(3)
夜中に戸を叩く大きな音がして、目を覚ました。灯りをつけて玄関へ行くと、律子の名を叫ぶ女の声がする。おそらく律子の母親だ。兄が妻には居所も告げずにこの家へ娘を預けに来たのはわかっていたから、そのうちに律子の母親が訪ねてくることは予測がついていた。むしろ遅いくらいだった。しかし夜中とは。
玄関から聞こえる大きな声に、父も起きて玄関にやってきた。母も壁を伝いながら様子を見にきた。
「お母はんまで。私が出るさかいええよ。寝てたらよかったのに」
「そんなん心配で寝てられまへん」
母はよっこいしょと玄関の上がり框に腰を下ろした。
「律ちゃんは?」
「わし、見に行ってくるわ」
父が物音を立てないようにそっと二階へあがっていった。
夜は家の大戸を閉めて、大戸の一部である小さな潜り戸から出入りする。人がひとりちょっと頭をかがめて出入りできるような小さな戸を開けると、小柄な女性が突入してきた。酒臭い。髪はぼさぼさのままで、部屋着にコートを羽織って、つっかけを履いていた。律子の母は通り庭を進みながらあちこち見回し、土間からあがって襖を開けようとした。
「探しても律子ちゃんはここにはいてまへん」
堂々とした態度で母は嘘をつく。
「絶対にここにいるはずや。そこに靴もある」
律子の靴は上がり框の下の土間に揃えて置いてあった。
「律ちゃん、今日は別の靴を履いて、お友だちの家に泊まりに行ってるの。せやから、ここにはにいてまへん」
私の言う見え透いた嘘など気にも留めず、律子の母は一階のすべての間を見て回り、律子がどこにもいないことがわかると、箱階段を上がって二階へと踏み込んでいった。
様子を見に行った父が律子と物置きにでも隠れていることを祈った。
幸いにも探し出せなかったようで、律子の母は二階から降りてきて、居間の堀こたつに足を入れた。
「どっかに隠れてるんやな。律子が出てくるまでここで待たしてもらうで」
コートのポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけて白い煙を吐き出した。
なんて厚かましい人。母もあきれた顔をしていた。
押入れの中で律子と父が寒さと狭さに耐えているに違いない。律子の母を長居させるわけにはいかなかった。
「すんまへんけど、今日のところは帰ってもらえまへんやろか」やんわりと母が言う。
「そう言われてもなあ、ここへ来るのも大変なんやし……。今日かてタクシー使うてきたんや。……あ、灰皿もらえへんやろか」
律子の母が手にしていた煙草から今にも灰が落ちようとしていた。
私が灰皿を差し出す前に、灰はこたつの天板テーブルの上に落ちてしまった。
「あー、落ちてしもた。すんまへんなぁ」
言いながら律子の母は吸っていた煙草を灰皿でもみ消して、新しいのをくわえて火をつけた。
「律子はウチにとってはたった一人の大事な娘やねん。ウチ、あの子がおらへんかったら生きていかれへん。そら、あの子に嫌われてんのはわかってます。ウチが酒呑みやさかいなぁ……」
母はどっこいしょと声に出して、ゆっくり立ち上がろうとする。私はあわてて母のそばに行き、手をとって立ち上がるのを手伝った。母は壁を伝って、律子の母と対面する位置まで歩き、堀こたつに足を入れて座り、まっすぐに律子の母を見つめた。
「律子ちゃんは何もずっとここにいるわけやあらしません。あんたさんがようなれば、あの子かて家に戻ったらよろし。せやけど今はあきまへん。あんたさんの状態があの子にとってはしんどいんや」
「律子が、あの子がそう言うたんですか? しんどいて」
律子の母は血相を変えて母につっかかる。
「律子ちゃんはそんなこと言うてまへん。わての想像や。せやけど……」
「あの子が言うてへんのやったら、あんたらが律子を返さんとこうとしてるんやな。小間使いにしてんのか? あの子はよう働くからなあ、離したくないようになるんやろ。せやけどな、あの子はウチの子や」
律子の母親の、想像を暴走させた言葉に母はまたもあきれた様子だった。
「小間使いやなんてそんなことさせたこともあらしません。ただ、今はあんたさんと律子ちゃんは離れるべきやと言うてるんです。達男もそれがええと思て、律子ちゃんをうちに預けたい言うてきたんや」
「いつも家を空けてる父親に何がわかるんや。ウチと律子のことはウチがいちばんようわかってる。隠してるんやったら、はよ律子連れてきて」
母と律子の母親が対峙している間に、私はそっとその場を離れて電話でタクシーを呼んだ。一刻でも早く律子の母親には帰ってもらいたかった。
母と律子の母親が押し問答を繰り返していると、しばらくして表でタクシーのクラクションが響いた。
「タクシーを呼びました。今日のところはお引き取り願います。もう夜も遅いですし、また律ちゃんにはあなたに連絡するよう伝えときますさかい」
