(5)
深咲へ
ここへ来て二ヶ月になります。母からは電話がかかってきたりしているけど、居留守を使って話していません。やっと落ち着いてきたのに、今の生活を壊されたくない。
父は週末、仕事の休みが取れた時はこっちに泊まりにきています。そんなときはみんなで食卓を囲んでにぎやかです。ようやくみんなでごはんを食べることに慣れてきました。
週末に父が来た時は、昼頃までたっぷり眠ったあと、あたしを連れておでかけするのがお決まりのパターンになりつつあります。いろんなところに連れて行ってくれるんだ。近くの公園やスーパーのときもあるけど、動物園や博物館のときもある。昨日は嵐山だった。駅前は観光客であふれていた。おみやげやさんやタレントショップが並んでいてあまり好きになれなかった。嵯峨野の方まで歩くと少し人通りも少なくなって、道すがら父はあれこれ聞いてきた。学校のことや祖父母の家での暮らしのこと、進路のこと。父はこっちの公立高校がいいんじゃないかと言っていた。母のいる家に戻る選択肢は今の私にはなかったけれど、こちらで過ごす時間が増えていくことにもどこか戸惑いを感じているんだ。
まだそんなに歩いたわけではなかったんだけど、道沿いに喫茶店が見えたからか、休憩しようと父は店の中に入っていった。父のあとをついていくと、席に座ってコーヒーを飲んでいる母がいた。なんでここにいるの? どうしてもけじめをつけておきたかったからと父は毅然と言った。あたしはすぐにでも帰りたかったけど、しぶしぶ席についてココアを注文し、父とだけ話して母を無視しようと思っていた。でも、父は煙草を買ってくると店を出ていってしまい、なかなか戻ってこなかった。
父が喫茶店を出ていってから堰を切ったように母は話しはじめた。あたしが祖母の家で暮らしはじめて、父も仕事でほとんど帰ってこないと、家には一人きりで寂しくてよけいに酒量は増えていったという。父に病院にかかることも勧められたが、店の仕事があるからと断ったらしい。店で仕事をしている時はいいが、仕事を終えて誰もいない家に帰宅すると、自分は何のために生きているのかと思うことがあると言っていた。あたしが家にいた頃から不満だらけの毎日だったと母は言う。寂しさをまぎらわせるために仕事をして、仕事で嫌なことがあると、お酒を飲んで、麻痺して考えられなくなって、体が思うように動かなくなることで気を紛らわせていた。二日酔いで頭痛がして吐き気があるときは、それ以外のことを考えずに済んだ。それがよかったと母は嗤う。あたしが心配してくれるのもうれしかったと言った。酔って気分が悪くなるたびに自分を心配してくれているという実感を感じることができたと言う。あたしは腹が立った。何度も放っておいてやろうと思ったことなんかに母は気づいていないのだ。酔っている最中はさんざんあたしを罵っておいてよくそんなことが言える。
母が酔っている時は思っていることを何の躊躇もなく、言葉で垂れ流した。あまり帰宅しない父が、帰宅すればいい親ぶってあたしに接することが気に食わない。そうすることでどんどん自分はダメな母親になっていったと感じたらしい。でも、母は父には言えなかった。帰宅した父に対して母は細々と世話を焼いた。父のいないところで父の悪口をあたしに垂れ流した。あたしと接している父は悪い人には思えなかった。いろんなことを教えてくれたし、あたしの話に耳を傾けてくれているようにも感じていた。でも、母には言えなかった。垂れ流される父の悪口をただ黙って聞くふりをしていただけだった。
学校でのいじめもあたしは母には話さなかった。なのに、個人懇談で担任が話してしまって、その場で母は固まってしまっていた。母は父にいじめのことを相談したいのに、帰宅すればあたしと出かけてしまって、母と接する機会をわざとなくしているように思えたらしい。そしてあたしのことも邪魔に思えてきたと言う。酔った母から何度も聞いた「あんたさえいなければ」という言葉。あたしが眠っている時に首に手をかけてきたこともあった。
母はともかくお酒に頼った。店で飲み、家でも飲んだ。いつしかお酒なしではいられなくなった。学校から帰宅すると母はいつも水割りのグラスを手にしていた。
あたしが祖父母の家で暮らすようになってからもしばらくはお酒を飲んでいたが、この頃は少し量を減らしているという。お酒をやめればあたしが家に戻ってくるから頑張っていると笑った。
それが重荷だ。母があたしを生きがいのように感じているそのことが。母はそれに気づいていない。押しつけられる愛情がつらいものだということにどうして気づかないのだろう?
