とある女の話
ずーっと昔の小さな物語。
とある国の片田舎にひとりの娘がいた。どこが美しいという事もなく、ごく平凡な娘であった。そのへんの『村一番』くらいなら選ばれる可能性があるかもしれないが、まぁ基本的に地味な娘だった。そして当人も派手な事は好まず、堅実に生きていた。
娘は自活のため、しばしば山に入った。娘の家は小作農で豊かとはいえず、土地も決してよいものではないうえに小作料をしっかりとられていたからだ。自活のためには山の知識が必要で、そして娘は山に関しては近郊の猟師も舌をまくほどに有能だった。おかげで村人一般の間での評価は低かったが、猟師やハンターたちの間では知る人ぞ知る、有名な娘ではあった。
ある年のこと。そんな娘のいる地方を飢饉が襲った。村自体も飢えたが悲惨なのは小作農たちだった。地主に常に搾り取られる彼らは蓄えがない。出せない小作料の代わりに地主たちは横暴に出た。娘のいる家はしばしば、その娘を差し出さされた。この地域は大部分の農民が小作農であったから、そこいら中に嘆きの声が響き渡った。だがそれでも、差し出す娘すらいない家よりはマシだったろう。中には一家もろとも自害した家、流浪の民となりて逃げ出した家もあった。
娘の家にも当然、娘を差し出せと禿頭の脂ぎった地主がやってきた。もはや娘の運命は決まったと周囲の誰もが思った。
だがしかし、娘の両親は毅然としてこれを拒否し、理由を堂々と述べた。
「わが娘は確かに我らの娘であるが、もはや我らのものではない。娘は森の神に嫁いだ神妻であり、ひとの手に託す事はできない。ゆえに小作料の代わりにはできない」
地主は一笑に付して夫婦に告げた。「他の家を回ってから最後にもう一度くる。娘を差し出さないのなら、おまえたちの命で支払わせる事になる。残された娘は俺が行き先を決めてやろう。なに、顔は並みだが下がよければ食いっぱぐれはないだろう」そういって立ち去った。
その夜、地主が再訪すると娘がひとりで入り口に立っていた。覚悟を決めたのだなと地主は好色に笑ったが、何やら雰囲気がおかしい。娘もそうだが近所の住民もだ。皆、なぜか娘を拝んでいる。
しかも、おかしな事に両親がいない。
「おまえ両親はどうしたのだ?」
「今までの御恩にお礼を申し上げ、ことづてを渡して旅立ってもらいました。ここにいては不幸になられますから」
娘は笑いもせずにそう言い切った。
「父様母様にお話は伺いました。しかし、わたしは神に仕える身。ひとのものにはなれませぬ。災いを召される前におひきとりを」
「何を戯けたことを。さぁ来るがよい」
地主は娘の手をとろうとした。だがその瞬間、地主は見えない何かに打ち据えられ地面に転がされた。
「何をするか無礼者が!貴様、自分が奴隷同然の身の上とわかったうえで儂に歯向かうつもりか?」
ほう、と娘は眉をよせた。
「無礼はそちらでしょう。よその女、しかもよりによって神に捧げられた女に手を出そうとはおぞましい」
そして、少し考えなおすかのように苦笑した。
「まぁ、おかげさまでわたしは踏ん切りがついたわ。父様と母様にお礼もできたし、これで安心して森の主様の元に参れます」
娘がそう言うと、周囲の住民たちが小さくない声をあげた。行かないで欲しい、でも引き止められない。そんな願いのこもった声だった。
そうして娘は去った。
地主は娘を捕まえようとしたが触れる事すらできず失敗。最後には娘の去った山に討伐隊まで送り込んだがこれも全滅。生き残った者は、あきらかに神か精霊と思われる巨大な狼に阻まれ警告されたと報告した。
地主の家はこの年の暮れに起きた政変の煽りを受け、一族郎党まとめて断罪されたという。妻や娘などの女性陣は直接の関わりがないとして許されたものの「神の巫女に手を出した家」という悪い噂がどこにいってもつきまとった。僅かな飢饉でも大量の死者が出るような時代にあって、それはまぎれもなく禁忌であり大罪だった。
彼女たちのうち、学問の徒であった末妹は王都神官の勧めで女神官となっていた。神職だと王立図書館詰めで仕事できるわけで合間に本が借りられたからだ。貴族社会に興味がなく向学の虫であった娘に神官や神学者たちは非常に好意的であり、彼らの陳情により、家名を捨てて図書館預かりの研究員となる事で彼女は助かった。
だが、そんな彼女を軽視していた一族の他の女たちはどこにも行き場がなくなった。この後彼女らは正史から消えてしまうが、文書によれば彼女たちは娼館に買い取られ、かつて我儘放題で足蹴にした男たちに小銭で買われる生涯を過ごしたという。