私はなるべく毅然と律子の母に伝えた。しかしすぐに納得するような相手ではなかった。
「そんなん言うてもあの子は連絡してこうへんわ」
「そうかもしれません。でも、そしたらそれは律ちゃんがそれだけあなたのところに戻りたくないという証拠と違いますか?」
律子の母親は認めたくないようだった。急にすすり泣きをはじめた。そのとき、もう一度表からタクシーのクラクションが聞こえてきた。
「今日のところはもう遅いですから。タクシーも待ってますさかい」
律子の母親の背中をさすりながら、脇を抱えて立ち上がらせて、なだめるように言い聞かせながら、なかば無理やりタクシーに押し込んだ。ずいぶん待たせたせいか少し不機嫌な顔をした運転手にお金を渡してお釣りは要らないと伝えると、運転手は憮然と会釈してすぐに車を発進させた。
私はその足で二階に駆けつけた。押入れを開けてやっと帰ったことを告げると、寒さに震える父と律子は心からほっとした表情を浮かべた。
「もう大丈夫や。なんかあったかいもんでも飲んでからおやすみ」
私は準備をしに台所へ行った。
深咲へ
このあいだ手紙を出したばかりなのに、また出してしまってごめんね。どうしても深咲に聞いてもらいたいことがあって。
昨夜のことなんだけど、夜中に母が祖父母の家に来たの。戸を叩いて大きな声であたしの名前を呼んでいるのが聞こえて目が覚めて、布団の中でじっとしていたんだ。そしたら祖父が二階に来て二人で一緒に息を殺して階下の物音に耳をすませていたの。襖を開ける荒っぽい音がして、祖父はあたしを見て「隠れる」と口を大きく動かし、普段使っていない物置きを指差した。二人で物音を立てないようにそっと畳を歩き、襖を静かに開けて物置きにある物の隙間に縮こまってやり過ごした。しばらくすると母は一階へ降りていった。一階の部屋で何か話しているのはわかるけど、内容はよく聞こえなかった。しばらく経つと寒くてたまらなくなり、ふたりで身を寄せ合って震えていた。なかなか母は帰ろうとしなかった。たぶん酔っていたのだろう。
酔っているときの母は、しつこく絡んで愚痴ばかり言う。仕事のこと、あたしの父親のこと、そしてあたしのこと。いじめられて何もできない弱虫だとか、近所の子は成績優秀なのに、おまえはできなさすぎるとか、愛想がない、無表情で何を考えているかわからないとか。本当は子供など産みたくなかった。できてしまったから仕方ないとか。
そんな言葉であたしを傷つけておきながら、素面のときは縋りついてくる。「お母さんを見捨てないで。おまえだけが生きがい。なんでも欲しいものを買ってあげる。おまえなしには生きていけない。酔っているときのことは記憶にないのよ」
そう言われると可哀想にも思えてくる。
夕方、帰宅すると、買って来た惣菜を食卓に並べて、自分はお酒だけ飲んでいる母の姿しか見たことがない。小学生の頃からずっと。その頃、サラリーマンから長距離トラック運転手に転職した父は、たまにしか家に帰ってこなくなっていた。でも、たまに帰ってきた休みの日には、あちこち連れて行ってくれる父のことがあたしは嫌いではなかった。父と過ごすのは楽しい。でも、いつもというわけにはいかない。
もともと、あたしはどんくさかったから、同じクラスの人には迷惑をかけてばかりで、あまり好かれていないということはわかっていた。母親の仕事が水商売だとクラスの誰かにバレてから、あっという間に広まって、そのことでからかわれるようになった時に、うじうじした態度しかとれなかったあたしをさらに面白がって、からかいがいじめに発展していったんだと思う。深咲とは似たような境遇だからとお互いに共感しあったね。深咲は強いから、誰もからかっては来なかったね。小学生の頃からなぜか深咲とは同じクラスになれなくて、本当に残念だった。
からかわれるから水商売をやめてほしいと母に言ったことがあったけど、やめてはくれなかった。あたしのために働いているって大義名分みたいに言ってたけど、本当は自分が寂しいからだって、とっくに気づいてたけど、さすがにそれは母には言えなかったな。だからよけいにクラスメイトにからかわれても何も言えなかった。
祖父母の家に来て、夕飯をみんなで食べるってすごく不思議な感じがした。あったかいんだけど、そわそわするの。何を話せばいいのだろう。
母が祖父母の家に来た夜、なんとか母は帰ってくれてホッとしたけど、すぐにまた来るかもしれないという不安でいっぱいになった。やっと落ち着いてきていたのに、安全なこの場所を脅かされたくない。
手紙、長くなって、こんな話でごめんね。どうしても書かずにはいられなくて。また手紙書くね。今度は明るいやつ。じゃあ、またね。
律子