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小春日和  作者: 氷月涼
4/7

(4)

「おはようございます」

 玄関から文太の元気な声が聞こえた。

 私は洗濯をすませて台所へ戻ってきたところだった。

「はーい」

 返事をしながら暖簾をくぐって玄関へ行くと、文太が少し興奮気味の表情で格子戸を入ってきた。キャップ帽をかぶり、ラフな格好。丸めた新聞紙を手にしている。

「どうしたん。朝早うに」

「これこれ! これ見にいかへんか? 律子も誘って」

 文太は手にしていた新聞紙を広げた。記事を赤いペンで囲ってある。

「ギャラリー?」

「そう! 面白そうやで。たまにはふゆ子さんも外に出なあかんわ」

「そうやね……」

 確かに私はあまり外出をしない。学生時代の友人はみんな結婚して子供がいて、それぞれ忙しく過ごしていて、誘いも来ない。自分から出かけることも少なく、近所のスーパーに買い物に行く程度だった。

「律子は?」

「律ちゃんは、今、二階の自分の部屋を掃除してるんとちゃうかな。もうすぐ終わる頃やろ」

「もう終わったか見てきてもろていい?」

 私は頷いて律子を呼びに二階へ上がった。

 律子は二階の窓を開け放ち、畳に茶殻を撒いて箒で掃いていた。

「ブンちゃんが来てるで。ギャラリー見に行かへんかってうちらを誘いに来たみたい。玄関で待ってるさかい、ちょっと行ってきたって」

 頷いて階段を下りる律子のあとに続いて私も下りていった。

 律子は少し恥ずかしそうに文太と話しているものの、外出自体は喜んでいるようだった。律子の母親が来てから、律子は休みになればどこかへ出かけている。家にいたくないのだろう。図書館や公園、西陣織会館など、比較的近くへ行っているようだった。繁華街に出かけないのかと訊いたら、人が多いところは落ち着かないし、お金もないからと言っていた。


 文太が行こうとしているギャラリーは四条にあるという。律子にとっては初めてかもしれない繁華街。私は久しぶり。

「ほんなら、支度ができるまでここで待ってるわ」

 文太は上がり框に腰掛けて玄関先の坪庭を眺めた。常緑樹のアオキが赤い実をつけている。アオキの足元には馬酔木が寄り添うかのように植えてあった。いつまで見ていても飽きないと文太は言うが、私にはあたりまえすぎて良さがよくわからなかった。

 支度を済ませ、あとは母に頼んで三人で街へ出かけた。これまでにも文太には何度か街へ連れ出されたが、そこに律子が加わっていることで新鮮な感じがした。

 四条まではバスを使う。休日の市バスは観光客も多く、少し混み合っていた。バスの車内では文太が私と律子の間に立って、他愛ない話を続けていた。ずっとうつむいて黙って話を聞いていた律子が突然文太の話を遮った。

「あと、どれくらいで着くの?」

「十分くらいかな。なんや、どないしたんや?」

 律子の顔は青ざめていた。

「車に酔うたん?」私が訊くと律子は小さく頷いた。

「ごめん、次で降りるわ。二人で行ってきて」

 律子は口元を押さえ、捨て台詞のようにそう言って、人をかき分けてドア付近まで移動した。あわてて私と文太も後を追う。すぐに次の停留所でバスは停車し、律子は口元を押さえたまま料金を払い、おつりも取らずにバスの降り口を駆け下りた。私と文太もあわててバスから降りた。

 バスから降りたとたん、律子は道端にしゃがみこみ、胃の中のものをもどした。よっぽど我慢していたのだろう。背中をさすってやる。ふたたびこみあげてきたものを律子は吐き出した。