さて数年が過ぎた。神の巫女と、それに手を出そうとして取り潰された貴族の話が周辺に知れ渡っていたが、ここで有名なあの事件が起きた。そう、いわゆる西方魔王事件である。
西方諸国を恐怖のどんぞこに叩き込んだ、あの恐るべき恐怖の魔道王クラタス。全世界からたくさんの戦士や勇者が送り込まれたが、尽く返り討ち。西側世界は恐るべき魔王に戦々恐々として暮らしていた。
そんな中、ひとりの女が現れた。ひとりの異形の子を連れて。
武装していたが革製の軽量なもので、武器も短剣一本のみ。異形の子は魔術師と思えるローブ姿だったが、何より特徴的なのはその身体。人のように普通に立ち歩くのに尻尾があり、首から上は狼。いわば半獣半人だった。
そんな容姿で現れた娘は、人間の騎士団と魔物の小競り合いの間に飛び込み、あっというまに水入りにしてしまった。そして女は双方に告げた。
「わたしは東の森の王の使いです。魔道王様にお会いするために来ました。道を開けていただきます」
人間の騎士団は引きとめようとしたが、魔物たちに阻まれた。
ふたりが魔王城に入っていってしばしの後、魔王の名で正式に停戦の話が出た。現状のまま国境を安定化し攻めてこないのなら、これ以上の侵攻は行わないと。その文書によると、魔王はかつて人間の国で暮らしていたが一族郎党もろともに迫害を受けたうえに皆殺しになっており、元はといえばその仇討ちのために戦いはじめたという。だが今や攻め返すべき国は滅び、魔族たちの生きるための土地も確保された。これ以上の争いはお互いに損であろうと。
人間側は魔族の殲滅を訴える声が多かった。しかしこれ以上疲弊する事はできず、魔王の要求を呑む事となった。そしてお互いに特使を派遣し、対話を進める事となった。
これが有名な『刹那の和睦』。
そう、この平和は一瞬で破られたのだが、その原因はこの特使の行動に起因していた。
魔王城に訪れた人間側の特使は、魔王の元に不思議な親子を見た。ひとりは人間、そしてもうひとりは噂に聞いた半獣半人。魔王に聞けば親友の妻と子であり、今回の和睦を提案したのも彼らだという。特使は騎士たちに不思議な母子の情報を得ていたから、なるほどと納得した。
魔王に直接の謁見が可能で、強い影響力を持つ人間の女と半獣の少年。
特使は彼らに強い興味を持った。もとより彼は「魔王やその側近の弱点になりそうなものを探って来い」という指示を密かに受けていたのである。魔王たちは恐るべき相手でも家族や友人まで強いわけではないだろう。そして彼らは魔族ではない事から相手も人間か獣人であろうと特使は考え、ならば彼らが魔王領を出て帰還の折りに声をかけようと考えた。どういう背景があろうと女は人間であり、おぞましい魔族や薄汚い半獣などより同じ人間がよいだろうと彼は考えた。しかも彼の祖国は魔王領ほどではないが人間界では最大の武力と歴史を誇る大国であったから、国王の名で直々に召喚を申しつければ、断る事などありえないだろうとも考えていた。
だがもちろん、この考えは即座に否定される事になる。もう少し魔王の元に残るという少年を置いて外に出た女に特使は声をかけたのだが、興味なさげに即答で拒否されたのだ。
「せっかくのお誘いですけれど、お断りします。わたしには役目がありますし、人間の国に用はありません」
「いやまて、そなた、わが王による直接の召喚であるぞ?ただ謁見するだけでも凄まじい名誉であるし、そなたはこのたびの停戦に多大な貢献をしている。おそらくは王都に家屋敷と生活できるだけの扶持を与えられるだろう。そなたの夫が何者かは知らぬが、それを名誉と思う事はあれど」
「それがどうしたの?あなたたちの王都に家をくださる?そんなもの、わたしにはなんの価値もないわ」
女が断ったのはむしろ当然だった。女は遠い東の森の者であり、異国に家などもらっても意味があるわけがない。
それに、この王都に家というのは国王に囲われるという意味も持っていた。その意味を女は知らなかった。もし知っていたら激怒したであろうが、わからないから普通に断っただけだった。
特使の護衛騎士たちは眉をつりあげた。特使が止める間もなく女を取り囲み、無理やり連行しようとした。
だが騎士たちは女にまともに触れる事すらできない。触れた者は皆、一瞬で投げ飛ばされた。
「うぬ、怪しいヤツ!」
「怪しいのはどっちよ。その行動にその態度、あんたたち騎士じゃないわね?女ひとりとはいえ和平交渉を行った直後に一国の代表を害しようとする、その意味わかってるの?」
だが男たちは、女がうっすらと浮かべる嘲笑にむしろ激怒した。
特使が慌てて男たちに警告した。だが男たちはそもそも特使の直属の部下ではなかったから、特使がどうして止めようとするのか理解できなかった。まぁまぁ、すぐ終わりますからと団長格のひとりが特使を遮り、同時に女を殺害しようとした。
