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忠義の刃

掲載日:2026/05/09

 その王国には、一人の騎士がいた。


 名を、レオン・グランツ。


 若くして王国騎士団長に上り詰めた男である。


 剣の腕は王国随一。

 戦場に立てば誰よりも前へ出て、民を守るためなら己の命すら惜しまない。

 だが彼が人々から敬われた理由は、強さだけではなかった。


 彼は、誰よりも王を信じていた。


 この国の王――アルヴァン・レイス。


 若くして王位を継いだ彼は、決して完璧な王ではなかった。

 迷うこともあった。

 失敗することもあった。

 時には臣下に厳しい言葉を浴びせられ、夜遅くまで執務室で一人、頭を抱えることもあった。


 だが、それでも。


 民のために悩み続ける王だった。


「レオン」


 ある夜。

 王城の高塔にて、アルヴァン王は静かに言った。


 窓の外には、王都の灯りが広がっている。

 幾千もの家々。

 そこに生きる民たちの暮らし。

 その全てを背負うように、王は夜の街を見下ろしていた。


「私は、良い王になれているだろうか」


 その問いに、レオンは迷わず膝をついた。


「陛下は、誰よりも民を想っておられます」


「想うだけでは足りない」


 王は苦笑する。


「税を下げれば軍備が削られる。軍備を整えれば民に負担がかかる。罪人を裁けば家族が泣き、許せば被害者が泣く。王とは……どうしてこうも、誰かを救うたびに誰かを傷つけるのだろうな」


