結の1
狐を乗せた籠は伊吹の山に向かっている。
ザリッザリッと籠持ちの足音が静かに夜の森に響く。
傍目には貴族でも乗りそうな豪華な籠は、
今の狐にとっては只の檻、籠持ちの
伊吹の使者の足音しか聞こえないのは、
涙の声もとうに枯れ、逃げる事も、もう諦めたから。
時折聞こえる小さな、本当に小さな声は。
今は叶わない願いの変わりに願う。
本当に少しの願い。
「どうか、どうか無事で。」
それも、知らないからこその願い。
知ってしまっては願えない願い。
もう、叶わない願い。
それでも、狐は願う。
「どうか、、どうか無事で。」
籠の中で、今はもう会えぬ彼方の相手の
無事を、誰にも聞こえないように。
誰にも聞かせないように。
山猫にしか聞こえないように。
小さく、小さく、吹けば消える蝋燭の火の様に。
か弱く、確かな熱と、力を込めて。
叶う事のない願いを願う。
「天狐様、籠を下します。」
ゴトンと籠が下される、急に下され
狐は忘れていた地面の感触に体がふらつき
籠の壁に耳をぶつけてしまった。
「なにか、遭ったのですか。」
そう聞いても返答は無い。
そうこうして居ると、別の足音が籠の後ろから聞こえた、
そしてよく知る声が聞こえる。
そうして何か話をしているかと思うと、
籠に足音が近寄って来る。
「天狐殿、話が有ります。山猫の事です。」
もしかして、そう思った狐の心を誰が笑えるだろうか。
もしかしたらと、希望を持ってしまう。
そうでは無くても、来てくれなくても良い。
来れなくても、構わない。
無事ならば、只無事で居てくれるなら。
しかし良く知った声は告げる。
それは希望ではなく、絶望。
「山猫の伊吹の使者に対する妨害は。
俺が山猫の首を落とす事で、伊吹に対する
大和からの返答としました。
伊吹の方もそれで納得して頂きました。」
願いの蝋燭の火が、音も無く消えた。
声も出なかった、悲しくも無かった。
涙もこの眼から出ては来なかった。
何も、何も頭の中には無かった。
自分の手足が有るのかも、無いのかも
分からない。どこまでが自分なのか
ここがどこなのか。自分の眼は何を見て、
この耳は何を聞いて居るのか。
何もかもがあやふやで。
分からない事を、分かりたくない。
知らない事を、知りたくなかった。
そんな狐の籠に付けられた小さな窓が
すっと開くと、白い毛の生えた腕が伸び、
一つの包みを籠の中にそっと置いた。
開けられた窓から獣の様な眼が、物悲しげに
こちらの様子を覗いて居る。
狐は虚ろな眼でその何かを見る、
丁寧に、まるで宝物でも包む様に
優しく包まれたそれは。
ちょうど、ソレに近い大きさの包み。
あの時、彼が自分にくれた着物と同じ様な
紅い布に包まれた何か。
狐は思う。
お願いだから、、それを、見せないで、、、
その手で、、、、
あの人と、お酒を酌み交わしたその手で、
コレを、、落としたんでしょ、、
お願いだから、、言わないで、、
貴方の口から、、貴方の声で、、
その口で、あの人の名を呼んで、
その声で、、あの人を、、
あの人の事を、、友と言ったんでしょ。
そして、その眼で、、見たんでしょ。
あの人の、、友と言ったあの人の最後を。
分かったから、分かってるから。
お願いだから、もう言わないで、もう見せないで。
「それは、君が持つべきだ、俺はそう思う。」
声とともに窓が閉まる。
また閉ざされた籠の中、震える手で狐は
ゆっくりと紅い布を解いていく。
解けるたび、何も無かった頭に、何かが
次々に満たされていく。
それは記憶。
それは彼との日々の記憶。
愛想が良いとは言えなかった、どちら
かと言えば、初めは無愛想に思えた。
でも、知ればあの人はとても優しい人だった。
いつもいつも私の事を、気にかけてくれて。
私が我儘を言っても迷惑そうに眼を閉じて
から頭を掻いて、それから我儘を叶えようと
色々と頑張ってくれていた。
人に化けるたび額の傷を気にして
髪を触っては面倒そうにしてた。
俺は体が大きいからと、出かける時は
いつも私を背に乗せてくれた。
怒ると本当に乱暴で、怒声は耳に痛いくらいで、
でもその後申し訳なさそう耳を垂らす。
私があそこのお茶屋でふざけて遊んでたら、
拗ねたのか不機嫌になってしまったり。
嘘をつくのが下手で、隠し事が出来なくて。
私に秘密で私の好きな鳥を捕って来てくれた
時も、頭に鳥の羽をたくさん付けてるのに
それでもばれてないと思って知らない振りしたり。
止まらない。
この手も、記憶も。
解くたび、思い出すたび。
何もかもがあふれ出して来る。
そうして最後の布を解く。
白い、綺麗にすら思える程白い。
一頭の大きな獣の頭蓋。
人間の頭蓋よりも一回り程大きな頭を、
狐は両膝に優しく愛おしそうに乗せ、
手で触れる。硬質な骨の冷たい手触り。
それでも確かに、狐の小さな掌には伝わる。
覚えているのだ、忘れるはずは無い。
この手で、何度も、何度も何度も何度も。
何度も触れた、彼の頭の形を。
黒い毛皮も、優しい瞳も、温かな肉も、
何もかも無くなってしまってはいるけれど。
それでも、狐には分かる。
これは、山猫なのだと。
これが、山猫なのだと。
「うああああああああああああ!!!!」
狐は、籠に入れられてから、
初めて大声で泣いた。泣き続けた。
「あがぁああぁぁっ!うぐがぁあああがぁあぁ!!」
関を切ったように感情と声が溢れ出す。
声が枯れる。喉が裂けそうになる、知るものか。
枯れたはずの涙もボロボロと零れる。
もう応えてくれない山猫を抱きしめながら
悲鳴にも似た叫びを上げるしか出来ない。
声が出なくなっても構わない、彼が居ないなら、
私が彼以外の名を呼ぶ必要なんて無いのだから。
彼は私の歌声を好きだと言ってくれた。
でも今はそんな声は出ない、出せない。
こんな声だけど、こんな声でも良いから。
声の限り叫ぶ事しか出来ない。
せめて彼に届くように。
せめて彼方のあの人に届くように。