦場のことから彼女の意識を逸らそうと考えた。
どうした話題が良いか――思いついたのはベリーという使用人のこと。
クリシェが何かと口にするのは彼女の名前で、彼女の事を語るときにはいつも嬉しそうであったから、それが良いだろうと思ったのだ。
「ベリーはですね――」
それが切っ掛けか。
そうして始まったのはエルヴェナが閉口するくらいの止まることない自慢話であった。
料理がクリシェと比べものにならないくらい上手で、屋敷のことを全て一人でこなしてしまう完璧な使用人であるらしい。
何をやらしても一流で、彼女がいかに優しくて賢くてすごいのかと、とにかくクリシェは大絶賛しながら記憶の中のエピソードを無数に引きずり出してくる。
クリシェは少なくとも、エルヴェナが今まで見た中で最も料理上手であった。
手早く器用で、複数のことを当然のように並行してこなす手際の鮮やかさは本職ですら敵うまい。
そんな彼女とは比べものにならないくらい料理が上手――屋敷の仕事を一人でというところも、そこに関わる仕事量を知っていればこそエルヴェナには眉唾なのだが、しかしクリシェがそう告げる以上恐らく事実であるのだろう。
エルヴェナが想像するのはクリシェに輪を掛けたような超人である。
超人のクリシェが手放しで称賛するような相手とはどのような人間なのか――エルヴェナのイメージの中にあるベリーはクリシェ(大)であった。
「ベリーはクリシェのこと、愛してるって言ってくれて、えへへ、それで……」
そうして話は、それを聞いていたエルヴェナが頬を赤らめるくらいの無邪気なノロケ話へ。
この辺りでエルヴェナはこの話題を振ったことにほんの少し後悔していたが、とはいえ話し出したクリシェは止まらない。
好き好き、大好き、愛してるなどと照れ照れと語るクリシェを見ていると、どうにもエルヴェナの悪戯心がくすぐられるものがあったが、とはいえ律して相づちを打つに留める。
話を聞いている内に、先日のキスに動じなかったのはこの純粋さ以上にああした行為が日常的であったためではないだろうかと、エルヴェナは知らず真実を射抜いた。
クリシェの話は本当に子供のそれであった。
筋道を立てて、合間に笑いを誘ったりなんていうことはしない。
ただあったことを垂れ流すような、気持ちが先行するような語り口調。
伝わるものと言えばベリーが好きということと、『お屋敷』での生活がとても幸せであったのだということだけだ。
面白いかと言えば面白くはなく、楽しいかと言えばどちらかと言えばうんざりするのかもしれない。
話は極めて下手で、ある意味ロランドの自慢話の方が楽しめたかもとすら思う。
とはいえ――いかにベリーはすごく、どれほどクリシェが彼女を大事に思っているのか。
しかしそれを終始楽しげに、幸せそうに語る姿は愛らしくて、微笑ましい。
聞いているだけで胸の内が温かくなるような感情が生じて、エルヴェナは時折相づちを打ちながら頭を撫でた。
客に愛を囁かれたことはある。
醒めた心で聞き流した、その時の気持ちも覚えている。
けれど怖いくらいに可愛いらしい、こんな少女にこんな風に、何のてらいもない愛を囁かれるというのはどのような気持ちであるのだろうか。
「ベリー様は幸せにございますね、クリシェ様にそのような好意を向けられて」
――それはきっと、何より幸せなものに違いないだろう。
深く考えるでもなく、単に思ったままのエルヴェナの言葉。
「……そうでしょうか?」
それにクリシェが反応し、エルヴェナは首を傾げる。
「なにか?」
「……いえ。そうだといいです」
言いながらも途端に火が消えたように、クリシェは黙り込んだ。
これほどまでにのろけておいて、何かの不安があるものか。
エルヴェナは少し考えて告げた。
「ふふ、クリシェ様にそんな好意を向けられて、喜ばないものなどおりませんよ」
実際はそうとは限らない。
とはいえ彼女にならば、好きと言われて煩わしく思うものもそうはいまい。
これだけ彼女に愛される、ベリーという女性であれば疑う余地もなかった。
「そうですね……仮にわたしがクリシェ様にそのように好きだと言われたら、それだけで一生幸せに過ごせる自信があります。きっとベリー様も同じですよ」
「……なんだかやっぱり、エルヴェナは色々大袈裟な気がしますけれど」
「それはクリシェ様がご自分を過小評価なさっているからでしょう」
くすくすと笑ってクリシェの頬を撫でた。
「……戦いが終わったら、直接尋ねてみれば分かりますよ。きっと、いえ絶対にベリー様はそのようにクリシェ様を想ってらっしゃいます」
「……この先も、ずっとそうでしょうか?」
「ええ、もちろん」
くすりと笑って、ご自分に自信がないのですね、とその整った顔を眺めた。
こんなに綺麗でなんでもできるのに、どうしようもないくらいに不器用で、ちぐはぐなのだ。
それがおかしくて、妙な気分だった。
「クリシェは、その……、普通じゃないですから」
そしてそんな言葉を聞いて、ああ、と納得する。
彼女の一面を切り取った噂話――噂はある程度知っている。
戦場に出た際、何かを言われたのかもしれない。
敵対するもの同士、心ない言葉も吐くだろう。
なんというべきか――エルヴェナはその紫色を見つめて告げる。