だが男たちは女に傷もつけられなかった。女からは攻撃してこなかったが、斬りかかった者全員を返す刀で皆殺しにしたからだ。
あっというまに騎士たちは死んでしまい、残ったのは特使だけだった。
特使はがっくりと膝をついた。
「悪いけど報告させてもらうわ特使さん。あなたはわたしに直接手出ししなかったけど、単に実行犯でないだけでしょう?それに、今回の一件を計画するような者が彼らにいたとは思えない。あなたが企んだ事よね?」
「いや待て、いったい何をするつもりだ?」
出てきた魔王城に舞い戻ろうとする女に、特使は食い下がった。
「なにって、この事態を魔王様にお知らせするんだけど?わたしの立場上あたりまえでしょう?」
特使は顔色を変え言った。
「バカな!そなたも戦乱を止めるために来たのだろう?そなたがどこの出身かは知らぬが、戦いが続けばまずいからこそ交渉を引き受けたのだろう?これ以上この戦いが続けば」
「え?わたしたちは問題ないわよ?魔王領と人間国家の戦争なんて、うちからは対岸の火事だもの」
「そなたも人間であろうが!これ以上魔族にひとの世界が滅びれば、そなたたちとて無事にすむわけが」
「おあいにくさま。わたしは確かに人間だけど、わたしは人間の世界に暮らす者ではないわ」
女はそんな特使の言葉に、クスクス笑って首をふった。
「わたしは元々、森の神様にお仕えする巫女にすぎなかった。それが、人の世界で追い詰められて、困っていた時にこう言われたの。森に入りなさいと。わたしを哀れんだ神様が、わたしを手元にお呼びくださったのよ」
そして女は、ふふっと笑った。
「別に人界に恨みなんてない、だけど愛着もないわ。それがあなたたちの選択というならそれもいいじゃないの。滅びれば」
そう言うと、女は去っていった。
結局この後、特使の祖国やその周辺国は滅びた。
報告を聞いた魔王は関係各国に状況を伝え、和平が一国の特使とその護衛騎士たちの手によって破られた事を名指しで伝えた。森の王の特使である女性を総員で取り囲み、手にかけようとして反撃を受けた事をそのまま、率直に流したのだ。
「人族のすべての自称国家群の長に問う。これが人族の騎士というものか?もしそうだというのなら、おまえたち相手に国家間協議などという高等な話を持ちかけた事を詫びよう。おまえたちが知性あるものではなくただの害獣にすぎないというのなら、我らがするべきは知性体相手の『戦争』でなく、害獣駆除であろう。まずは群れのボスをひとまず全員潰し、増えすぎた数を間引き、自然界と共存できるように導いてやる事にしよう。
月がひとつ巡る前に、本件に関する知性体としての申開きをするがよい。返答なくば、それをもって駆除を開始する」
不幸な事に、当時の人間国家に魔王の言葉を理解できる者は誰もいなかった。女の一件も何かの思惑をもったでっちあげであろうと勝手に推測し、きちんと状況を報告した生存者の特使の言葉にも耳を貸さなかったばかりか、迂闊な事を言えば騒乱罪で家族ごと処罰するぞと黙らせる始末だった。
そして一ヶ月後、魔王領は動き出したが、放たれたのは軍ではなく、なんと死者たちだった。今までの戦いで死んだ人間側および魔族側、魔物の死体まで再利用し、無限に増え続ける『人間討伐隊』として放ったのだった。
戦争において最も恐ろしいのは「数」である。死者たちは疲れも恐れもなく、ただただ機械的に押し寄せてきて人族だけを襲いまくった。そして殺された人族も少しすれば軍勢に加わる。浄化や解呪のできる者も人族にはいたが、人ひとりで一度に対応できる死者など百を超えるものではない。数千にも至ろうという軍勢相手に何ができよう?皆、果敢に戦ったが数の暴力の前に殺され飲み込まれ、そして戦列に加わった。
最終的に関係諸国を滅ぼした時、軍団規模は数十万のオーダーに達していたという。
女について当時は謎とされていたが、後に噂をかき集めた結果、数年前に田舎の寒村に現れたという『森の王に仕える巫女』なのだろうと結論した。連れていた獣人の少年は彼女が産んだ森の王の子であるとされ、これが獣人の始祖であるとも言われている。
ただしこの説には異論もある。森の王といえば獣の精霊王であるが、これと人間は異質すぎて子など産めないというものだ。だがこの異論として、上位精霊の深い寵愛を受けた者が生きながら精霊へと変貌すると言われており、半精霊以上からならば出産可能であるとも言われている。ただしこの説は物証に乏しく、今となっても真偽は不明となっている。
(おわり)