 幸い、バスの停留所はあまり繁盛していない商店街のはずれ。とはいえ、吐瀉物をこのままにしておくわけにはいかない。

「ブンちゃん、どこのお店でもいいから、コップ一杯のお水とヤカンにお水をいっぱい入れてもろて借りてきて。それから新聞紙とビニール袋も」

 おろおろしていた文太は指示されると力強く頷き、すぐに近くの店へと駆けていった。

「しんどかったな。吐いてしもたらもう大丈夫や」

 嘔吐は止まったようで、律子は深いため息をついた。背中をさするのをやめて鞄からティッシュを取り出して律子に渡した。

「もどした後は鼻に残ったりして気持ち悪いやろ」

「ありがとう。ごめんなさい」

 ティッシュを受け取った律子は口元をぬぐい、控えめに鼻をかんだ。鼻に残っていた吐瀉物がとれてすっきりしたようだ。

「もろてきたで」

 文太が戻ってきた。脇に新聞を挟み、片手にコップ、もう片方にヤカンを手にしていた。

「ありがと、ご苦労さん。律ちゃんにコップ渡したって」

 コップを受け取った律子は私を見た。頷くと律子はコップの水を一気に飲み干した。

 道路の吐瀉物は新聞紙で拭き取ってビニール袋に入れて口を縛った。そして跡が残らないようにヤカンの水を撒いて流した。

 店主にお礼も言いたいからと文太に借りてきた店を教えてもらい、その場に二人を残して借りたものを返しに行った。

 バス停に戻ると律子と文太の様子がさきほどとは違っていた。律子は顔を手で覆ってしゃがみ込みんでいて、文太はそのそばで困った顔をして突っ立っていた。

 私は律子のそばに行って同じようにしゃがんで座り、小刻みに震える背中をなでてやった。

「ブンちゃん、あんた律ちゃんになんかしたん?」

 文太は気まずそうに頷いた。

「バスに酔うて気分悪うなったんやったら、はよ言うたらよかってん。そしたらこんなに気持ち悪うならんで済んだのにって言うただけやねんけど……」

「そうか……」

 文太の言い分が間違っているわけではない。その時の口調はどうかわからないけども。きっと今、律子は自分を責め続けているのだろう。そこへ言われたからよけいに落ち込んでしまったに違いない。

「あんたがバスの中でベラベラとよう喋ってたさかい、律ちゃん、よう言い出せへんかったんやわ」

 わざと冗談めかして言っておく。場の雰囲気が悪くならないように。

「そんなに俺、よう喋ってたやろか」

「あんたひとりでずっと喋ってたやないの」

 うーん、と唸って文太はキャップ帽をとって頭を掻く。そして律子のそばへ行き、ごめんな、と詫びた。律子は瞬時に首を横に振る。

「これ、かぶっとき。目、赤いのがちょっとは目立たんですむやろ」

 文太はキャップ帽を律子の頭に乗せた。律子はつばを持って深く被り直し、ありがとうとつぶやいた。

「ほな、ギャラリー行こか。あともうちょっとあるけど、運動にもなるし、ここからは歩いて行こ!」

 文太は私と律子の背中を同時に押し出した。


 ギャラリーの空間いっぱいに、大きな赤い布が風をはらんで翻っている。それは生き物のようにも思えた。私たちは床すれすれになっている赤い布をめくりあげて、翻っている布の中へ入っていった。送風機の風によって布の中央は高く膨れ上がり、かろうじて立ったままでいられるが、隅は床すれすれ。風でうごめく布越しに空間を照らす灯りを見ると、掌を太陽にかざしたような感覚。布の中は不思議な明るさ。薄明るい。送風機で作り出される人工的な風の音と風にはためく布の音。潮の満ち引きのように布は動き続ける。

 誰も何も話さない。空間内には他にも数名いるが、みなが言葉を失ってうごめく布を一心に見ていた。立ったまま、座って、寝ころんだりして。すぐにそこから立ち去ろうとする人はいないようだった。

