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小春日和  作者: 氷月涼
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(6)

 めずらしく暖かい陽射しが格子戸から射し込んで、土間に縦縞の影を作っていた昼下がりのこと。いくつか届いた郵便の中に和馬さんからのエアエールがあって驚いた。住所は英文タイプで記されていて、フランスからだった。すぐに封を切ることができなかった。封を切ってしまったら、夢が醒めてしまうような気がして。

 すぐに悪い方へ考えてしまうのは私の悪い癖。帰国の予告かもしれないと思い直して封を切った。中には白い便箋が一枚。ワープロで短い文が記されて自筆の署名が添えてあった。

「日本に戻るつもりはない。私のことは忘れてくれ」

 頭の中が真っ白になった。彼からは何年も音信がなかったが、こんな便りが来ることは予想していなかった。音信不通のまま時が経っていくものと思っていた。それが彼の意思だと思っていた。それを今更。今まで支えにしてきた杖を強引に取り払われてしまった。いつか会いに来てくれるかもしれない、そんなふうに思える夢を彼は私に残してくれたのだと思っていた。でも、それは私の思い込みに過ぎなかった。そんなことは本当はわかっていた。なぜ、今頃になってこんな手紙を。情けない繰り言ばかり浮かんだ。

 彼とはもう会えない。時折、美術雑誌で彼の記事を見かけた。彼は作品発表ごとに住処を変えているようだった。その織物を現地の人から学び、自分の作品に取り入れていると記事にはあった。今はどこにいるのかもわからない。たとえわかったところで、会いに行くには遠すぎる。万が一近くで暮らしていて、会いに行ける距離に彼がいたとしても、会いに行って拒絶されたらと思うと、何もできない。臆病者は家の中で想い出に浸るだけ。

 過去に彼と過ごした日々は、今思えば光の中にいるようだった。彼が制作する作品について語る時、きらきらと輝く眸の中に私を映して、一緒に夢をみた。いつか彼が世界に名を馳せる美術家になる夢を。その頃の彼は、作品を賞に応募しても落選ばかりしていた。自信を失くして打ちひしがれて、他人からの酷な批評をやり過ごせずに、私の前で批評家を罵ったこともあった。でも、創作意欲が萎びてしまうようなことは決してなかった。次から次へと新しい作品を生みだしていた。京都で彼の作品を気に入ってくれた人がいて、積極的にギャラリーでの展示をするようになり、少しずつ注目されはじめていた。その頃に活動の拠点を京都に置いて、物理的にも私との距離は縮まった。彼が私の家を訪ねてくる日が増えていった。時には甥っ子のブンちゃんも連れて。

 彼は我が家の奥庭を気に入っていた。庭の見える座敷にふたりで、何も話さず、ただひたすら佇んだ。冬の終わりには梅。枝に留まるメジロの姿を同時に見つけて目を合わせてほほえんだ。春には木蓮の花を見上げ、初夏には雨の音を聞きながら紫陽花を眺めた。夏は庭中の樹々の緑が濃くなり、蝉の声が響き渡った。酔芙蓉が白から桃色へと色を変えるその数時間を共にした日もあった。秋から冬にかけては山茶花。峰の雪という名の山茶花は、蕾は桃色、花が開きはじめると花弁が透きとおるような薄桃色で、開ききってしまうと清らかな白い花の奥に黄色い雄しべが見える。こぼれ落ちそうなほど繊細な白い花びら。山茶花は椿と違って花びら一枚ごとに散る。座敷の雪見障子から花びらがひらひらと散るその瞬間を見たのも二人一緒だった。

 二人であちこち花を見に出かけることもあった。月ヶ瀬の梅、吉野の桜、平安神宮の杜若、長岡天満宮の蓮。秋には紅葉狩り。東山の永観堂、山科の毘沙門堂。冬は決まって我が家の庭の山茶花。季節の移ろいとその美しさを共に感じることが喜びだった。

