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小春日和  作者: 氷月涼
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(2)

 朝、律子がせわしなく支度する物音が家の中のあちらこちらへと動いていく。「いってきます!」と律子にしては大きな声を張り上げて玄関から出て行ったら、途端に家の中は静かになる。

 食事の後片付け、掃除と家の中での私の役目を終わらせて、やっと自分の仕事ができる。

 玄関から奥庭のある裏口へ抜ける土間の道。通り庭の表に面した土間に織機おりきを置いていて、そこで帯を織るのが私の仕事。夏は涼しいが、冬は体が凍える。傍に置いた石油ストーブで暖をとっているが、高い天井で吹き抜けているせいか、あまり暖かくならない。

 依頼を受けてから半年。もうすぐ織り上がりだが、気は抜けない。少しでも気を抜くと下絵とわずかに違ってしまう。

 ペダルを踏んで経糸を上下に開く。緯糸を巻いたを経糸の間に通す。右手の中指、爪の先端ににヤスリで入れたギザギザで緯糸を掻き寄せ、櫛のような道具で糸の間隔を詰める。緯糸で覆われて経糸は見えない。色とりどりの細かい糸を織り込んだ複雑な柄。一日に数センチしか織り進めることができないこともある。大丈夫。うまく仕上がっている。安堵してまた織りすすめる。織物は私の性に合っているのだろう。織りあがっていくことが緊張を伴いながらも心地よく喜ばしいと感じる。

 いつのまにか律子が帰ってきていた。朝、出かける時はやかましく物音をたてるのに、帰ってくる時は静かだ。少し離れたところでこちらを見ている。

 織機の手を止めて振り返り、律子に声をかけた。

「こっちに来て、そばで見てもええよ」

 律子はおずおずと織機のそばに近づいてきた。時々文太がそばで見ていることがあるから、織る時に人がそばにいることには慣れていた。

 しばらく経って律子が私に訊いてきた。

「あの……、訊いてもいいですか?」

 私は織る手を止めず、律子の質問に耳を傾ける。

「なんで織物を仕事にしてるんですか?」

 その問いに一瞬手が止まる。どう答えようか。考えながら、また織りはじめる。

「家にいながら生活費を稼ぐことができるからやね。家事もせなあかんし、お父はんの具合が悪うなったら病院につれていかなあかんし」

「家でする仕事やったらおばあちゃんのしてはる傘作りもできるけど、それやないんですね」

「そうやね。楽しいし、好きやから、織物にしたの」

「そうなんや……」

 納得したのかそうでないのか。律子は無表情だった。

「なんで織物を選んだんですか?」

 律子の問いに小さく胸がなった。和馬さんの顔が思い浮かび、あわてて打ち消した。

「興味があったから、やろか。ここら辺に住んでて、まわりがそんな人らばっかりやったから」

 少し、嘘をついた。本当は和馬さんが織物を研究していると知ったから私も始めたのだった。

「へえ……。いつ頃からやってはるんですか?」

「高校を出てすぐに染織学校に行きはじめて、二十歳から染織の会社で七年働いて、その後独り立ちしてもう十年くらいになるやろか」

「すごいですね、長いことやってはるんですね。すごいなあ……」

 そう言いながら律子は織機のそばから離れ、私に背を向けてぽつりとつぶやいた。

「家を、出たいと思ったことは、ありますか?」

 答えを待っている背中。律子は後ろで組んだ手をぎゅっと握りしめていた。

「律ちゃんは家を出たいの?」

 私は手を止めて、逆に問いかけた。律子はしばらく黙り込んだあと、家にいたくないから、と答えた。

「何が嫌なん? お母さんのこと?」

 律子はうつむいたまま、おさげにした髪を触り、答えなかった。

「……親の犠牲になんかなりたくない……」

 律子の吐き出した小さなつぶやき。彼女の家庭状況を聞いていたし、逃れたい気持ちもわからなくはなかった。

 律子は振り向き、もう一度私に訊いた。

「家を出たいと思わへんのですか?」

 そう思わないのがおかしいと言わんばかりの厳しい口調。私の心はゆれなかった。もう決めていたことだから。誰に何を言われようとも。だから穏やかにありのままに答えてあげようと思った。

「待ってるから、思わへんのかもしれへんね」

「待ってるって何をですか?」

「恋人からの手紙を」

 そう言って私は律子の方を見てほほえんだ。一瞬、律子の顔が歪む。いぶかしげに。

 律子がこの家に来てひと月ほどになるが、私宛の私信は一通もなかった。私は記憶をたぐり寄せる。たった一通、和馬さんから手紙が届いたのはいつ頃のことだっただろう?

「いつやったやろ? 八年くらい前やったやろか? 前に手紙が届いたのは」

「……なんで、そんなに待てるんですか? 次の手紙はほんまに来るんですか」

「来うへんかもしれへん。でも、待ちたいの。待っている方が楽やから。私は怖くて今の状況を何も変えられへんから」

「そしたら会いに行かはったら……」

「どこにいるかもわからへんから、それは無理やね」

 律子の言葉にすぐさま私はそう返した。

 たぶん、律子は困っているだろう。ぎゅっと握りしめた拳がふるえている。

「……よう、夢を見るの。おんなじ夢」

 私は玄関の方に顔を向けて、夢を思い出す。

「ごめんくださいってよく通る凜とした声が聞こえて玄関を見たら、通から入る光の中に立つ彼の姿があるの。近づいてよう顔を見ようとしたら、光が眩しくて顔は見えへんようになって、私が彼に近づく前に、踵を返して行ってしまうの。待ってと声をかけても、その声は届かへんの。そこで夢は覚めてしまう」

「夢でも、顔を見られへんなんて、そんなの、悲しい……」

 律子の思いやりあるつぶやきが嬉しかった。自分の中ではあまりにも時が経ちすぎて、感情の生々しさは通り越していた。

「写真ひとつ残ってへんから、面影はおぼろげになっていくの。思い出は美化されていく。忘れへんように反芻しているのに、変わっていってしまう。忘れへんけど、薄れて違うものになっていくのはせつないけど。それだけが私の楽しみやの。後ろ向きで情けなくて、つまらへんけどね」

「そんな……」言いかけて、律子は口をつぐんだ。

「ブンちゃんには救われてる。あの子と話していると私まで明るい気持ちになれる。せやけど、ふっと彼の面影を見出してしもうて、せつなくなる時がある。彼のお兄さんの子どもやから、どことなく似てるところがあるんかな。歳も背格好も違うのに、時々、彼の若い頃と勘違いしそうになる。あほみたいやろ?」

 うつむいてふふっと笑ってしまった。自分のばかばかしさに。

 律子を見ると、眉をゆがめて唇を噛みしめていた。

「そんなん、悲しすぎる。あたしにはわからへん」

 そう言って律子はその場を立ち去っった。土間から居間へ、箱階段を上がる。大きな足音が移動していく。襖が閉められる音がして、それ以後、物音は聞こえなくなった。

 私は織機をふたたび動かそうとしたが、気が乗らずにすぐやめてしまった。何もせずただ手元を眺めるだけ。想いは遠くあの頃へと馳せてみたり、また今に戻ってきたり。

「こんな暗いところで何やってんのや」

 父の声とともに土間に灯りがともって、私は我に返った。

 昼から透析に出かけた父が送迎車で送ってもらって帰ってきたところだった。

「なんでもない。ぼーっとしてたわ。急いで夕飯のしたくせな」

 あわてて動きだした。

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