「誰しも良い面、悪い面があるものです。クリシェ様がそのように普通じゃないことをご自身の欠点だと認識するように、わたしにだって、ねえさんにだって、きっとベリー様にだって、そういう欠点はあるものですよ」
クリシェは目を見開いた。
そうですね、と考えて、エルヴェナは肩で揃えた自分の髪を一房掴む。
ほんの少し内にカールした程度――こうして短くしていれば気にならずとも、伸ばすとそれが強まって、絡まり出す。
「例えばわたしはこの髪がこうしてゆるゆると巻いてしまうのがすごく嫌いで、自分の欠点の一つだと思ってます。クリシェ様はどう感じますか?」
「え? いえ、全然変でもないですし――」
「ふふ、それですよ。自分で思っている以上に、他人は自分の欠点なんて気にしていないものなのです。好きな相手ならばなおさら……もちろん大きい小さいはありますし、だからといって自分の欠点を気にしないというのは問題なのですが」
クリシェ様のそれも同じことです、とエルヴェナは言った。
「本によると、他人の良いところを見つけることが好きになることで、その悪いところを受け入れるのが愛情なのだとか。……昔、わたしが嫌いなこの髪を、ねえさんはかわいいって言ってくれました」
とても嬉しかったですと微笑み、クリシェの頭を優しく撫でる。
さらさらとした、憧れるくらいに綺麗な髪だった。
「ちょっと違いますけれど、似たようなものです。……ベリー様はクリシェ様のそんな普通じゃないところが、とても愛おしいと思っているのではないかと思いますよ。きっとそれを受け入れた上で、クリシェ様を愛していらっしゃるのではないかと」
クリシェは目をパチパチとさせて、少しの間。
それから目を伏せ、嬉しそうに顔を押しつけた。
「……えへへ、やっぱり、エルヴェナはベリーに似てますね。言うことも、なんだかそっくりです。ベリーなら、そんな風に言ってくれそうな気が、して」
「一人でそういうことを考えていると、大体悪い方、悪い方へと考えていってしまいますから。話してみればなんてことはないことでも」
エルヴェナは自嘲するように言った。
「……わたしもそうでしたから。ねえさんは馬鹿なわたしのことなんてもう忘れてるんだろうなって、一人でそんなことを考えて、決めつけて、諦めて……でもねえさんはずっと、そんなわたしを必死に捜していてくれていました」
そうしてクリシェを抱きしめて、その髪に顔を押しつける。
「頑張ってくれていたねえさんに、失礼で、馬鹿なことです。一人で勝手に思い込んで、そんな風に考えて――クリシェ様がそのように不安に思われることの方が、疑われることの方が、ずっとベリー様には辛くて悲しいことだと思います。悪い方に、悪い方に……クリシェ様はそうやって、そんなにご自身が愛していらっしゃるベリー様を、一人になる度お疑いになるのでしょうか?」
「……それは」
「それが同じように悩んで馬鹿なことをしていた、わたしからの忠告です」
悪戯っぽく笑うと、そのまま続ける。
「……悩んだら側にいるわたしでも、他の人でも。クリシェ様のことを嫌う人もいるかも知れませんが慕う者も沢山います。声を揃えてわたしと同じ事を言うでしょう。その程度の、吹けば飛ぶような簡単な悩みですよ」
「……はい。ありがとうございます」
「クリシェ様がそれだけ大好きなベリー様ですから、そんな不安なんて再会すればすぐに消えてなくなります。だから、ご安心を」
クリシェは頷き、抱きつき。
聞いた言葉を味わうように小さく笑う。
そうしてしばらくすると、困ったようにエルヴェナを見上げた。
「あの、エルヴェナ……ちょっと安心したら、その……」
「ふふ、はい。じゃあまたベッドへ戻りましょうか。朝になったら起こしますから、それまではゆっくりと」
「……はい」
甘えるように抱きつくクリシェに苦笑して、その小さな体を抱き上げた。
「早く終わらせて、ベリーに会いに行くことにします」
「ええ、はい。……そのためにはゆっくり休みませんと」
腕の中で、思いついたようにクリシェは微笑む。
「戦が終わったらちょっとの間、エルヴェナにもしばらくお休みをあげますね。カルア達にも与えるつもりですから一緒にゆっくりしていいです。百人隊は手当を出して王都に来てもらうつもりですから、適当に家を探したりだとかしておいてください」
「……王都」
「王都です。クレシェンタがいますから、クリシュタンドのお屋敷からはお引っ越ししないとですし……」
くれしぇんた、という言葉に一瞬首を傾げ、王女の名前を思い出し。
そして彼女が元は王族であるという事実を今更ながらに理解する。
これからは王女を呼び捨てにするような少女に仕えることになるのだ。
奴隷から随分な出世だと、あまりのことに実感が湧かない。
「色々やることはありますし、大変です。今日をさっさと終わらせて、それから……」
小さく欠伸をしながら、華奢な体は眠気で熱を帯びていた。
エルヴェナはくすりと笑って、その頭を撫でた。
「はい。……そのためにも、ご無事にお帰りになることを祈ってます」
「クリシェは怪我しないので、大丈夫……」
すぐに寝息を立て始めたクリシェを見ながら、そのまま。
日が昇るまで、エルヴェナはそうしてクリシェを眺めていた。