 その声には、疲労が滲んでいた。


 レオンは顔を上げる。


「それでも陛下は、逃げておられません」


「……逃げていないだけだ」


「それこそが、王の器かと」


 王は目を丸くし、それから小さく笑った。


「お前は、本当に私に甘いな」


「私は陛下の騎士です」


「騎士だから、か?」


「いいえ」


 レオンは真っ直ぐに王を見た。


「貴方が、私の王だからです」


 その言葉に、王はしばし黙った。


 そして、ゆっくりと息を吐く。


「レオン。もし、いつか私が道を誤ったら」


「その時は、この剣でお止めします」


「では、もし私が死んだら?」


 冗談めかした声だった。

 けれど、レオンは笑わなかった。


「その時は、陛下の志を守ります」


「私の志か」


「はい」


 レオンは胸に手を当てた。


「民が笑って暮らせる国を作る。それが陛下の願いならば、私は剣となり、盾となり、たとえこの身が砕けようとも守り抜きます」


 アルヴァン王は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「……お前がいてくれて、本当に良かった」


 それが。


 レオンが聞いた、王の最後の本音だった。


 その三日後。


 王は、死んだ。


 深夜。


 王城に悲鳴が響いた。


 レオンが駆けつけた時、王の寝室は血に染まっていた。


 倒れている王。

 胸に深々と突き立てられた短剣。

 床に広がる赤。


 そして。


 その傍らに落ちていたのは、レオンの紋章が刻まれた剣飾りだった。


「騎士団長レオン・グランツ!」


 背後から声が響く。


 振り返ると、宰相ヴァルドが兵を引き連れて立っていた。


 痩せた男だった。

 常に冷静で、感情を見せず、王の側近として長く仕えてきた人物。

 だがその目には、今まで見たことのない光が宿っていた。


 勝利を確信した者の光。


「貴様が……陛下を殺したのか」


「違う!」


 レオンは叫んだ。


「私は今来たばかりだ!」


「ならば、その剣飾りは何だ?」


 兵たちの視線が床へ向く。


 レオンの紋章。

 王の血に濡れた証拠。


「これは……!」


「捕らえろ」


 ヴァルドが冷たく命じる。


「王殺しの大罪人だ」


 兵たちは一瞬ためらった。


 彼らにとって、レオンは尊敬すべき騎士団長だった。

 戦場で何度も命を救われた者もいる。

 彼が王を殺すなど、信じられるはずがない。


 だが、王は死んだ。

 証拠はある。

 そして宰相の命令は絶対だった。


「団長……」


 若い騎士が震える声で呟く。


 レオンは、王の亡骸を見た。


 アルヴァン王は、目を閉じていた。

 まるで眠っているようだった。


 けれど、もう二度と目覚めない。


 もう二度と、民の未来を語らない。

 もう二度と、迷いながらも前へ進もうとしない。


 その瞬間、レオンの中で何かが崩れた。


 怒りではない。

 悲しみでもない。


 ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いた。


「……陛下」


 彼は小さく呟いた。


「申し訳、ございません」


 守れなかった。

 剣となると誓った。

 盾となると誓った。


 なのに。


 王は、目の前で冷たくなっていた。


「捕らえろ!」


 兵たちが動く。


 だがその時、レオンは剣を抜いた。


 殺すためではない。

 逃げるためでもない。


 ただ、王の真実を守るために。


「私は陛下を殺していない」


 低く、鋭い声だった。


「この罪を着せた者がいる。陛下の命を奪い、王国を欺こうとする者が」


「黙れ、王殺しめ!」


 ヴァルドが叫ぶ。


 レオンはその目を見た。


 冷たい目。

 焦りを隠した目。


 その一瞬で、彼は悟った。


 この男だ。


 少なくとも、何かを知っている。


「ヴァルド」


 レオンは静かに言った。


「貴様だけは、必ず斬る」


 次の瞬間、レオンは窓へ向かって走った。


 兵たちが叫ぶ。

 矢が飛ぶ。

 剣が振るわれる。


 だが、王国最強の騎士を止められる者はいなかった。


 レオンは窓を破り、夜の王城から身を投げた。


 背中に矢が一本突き刺さる。


 激痛が走った。


 それでも彼は落下の途中、城壁の旗を掴み、体勢を変え、地面へ転がるように着地した。


 骨が軋む。

 血が流れる。

 息が詰まる。


 それでも、彼は立ち上がった。


 王都の鐘が鳴り響く。


 王の死を告げる鐘。

 そして、王殺しの罪人を追えという鐘。


 レオンは振り返った。


 夜空にそびえる王城。

 そこには、彼が命を懸けて守ると誓った全てがあった。


 だが今、その場所は彼を拒んでいた。


「陛下」


 血を吐きながら、レオンは誓う。


「必ず……必ず、貴方の無念を晴らします」


 その日。


