雷水扇
一部短編版と重なっているところがあります。
「ああ、だるい。腕が攣る」
「ご、ごめんなさい」
夜闇の中、扇で池を扇ぎ続ける俺に青絹の女--魃は頭を下げた。
☆
「お前が魃か?」
顔を袖で隠した女は小さく頷いた。
元は森だった枯れ果てた木々の中をさ迷い三日。村を旱魃に追いやった妖怪にやっと追いついた。
女は鮮やかな青の衣を纏っていたので、一度見つけてからは、見逃すことはなかった。
「俺は楽 黒義。 妖怪退治を生業としているものだ」
伏せられていた女の顔がぱっと上がる。
「魃は一つ目で恐ろしい獣の顔をしていると聞いたが……」
青い絹衣を纏まとった女はきれいとは言わないが、かわいらしい顔をしていた。
「見逃していただけませんか? 道士やら方士やらに追われて、もう行くところがなくて」
女が顔を伏せ、うっううと嗚咽が漏れる。隠した手の隙間から流れる涙とともに頬が溶けるのが見えた。
「これ、泣くな。退治しないから」
厚化粧が崩れたような顔がのぞいているが、黒義は気づかないふりをして、女に声をかける。
「追われるのが嫌なら、俺と一緒に旅をしないか? 世の中には旱魃で苦しんでいるところもあれば、洪水に困っているところもある」
女はおびえた顔で、あとずさった。
「私は雨に当たると溶けてしまいますし、顔も今は普通の人間の顔ですが、雨の気配がするとすぐに本性が出てしまって……その、とても恐ろしい顔をしているそうです」
自分の涙でさえ顔が溶けてしまう彼女にとったら、わざわざ自分から雨の降る所へ行くなど正気の沙汰ではないのだろう。
「何、その青い衣とおそろいの傘と雨衣とついでに面紗を買ってやろう」
☆
「こちらの方は、ここら一帯を治める貴族のご令嬢で、旱魃を憂えてお忍びで村の現状を確かめに来たのです」
黒義は、自分の後ろに隠れた妖怪を村人に紹介する。
「俺は見たぞ。この青絹の女の顔が恐ろしい一つ目だったところを」
「こんな可愛らしい娘さんが一つ目? よーく見てください。間違いで、無実の姫を殺してしまったらどうするんですか?」
確認をしようと村人が魃に近づく。魃はさっと袖で顔を隠す。それでも、一つ目では無いことは一目瞭然だ。
「遠目でチラッと見ただけですよね?」
「うっ」
黒義の念押しに『一つ目』を見たと言った村人は言葉に詰まった。
「でも、その娘っこが貴族なら人質にとれば……」
別の村人の一言で村人の間に不穏な空気が広がる。
黒義は、懐から扇を出すと人がいない方向に一扇ぎした。
地面に紫電が走る、と同時に人々は静まり返る。
「俺はこちらの方の護衛を引き受けた。もし手出しする者がいれば、痛い目を見るが?」
彼は扇をぱちりと閉じ、宣言する。
「いずれ、雨が降る」
「“いずれ”はいつなんだよ!」
「こっちは命がかかっているんだ!」
村人達の熱が高まる。
黒義は、パチンと音を鳴らして再び扇を開く。
皆の視線が扇に向けられたのを確認して、黒義は営業用の笑顔を見せた。
「皆様の不安はごもっともです」
☆
「ああ、だるい。腕が攣る」
黒義は、からからに乾いてしまった枯れ池、もとい溜め池を雷水扇でひたすら扇いでいた。
雷水扇は、楽家の家宝で、その名の通り、雷と水、ついでに風を呼ぶ扇だ。
便利なのには違いないが、問題は一扇ぎで桶二杯分くらいしか水が出せないことだ。
「ご、ごめんなさい」
「謝るくらいなら、扇いでくれ」
「それはちょっと。うっかり手にかかったらどうするんですか。誰でも使えるのなら他の村人さんに頼まれてはどうですか?」
月光の下、大きな一つ目が瞬く。
魃は先ほどまで確かに人の姿だったのに、水気に当てられたのか。
魃の本性を見て内心たまげたが、平静を装って魃の問いに答える。
「この扇の価値をわかっていないお前だから貸そうと思えるんだ。誰にでも使えるって知れたら、この扇を盗もうと考える奴が出てくるかもしれない。無用な悶着は起こしたくない」
黒義は以前、砂漠の隊商から売ってくれとしつこく頼まれたことを思い出しながら、顔をしかめる。
この村の現状からしたら、村人達はこの扇を喉から手が出るほどに欲するだろう。
黒義は扇を左右に持ち替えながら一晩ひたすら扇ぎ続け、夜が明けた頃には村人が節水を心がければ一ヶ月は生活できるんじゃないかというくらいまでの水が溜まった。
☆
村長以下、村人達は、目をまん丸にかっぴろげて、池を見る。
わずかの間の後、歓声が轟いた。
「おお、仙人様。ありがとうごぜぇます! ありがとうごぜえますぅ!!」
「ありがとうございます!」
「やったー!!」
「もうだめかと思ったのに」
「良かった。本当に良かった!!」
『いや、仙人じゃなくて、退治屋』と言う抗議はこっそり心の中に仕舞って、黒義は村長に告げる。
「次の雨が降るまでの間、これでなんとか凌いで下さい」
「ありがとうごぜぇました。わずかばかりですが、お約束の物です」
村長が、袋を差し出す。
いつもならありがたく受け取るが、今回、妖怪は黒義の隣でぴんぴんしている。
「いえ。妖怪がいなかったとはいえ、村の苦難が完全に去ったわけではありません。村のために使ってください」
「では何もありませんが、ささやかな宴でも」
「申し訳ない。こちらの姫を送り届けないといけない」
本当は、じんじんと肩が痛くて、一日くらいは、ゆっくりしていたいが、この妖怪を早く村から引き離さないといけない上、長居すると嘘がばれる可能性が高い。
それに、水が足りていないということは、農作物も大変なことになっているだろう。宴会なんてする余裕もないはずだ。
「村が元に戻った時に、また立ち寄ります」
そう言って、黒義は魃と共に村を後にした。