 その年の暮れ、彼は元日の初詣に私を誘った。いつもなら三が日の、まだ日の明るいうちに愛宕神社に参拝して、台所に貼る火の用心のお札をもらいに行くのだけれど、その年は愛宕山からの初日の出を一緒に見ようと彼が誘ってくれた。まだ夜明け前の冷えた空の下、懐中電灯で足元を照らしながら歩く。土を踏む二人の足音だけが響く。思ったよりも人は少なめ。二人が歩いているまわりには同じように歩いている人は見当たらない。夜に愛宕神社へ参拝できるのは、夏の千日詣りと大晦日から元日のたった二日間だけ。途中の立て札を見つけて、懐中電灯で照らし、今、何合目まで来ているかを確認しながら進んだ。話すことなく、黙々と二人で歩いた。静粛な心持ち。互いの足音の響きが心地よかった。九合目まで来ると道の端に雪が積もっていた。雪道になったら靴につけるためにアイゼンは持参してきていたが、付けるほどではないのでそのまま歩いた。石段を登り、境内に着くとそれなりに人がいた。私たちも参拝を済ませてお札を手にした後、東の景色を見渡せる場所へ向かった。眼下に京都の町並みが広がっているその場所に二人並んでその時を待った。濃紺の空は、次第に濃さをゆるめて、淡い色合いの層をなす。ほのかに明るい橙色が空に広がり、光の強さを増して、ようやく黄金に輝く朝日が顔を出した。

 その瞬間に彼は朝日を眺めたまま、穏やかに告げた。

「アメリカを拠点に織物の研究をしたい思うてる。春になったら行こうと思う。一緒に来てくれへんか」

 その思いがけない言葉に驚いて、隣に立つ彼の顔を見ると、不安そうな、申し訳なさそうな表情をしていた。私はあからさまに困った顔だったと思う。そんな私を見て、彼は朝日の光を顔に浴びながら表情を曇らせていった。

 独り立ちをしたばかりの織物を、今、やめるわけにはいかなかった。西陣を離れるつもりはなく、新しい家族を作る意志もなかった。私は父や母と生きると決めていた。ただ、共に喜びを感じる大切な人として、彼に存在してほしいと思うのは、私の我儘。彼には夢と目指す道があり、それは私の向かう道と同じ方向にはないのだ。どちらかが方向を変えることはできなかった。

 もう彼には会えないと思った。いずれ彼は行ってしまう。この先、会えないことがわかっているのに、共に時を過ごすことはつらいだけ。

 その場で私はもう会いに来ないでほしいと彼に告げた。


 その後、私の言葉にもかかわらす彼は何度も会いにきたが、私はけっして格子戸を開けることはなかった。玄関の衝立のこちら側で、格子戸に立つ彼の気配を感じて、耳を塞いでうずくまっていた。

 二人のこじれた仲はすぐに周囲に知れ渡ることとなったが、春先に彼が渡米して姿を見せなくなったことで、噂は次第に収まっていった。

 もう、二度と会うことはない。過去だけがすべて。心の中で反芻する。何度もくりかえし。やがておぼろげになっていく。彼の顔、表情、一緒に見た花々。我が家にある花だけは、毎年、記憶を上書きできる。でも、一人で見る花は彼と共に見る花とは明らかに違っていた。もう歳を重ねた彼の姿を見ることはできない。私の中の和馬さんは時がとまったまま、この先も薄れていく。

 こらえていた涙が頬を伝う。泣いても仕方ないとわかってはいても。

 突然勢いよく格子戸が開く。あわてて涙を拭った。陽射しを背に玄関に立つ人の顔は影になり、誰かよくわからなかった。背格好が和馬さんにも似ているように思える。思い出していたからだろうか。もしやと思って声をかけてみた。

「誰? 和馬さんなの?」

「俺や」と玄関に立つ人は後手に戸を閉めてこちらに向かって歩いてきた。

「ブンちゃんか……」

 文太はいつもと違っていた。いつもは顔中に笑いをあふれさせているように明るいのに、今日はそれを封じ込めたように硬い表情だった。

「どないしたん、こんな時間に。もう学校終わったん?」

「今日は昼までや。もうすぐ律子も帰ってくるやろ」

「ほんなら、ブンちゃんはえらいはよ帰ってきたんやね。どないしたん? うちになんか用事?」

「別になんもあらへん。それよりふゆ子さんのほうがなんかあったんと違うか。その、……目が赤いから」

「なんもあらへんよ。目にゴミが入って擦りすぎたんやろ」

 言いながら手にしていた手紙を小さく折りたたんで手の中に握りしめた。

「今、持ってんの何?」

「何って、ゴミや。ほかそ、思て」

「ほんなら、俺ほかすし、かして」

「ええよ、うちがほかすさかい」

「ええから、かして!」

 文太の執拗さが異様だった。何か知っているからなのか。

「わかったわ。ほんなら、ほかしてくれる?」

 私が手のひらを広げると文太は畳まれた手紙をつまみ上げて、すぐに開いて内容を確かめた。

「なんや、これ! 叔父さんからの手紙やんか!」

 文太の驚き方はあきらかにわざとらしかった。和馬さんの自筆部分は署名のみ。似せて書くこともできなくはない。そもそも突然こんな手紙が来ることがおかしかったのだ。

「ブンちゃん、ほんまのこと言うてや。うち、嘘をつかれるのは嫌やさかい。あんた、この手紙のこと、何か知ってんのやろ」

 しばらく文太はうつむいて黙り込み、静かに手紙を破きはじめた。土間に落ちた紙切れを拾い、ポケットに押し込んだと思うと、すみませんでした!と大きな声を出して土間に手をついて土下座をした。