 律子はその場に腰を下ろし、キャップ帽を脱いで頭上をはためく布を見上げた。私と文太も律子のそばに座って同じように布を見上げた。

「なんかホッとする。あたしずっとここにいたいなぁ」

 律子がつぶやく。その言葉に私も大きく頷く。隣で文太も頷いていた。

 来て良かったと思った。隣に座る律子と文太の顔を見た。気づかれないようにそっと。ふたりとも私が見ていることには全く気づかず、安心しきったような表情で布を見上げていた。

 この赤い布の中は胎内みたいだと思った。赤い布は血の通った母の皮膚。外の世界をまだ知らず、唯一の存在である母親に守られている。ずっとこの中にはいられない。外に出たらいろいろなものに触れる。様々なことを体験する。とどまっていられない。この布のように動きつづけている。変わらないようで変わりつづける。とどまってはいられない。

「そろそろ出ようか」

 私がそう声をかけると文太がゆっくり立ち上がった。まだ律子は眺めていた。

「律ちゃん、行こか」

 まだ座っている律子をうながす。頷いて律子は立ち上がった。名残惜しそうな表情で、顔を動かしてぐるっと一通り布の中を見渡して、そこから出た。


 ギャラリーを出ると冷たい風を感じた。あらゆる音が、目にうつるいろいろなものが刺激に感じられる。繁華街の賑わい、流れてくる音楽、往来を埋め尽くすほど行き交う人々、その話し声。早く家に帰りたいと思った。自分が嫌になるくらい静かな場所を求めていることに気がついた。




深咲へ


 お返事ありがとう。深咲の「無理すんな」という言葉がうれしかった。ありがとう。深咲のところはお母さんとの仲はどう? 相変わらず? お互いに大変だけど、自分は自分。己の道をいかなきゃね。家族だけがあたしのすべてじゃないもんね。


 前の手紙を書いた後からは母はもうこっちの家には来ていないんだ。でも、いつ来るか不安で、学校が休みの日はずっと出かけてる。といってもお金のかからない近所の公園とか図書館とか、西陣織会館とかへひとりで。まだ休みの日に一緒に遊ぶほど仲のいい子はできてない。あいさつしたり、お昼ご飯を一緒に食べたりはするけど。それでも上出来だよね。

 昨日は、ふゆ子さんと文太くんと三人で四条まで美術展を見に行ってきたんだ。バスで行ったんだけど、酔ってしまって途中のバス停で降りたとたんに道端に吐いてしまった。バス酔いしやすい自分を恨むばかり。二人に迷惑をかけてしまったことに落ち込んで、来なければよかったと思っていたら、文太くんに「気分が悪いならもっとはよ言いや」ときつく言われて。そう言われたら簡単なことなのに、それができなかった情けない自分がすごく嫌で、涙が出てきてしまった。あたしの「気分悪い」のひとことでその場の雰囲気を壊してしまうのが嫌で、せっかく楽しく過ごしているのに、あたしのせいで台無しになるのが嫌で、言い出せなかった。結局台無しにしてしまったことには変わりないのだけど。気分が悪い時はやさしい人ほど、気を使ってくれる。でも、そのことがつらい。そっとしておいてほしい。そう言えたらどんなに楽だろう。絶対に言えないけども。

 泣いてしまったことでまた二人には迷惑をかけてしまって、美術展なんてどうでもいい気分になっていたのだけど、流されていくことになった。でも、行ってよかった。大きな赤い布が、機械で風を送られてはためいていた。その布の下に入って布越しに見える天井の灯りを眺めていたら、すごく気持ちが落ち着いたんだ。ずっとそこにいたいと思ったけど、そうはいかないんだよね。いつもそこにあれば、行きたい時に行けるのに。深咲にも見せたかったな。

 祖父母の家は古いけど落ち着くよ。よかったら休みの時にでも遊びに来て。そっちからだとこっちまで電車で数時間かかるけど。

 じゃあ、また。いつもながらグチばっかりでごめんね。

                                                律子


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