カランカランと音がして喫茶店のドアが開く。やっと父が戻ってきた。話はついたか? と気楽に笑っている。
離れて暮らすことに納得はしたが、あたしとまったく会わないのは嫌だと母は言う。父は、月に一度三人で外食することを提案し、母は大喜びで賛成した。あたしはといえば少し複雑だったけど、母がもう勝手に祖父母の家に来たりせず、生活を脅かされないのだと思うと頷くほかなかった。
母は何度もあたしに宣言した。お酒、がんばってやめるわね。今までもそう言っては失敗してきたけど。素面の母と酔った母は別人だ。信用できない。
一件落着と父は満足そうにニコニコ笑っていた。母もすこし柔らかい顔。三人の中であたしだけが浮かない顔だったと思う。疑り深いあたしがおかしいのかな? 何か解決したように思えてほんとは何も解決に向かっていない気がする。
父と母は二人でもっときちんと話し合うべきだし、母は子を生きがいに思うんじゃなくて別のところに目を向けるべきだと思う。どうしてうまくいかないんだろう?
今から三人での外食の日が苦痛。いつか楽しくなるのかな?
深咲はどう? 返事がないからちょっと心配。また手紙下さいね。
律子
深咲へ
元気? 私は元気です。
中学二年もあと残りわずか。周囲は受験のことを真剣に考えはじめたみたい。深咲はどうするの?私はまだ迷っている。でも勉強だけはしてる。高校には行くつもりだから。
こっちの友だちの文太くんはもう決めているらしくて、うらやましい。
このあいだ、下校しようと昇降口で靴を履き替えていたら文太くんに声をかけられて、暇だったら作品見ていって、と強引に美術室まで引っぱれていかれたの。文太くんは織物一筋。美術部には手織機がないけど、数本の棒と糸さえあればどんな場所でもできる腰帯機で織っていると話してくれた。机にたたまれた状態で置いてあった完成品の織物を広げて見せてくれた。鮮やかな赤と黄色のストライプ模様の織物は、横幅が文太くんの腰の幅で、縦に長くて帯みたい。テーブルランナーくらいにはなるかな、と文太くんは笑っていた。糸は草木染で茜とサフランを使ったと言っていた。ほんとは自分で栽培して糸を染めたかったけど、それは無理だったんだって。文太くんは織物のことを話しだしたら止まらないの。すごいなぁって思う。いつか作りたい作品と見せてくれた文太くんのスケッチブックには織物の形と模様が色鉛筆で色鮮やかに描かれていた。その模様が何を表しているのは、あたしにはよくわからなかったけれど、とても鮮やかだと思った。
「こんな小さいもんやなくて、ほんとはもっとおっきな、人をびっくりさせるような織物を作りたいんや」
そう言った文太くんの目はすごくキラキラしていてあたしには眩しかった。あたしにはないものだから。何のとりえもないし、やりたいこともない。流れるままに毎日を過ごしているだけ。学校に行って帰っての繰り返し。学校では同級生の他愛ないおしゃべりを聞く。昨日のドラマの感想、ファッションのこと、お菓子の新商品のこと、泡みたいに浮かんでは消えていく話題。なにかやりたいことを見つけたいのに、見つけられない。何もしようとせえへんからやろ? と文太くんは言う。そのとおりだった。あたしは何もしようとしていない。どうしたいのかすらもわからない。学校からの帰り道、少し遠回りして西陣の町中を歩く時もある。路地を行くと、きちんと手入れされて祀ってある地蔵に向かって買い物袋を腕に提げたおばさんがしゃがんで手をあわせている姿を見かける。児童公園で遊んでいる我が子を少し離れた場所から見守る母親がいる。道を歩けばいろんな人を見かける。いろんな音が聞こえてくる。通り抜けるバイクの音、人の話し声、家から漏れてくる機織の音。祖父母の家に帰れば、ふゆ子さんの機織をする音が響いている。いろんなものがあたしの中に入ってくるのに、すべて通り抜けていく。何も見つけられない。
「なんで文太くんは織物をやってるん?」と訊くと、そばにあったから、と文太くんは叔父さんの話をしてくれた。