「ふゆ子さん、ごめんなさい。俺が仕組んだことやねん。海外の子と文通しているという同級生に頼んで、文通相手の海外の子のとこから、封筒のまま切手だけ貼って投函してもらうようにしてもろてん。ほんまにごめんなさい」

 怒る気にはなれなかった。手紙が偽物だったことにホッとしていた。でも、どうして文太は偽物の手紙を送ろうとしたのだろう。

 文太はずっと平伏したまま。私は文太の腕を掴み、体を起こしてやりながら彼に訊いた。

「なんでこんなことをしたん?」

「ふゆ子さんは死ぬまでこの家におって、織物をやっていくんか? ほとんど人にも会わんと? おじさんやおばさんの体がちょっと具合悪いさかい、ふゆ子さんがおらなあかん思て? ほんならおじさんとおばさんがおらへんようになったらどないするの?」

「どないもせえへん。ここで織物をしてんのやろな……」

「俺、ふゆ子さんが寂しそうやったり、つらそうやったりするのが嫌なんや。和馬の叔父さんが来てた頃は、もっとふゆ子さんは楽しそうやった。せやけど、もう叔父さんからは連絡は来うへん。いつ来るかもわからへん。それやったら叔父さんのことは忘れて、ふゆ子さんに幸せになってほしいんや」

「和馬さんのことを忘れたからといって幸せになれるんやろか」

「せやけど……せやけど、別の人を見つけて……」

 文太の言葉を遮って、思わず強い口調で口にする。

「誰かと一緒にいることだけが幸せやあらへん」

 そんな私の言葉を聞いても文太は必死だ。

「俺はふゆ子さんに自分の人生を生きてほしいんや。俺にはふゆ子さんが家族に自分を縛りつけてるみたいに見えんねん。俺はふゆ子さんに自分の気持ちに素直になって、自由に生きてほしいねん」

「……選択したつもりや」

「ほんなら好きでここにいてるん? 楽しいからなん? せやないやろ。俺にはそんなふうには見えへん」

 私は楽しいから、好きだからと即答できなかった。もちろん、そうでないわけではないのだけれど。ため息と共に口から出ていたのは違う言葉だった。

「難儀やなあ。なんでこんな難儀なんやろなあ……」

 文太の言うことは図星ではあった。

 和馬さんに一緒に来てほしいと言われた時、ついていきたい気持ちもあった。あの時、父は糖尿病が悪化して腎症になり、週三回の透析を受けなくてはいけない状態になったばかりだった。足が少し不自由な母と透析が必要な父を置いていくわけにはいかなかった。今ならそんな事情をわかる文太は、福祉に頼ればいいと気安く言うが、他人に親を任せて、自分だけ好きなことを選ぶなんて、無責任に思えてならなかった。

 自由になどなれない。怖いから。夢や想い出だけをたよりに生きることがたやすく、傷つかないでいられた。

「想い出をたよりに生きていくことが、そんなにあかんことやろか」

「あかん言うてへんけど、現実を見て、地に足をつけて、日々楽しいような、ふゆ子さんにはそんなふうに幸せになってほしいんや」

 ふと、玄関から入る光を遮る影を感じた。顔を上げると表に律子が立っていた。

「おかえり」

 私は何事もなかったかのように振舞おうとした。いつもは明るい声で律子に話しかける文太がうつむいたまま、顔をあげようとしなかった。

「……ただいま」

 律子は戸惑ったような固い表情をしていた。何があったのかと訊こうともせず、二階へ上がっていった。

「……おれ、帰るわ。手紙のことは、ほんますんません。でも、ふゆ子さんに幸せになってほしいと思てるから、それだけはわかっといて」

 そう告げると、文太は玄関を飛び出していった。

「幸せ……か」

 ひとりごちて嗤った。いつからだろう。幸せなんて考えなくなったのは。和馬さんともっと前に再会できていたら、違っていただろうか。彼についていくことができただろうか。今となってはただ嗤うしかなかった。


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