 王国最忠の騎士は、王国最大の大罪人となった。


 追われる日々が始まった。


 レオンの名は地に落ちた。


 王を殺した裏切り者。

 信頼を盾に王へ近づき、寝首をかいた卑劣漢。

 騎士の皮を被った悪魔。


 王都の広場には、彼の手配書が貼られた。

 賞金は金貨千枚。

 生死問わず。


 かつて彼に助けられた民でさえ、恐怖と怒りの中で石を投げた。


「王殺し!」


「裏切り者!」


「陛下を返せ!」


 レオンは何も言わなかった。


 言い訳をすれば、王の名をさらに汚す気がした。

 自分が無実だと叫んでも、証拠がなければただの遠吠えだ。


 だから彼は逃げた。


 泥をすすり、傷を負い、森を越え、山を越え、国境近くの廃村に身を隠した。


 傷は深かった。

 背中の矢傷は膿み、熱が出た。

 何度も意識を失いかけた。


 それでも死ねなかった。


 死ぬわけにはいかなかった。


 王の仇を討つまでは。


「……情けないな」


 廃屋の壁にもたれながら、レオンは呟いた。


 手には、王から賜った剣がある。


 名を、黎明剣。


 アルヴァン王が即位した日に、レオンへ授けたものだった。


「お前は私の夜明けだ」


 あの日、王は笑ってそう言った。


「私が迷った時、お前が道を照らしてくれ」


 その剣を握り締め、レオンは歯を食いしばる。


「照らすどころか……守れもしなかった」


 涙は出なかった。


 泣く資格など、ないと思った。


 そこへ、一人の少女が現れた。


 灰色の外套を着た、十代半ばほどの少女だった。

 手には薬草と水袋を持っている。


「動かないで」


 少女は淡々と言った。


「その傷、放っておいたら死ぬ」


「……誰だ」


「ミラ」


「なぜ助ける」


「助けたいから」


 あまりにも単純な答えだった。


 レオンは苦笑する。


「私は王殺しだぞ」


「本当に殺した人は、そんな顔しない」


「顔で何が分かる」


「分かるよ」


 少女は膝をつき、傷を見た。


「あなた、ずっと誰かに謝ってる顔をしてる」


 その言葉に、レオンは息を呑んだ。


 ミラは傷口を洗い、薬草を当てた。

 痛みで視界が白くなる。


「なぜ、ここにいる」


「この村の生き残り」


「生き残り?」


「三年前、盗賊に襲われた。王国軍が来る前に、みんな死んだ」


 少女の声に、感情はなかった。

 感情を出し尽くした者の声だった。


「恨んでいるのか、王国を」


「昔はね」


「今は?」


「分からない。でも、アルヴァン王はこの村に慰霊碑を建ててくれた。誰も覚えてなかった村なのに」


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「だから、あの王様が殺されたって聞いて、悲しかった」


 レオンは唇を噛んだ。


 王は、そんなことまでしていたのか。


 彼は知らなかった。

 王は自分にさえ語らず、滅びた村の名を覚え、死者を悼んでいた。


 本当に、王だった。


「……私は、陛下を殺していない」


 初めて、レオンは誰かにそう言った。


 ミラは顔を上げる。


「うん」


「信じるのか」


「信じる」


「なぜ」


「さっき言ったでしょ」


 ミラは包帯を結びながら言った。


「あなた、ずっと謝ってる顔をしてる。でも、自分が殺した人に謝ってる顔じゃない。守れなかった人に謝ってる顔だよ」


 その瞬間。


 レオンの目から、一筋だけ涙が落ちた。


 それは、王が死んでから初めて流した涙だった。


「……陛下」


 声が震える。


「私は……私は、貴方を……」


 守れなかった。


 言葉にした瞬間、堰が切れた。


 レオンは顔を覆い、声を殺して泣いた。

 王国最強の騎士ではなく。

 大罪人でもなく。


 ただ、大切な主君を失った一人の男として。


 ミラは何も言わなかった。


 ただ、そばにいた。


 それから数日、レオンは廃村で傷を癒した。


 ミラは薬を運び、食料を分け、時に王都の噂を集めてきた。


 新たな王が即位するという。

 アルヴァン王に子はいなかった。

 そのため、政務を取り仕切っていた宰相ヴァルドが摂政となり、遠縁の王族を傀儡として立てるらしい。


 王都では反対の声もあったが、王殺しの混乱の中、強い統治者を求める声も大きかった。


「急ぎすぎだ」


 レオンは呟いた。


「陛下が亡くなってまだ十日も経っていない」


「証拠を消すつもり?」


「おそらくな」


 王の暗殺。

 レオンへの罪のなすりつけ。

 そして権力掌握。


 筋書きは見えてきた。


 だが証拠がない。


 ヴァルドを斬るだけならできる。

 だが、それではただの復讐だ。

 王殺しの汚名は晴れず、王国は混乱し、民はさらに苦しむ。


 それでは、王の志を守ったことにはならない。


「王城に戻る」


 レオンは言った。


 ミラは目を見開く。


「殺されるよ」


「ああ」


「分かってて行くの?」