文太くんがまだ五歳くらいの頃、叔父さんである和馬さんは東京で暮らしていて、テキスタイルアート作品をつくっていた。タペストリーのようなものからインスタレーションのようなものなど、織物の新しい表現を見つけようとしていたという。ギャラリーでの個展がようやく盛況になってきたところで、作品を購入してくれる人も増えつつあった。帰省するたびに、自分の作品を文太くんに見せてくれたという。なにか素材がよくわからない紙のような布を縫い合わせて作られたぬいぐるみのようなものだったり、モビールのようなものだったりしたんだって。
その頃、叔父さんはたびたび帰省して、文太くんは叔父さんに連れられてテキスタイルアート展を見に行ったこともあったらしい。平面的なものや立体物、小さなものから大きなものまで、染めから織り、そして造形とすべての過程を自分で自由にできることが楽しいと叔父さんは言っていたらしい。可能性と満足感。幼い文太くんには叔父さんがキラキラして見えたって言っていた。
ある時、叔父さんが友だちの家に行こうと文太くんを連れてやってきたのが、ふゆ子さんの家だったらしい。ふゆ子さんの髪が今よりももっと長く、背中にかかるほどでつやつやと黒く輝いていたって。この髪でよく遊ぶんだ、と叔父さんはふゆ子さんの髪を手にとって、編み込みにしたり三つ編みにしたりしていたらしい。その頃のふゆ子さんはよく笑っていた。叔父さんとふゆ子さんは中学生の時に先輩と後輩だったらしい。叔父さんはふゆ子さんのことを友だちと言ったけれど、恋人なんだなと当時小学生の文太くんは思っていたんだって。
それからしばらくして叔父さんは東京から京都に引っ越してきたらしい。個展があるたびにあちこちへ飛び回っていたけど、それ以外はアトリエとして借りた古い一軒家で静かに制作していたという。京都へ引っ越してきてから叔父さんは文太くんを連れてよくふゆ子さんの家に行ったらしい。ふゆ子さんは当時、会社を辞めて独立して織物を始めたばかりで、真剣に織機に向かっていた。小学生の文太くんはすぐにふゆ子さんに打ち解けたらしい。ふゆ子さんの家が通学路沿いにあったこともあって、時々、下校途中に寄っていた。すでに叔父さんがふゆ子さんの家に来ていることもあれば、文太くんが来ているところへあとから叔父さんが訪ねてきたりしたこともあった。二人はもうすぐ結婚するのではないかと思っていたほど仲良さそうに見えたという。しかし、ある時を境にふゆ子さんの家で叔父さんの姿を見かけなくなった。それを文太くんが叔父さんの兄である父に言うと、アートの勉強をするために渡米したと話してくれた。急なことで文太くんはびっくりしたって。文太くんのお父さんの話によれば、おじいさんつまり叔父さんのお父さんは猛反対で、芸術を生業にするために留学することなど認められないと言ったらしい。
ふゆ子さんは置いていかれた形になってしまった。文太くんのお父さんは残念だったとしきりに言っていたらしい。
毎年、文太くんの誕生日には叔父さんから作品の写真が同封された誕生日のお祝いカードが届いた。写真の中の作品は年を重ねるごとに凄いものになっていった。折り重ねた細密な文様の色のコントラストが絶妙で、色は深く、落ち着いた印象があるものの、目を惹き、安心感で満たされるような感覚になったと文太くんは言う。
美術雑誌でおじさんの作品を紹介されていることもあった。しかし日本での個展は一度もなかった。
毎年、叔父さんからの誕生日のお祝いカードが届くと、すぐに文太くんはふゆ子さんの家に報告に行く。二人で作品の写真を見ながらあれこれ言い合う。差し出された封書には毎年違った住所が書かれていた。ある年はインドある年はペルーだった。ひとつの場所にとどまらずあちこちで暮らしているようだった。ふゆ子さんに叔父さんから手紙が届いたのは一度だけ。渡米してまもない頃のことだそうだ。それからふゆ子さんは届くことがないかもしれない手紙を待っているのだ。
もうここ二年くらいは誕生日になっても文太くんのところに叔父さんからの手紙は届かなくなっていた。どうしているのかすらわからないという。
文太くんはふゆ子さんに自由になってほしいと思っている。それはあたしも同じ。だって自分のために生きているんだもん。
文太くんはもうやりたいことを見つけている。あたしはまた見つかってない。でも、見つけたい。深咲は見つかった?
ものすごく長い手紙になってしまってごめんね。また手紙書くから、こりずに読んでね。
律子