「行かなければならない」


 レオンは黎明剣を手に取った。


「陛下の無念を晴らす。私が死ぬとしても、真実だけは残す」


「仇討ちって、そういうことなの?」


 ミラが静かに問う。


「相手を殺せば、それで終わり?」


 レオンは答えられなかった。


 ミラは続ける。


「私は、盗賊を殺したいってずっと思ってた。でも、殺したところで村のみんなは帰ってこない。だから分からなくなった。仇を討つって、何なんだろうって」


「……私にも分からない」


 レオンは正直に言った。


「ただ、陛下は殺された。志を踏みにじられた。ならば私は、それを許すことはできない」


「それは、あなたの怒り?」


「違う」


 レオンは首を振る。


「これは、忠義だ」


 ミラはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「だったら、死なないで」


「約束はできない」


「じゃあ、死ぬつもりで行かないで」


 少女の声が震えた。


「王様は、あなたに死んでほしいなんて思ってない」


 レオンは目を伏せる。


 王の声が蘇る。


『お前がいてくれて、本当に良かった』


 あの人なら、何と言うだろうか。


 復讐に燃えて死ぬことを、喜ぶだろうか。


 違う。


 きっと、困ったように笑う。


 そして言うのだ。


『生きろ、レオン』と。


「……努力する」


 レオンは静かに答えた。


 ミラは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


 王都へ戻る前夜。


 レオンは廃村の慰霊碑の前に立った。


 苔むした石碑には、村人たちの名が刻まれていた。

 その下に、小さく王の名も刻まれている。


 ――アルヴァン・レイス、この地に眠る民の安寧を祈る。


 レオンは膝をついた。


「陛下」


 夜風が吹く。


「私はずっと、貴方の仇を討つことだけを考えていました。ヴァルドを斬り、貴方の無念を晴らす。それだけが、私に残された使命だと」


 けれど。


「違うのですね」


 王が守りたかったのは、己の名誉ではない。

 民の明日だった。


 ならば、自分が守るべきものも同じだ。


「私は、貴方の剣です」


 レオンは黎明剣を抜いた。


 月明かりを受け、刀身が白く輝く。


「仇を討ちます。ですが、それは憎しみのためではない。貴方が守ろうとした国を、これ以上汚させないために」


 彼は立ち上がった。


「どうか、見ていてください」


 そして翌日。


 王都に、一人の罪人が戻った。


 新王即位の式典。


 王城前の広場には、多くの民が集まっていた。


 壇上には、幼い王族の少年。

 その背後に立つ宰相ヴァルド。

 実質的に国を動かすのが誰なのかは、誰の目にも明らかだった。


 ヴァルドは民衆を見渡し、重々しく口を開いた。


「我らは深い悲しみの中にある。偉大なるアルヴァン王は、最も信頼していた騎士の裏切りにより命を落とされた」


 民衆の間に怒りが広がる。


「だが、王国は倒れぬ。裏切り者に屈することなく、我らは新たな時代へ進むのだ」


 その時だった。


「その言葉」


 広場の後方から声が響いた。


「陛下の御前で、もう一度言えるか」


 民衆が振り返る。


 そこにいたのは、黒い外套をまとった男。


 痩せていた。

 頬はこけ、傷だらけで、片足を引きずっている。


 だが、その手には一本の剣があった。


 黎明剣。


 王より授けられた、忠義の証。


「レオン……!」


 誰かが叫んだ。


 広場が騒然となる。


「王殺しだ!」


「捕まえろ!」


「殺せ!」


 石が飛ぶ。


 レオンの額に当たり、血が流れた。


 それでも彼は歩いた。


 真っ直ぐに、壇上へ。


 兵たちが剣を構える。


 ヴァルドの顔が歪む。


「愚かな。自ら死にに来たか」


「死にに来たのではない」


 レオンは剣を抜いた。


「真実を告げに来た」


「真実だと?」


「アルヴァン王を殺したのは、私ではない」


 民衆がざわめく。


 ヴァルドは鼻で笑った。


「まだそのような戯言を。証拠はある。王の寝室に貴様の剣飾りが落ちていた」


「ああ。だが、あれは三ヶ月前に盗まれたものだ」


「何?」


「騎士団の記録庫に届けを出してある。私の剣飾りが紛失したと」


 ヴァルドの眉がわずかに動いた。


 レオンは続ける。


「その届けを受理したのは、副団長カイルだ」


 壇の下にいた騎士が、顔を上げた。


 カイル。

 レオンの副官だった男。

 今は彼の後任として騎士団をまとめている。


「カイル!」


 ヴァルドが鋭く叫ぶ。


「答えよ! そのような届けは存在するのか!」


 カイルは沈黙した。


 周囲の視線が集まる。


 彼は震えていた。

 恐怖か。

 迷いか。


 やがて、カイルは膝をついた。


「……存在します」


 広場がどよめいた。


「三ヶ月前、団長は確かに剣飾りの紛失届を提出しました」


「なぜ黙っていた!」


 ヴァルドが怒鳴る。


 カイルは唇を噛む。


「記録が……消されていました。私も、口外すれば家族を処刑すると脅されていた」


 民衆の声が変わり始める。


 怒りから、疑念へ。


 レオンは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。


「消された記録の写しだ。カイルは念のため、控えを残していた」


「偽物だ!」


 ヴァルドが叫ぶ。


「王殺しの言葉に惑わされるな!」


「ならば、もう一つ聞こう」


 レオンの声が鋭くなる。


「陛下の胸に刺さっていた短剣。あれは王城の宝物庫に保管されていた儀礼剣だ。鍵を持つ者は限られている」


 レオンはヴァルドを見た。


「私に宝物庫を開ける権限はない」


 民衆のざわめきが大きくなる。


「一方で、宰相である貴様にはある」


「黙れ!」


 ヴァルドの顔から余裕が消えた。


「証拠にもならぬ!」


「そうだ。まだ証拠にはならない」


 レオンは静かに言った。


「だから、最後の証拠を持ってきた」


 その時、広場の脇から一人の少女が歩いてきた。


 ミラだった。


 彼女は両手で小さな箱を抱えている。


「その娘は何だ!」


 ヴァルドが叫ぶ。


「廃村の生き残りだ」


 レオンは答えた。


「陛下が慰霊碑を建てた村のな」


 ミラは壇上の前で箱を開けた。


 中には、血に染まった布と、一通の手紙があった。


「これは、王様が死ぬ三日前に、その村へ送ろうとしていた手紙です」


 ミラの声は震えていた。


「慰霊碑の修繕費と、孤児支援の命令書でした」


 民衆は黙り込む。


 ミラは続ける。


「でも、その手紙は届かなかった。王様が死んだあと、村の慰霊碑を壊しに来た人たちがいたからです」


「何だと……?」


「その人たちは、証拠を消すつもりだった。王様が民を想っていた証を」


 ミラはヴァルドを見た。


「その人たちが持っていた命令書に、宰相の印がありました」


 ヴァルドの顔が凍る。


 レオンは言った。


「陛下は、貴様の不正に気づいていた。孤児支援の金を横領し、廃村の復興費を懐に入れていたことをな」


「黙れ……」


「陛下は三日後、貴様を罷免するつもりだった」


「黙れ!」


「だから貴様は陛下を殺した。そして私に罪を着せた」


「黙れえええええ!」


 ヴァルドが剣を抜いた。


 その瞬間、全てが決まった。


 民衆の前で。

 新王の前で。

 騎士たちの前で。


 宰相は、真実を隠すために剣を抜いた。


「殺せ!」


 ヴァルドが兵に命じる。


「その男を殺せ! その娘もだ!」


 だが、兵たちは動かなかった。


 カイルが立ち上がる。


「我らが剣は、王国と民を守るためにある」


 彼は剣を抜き、レオンの隣に立った。


「真実を斬るためではない」


 一人、また一人と騎士たちが剣を下ろす。


 ヴァルドは唇を震わせた。


「ならば……私自ら殺してやる!」


 彼は壇上から飛び降りた。


 意外にも、その剣筋は鋭かった。

 ただの文官ではない。

 暗殺を企てるだけの備えはしていたのだろう。


 レオンは受け止める。


 刃と刃がぶつかり、火花が散った。


「なぜだ、ヴァルド」


 レオンは問う。


「なぜ陛下を殺した」


「王など飾りだ」


 ヴァルドは吐き捨てた。


「あの甘い王では国は守れぬ。民だの孤児だの、くだらぬものに金を使い、軍備を削り、貴族を敵に回す。いずれ国は滅びていた」


「だから殺したのか」


「私が国を導くためだ!」


 ヴァルドの剣がレオンの肩を裂く。


 血が飛ぶ。


「アルヴァンは優しすぎた! 王に必要なのは慈悲ではない! 力だ!」


「違う」


 レオンは踏み込んだ。


「陛下は弱かったのではない」


 剣がぶつかる。


「迷いながらも、民を見捨てなかった」


 さらに一歩。


「傷つくと分かっていて、それでも手を伸ばした」


 ヴァルドの剣が弾かれる。


「それを弱さと呼ぶなら」


 レオンは黎明剣を振り上げた。


「貴様に王を語る資格はない!」


 一閃。


 ヴァルドの剣が宙を舞った。


 勝負は決した。


 レオンの剣先が、ヴァルドの喉元に突きつけられる。


 広場は静まり返っていた。


 誰もが見ていた。


 王殺しと呼ばれた騎士が、王の仇を討つ瞬間を。


 ヴァルドは膝をつき、笑った。


「斬れ……レオン。私を斬れば、貴様の仇討ちは終わる」


 レオンの手に力が入る。


 目の前にいる。


 王を殺した男が。

 全てを奪った男が。


 この男を斬れば、王の無念は晴れる。

 そう思っていた。


 だが。


 剣は動かなかった。


 脳裏に王の声が響く。


『私の志を守ってくれ』


 レオンは目を閉じた。


 仇討ちとは、殺すことなのか。


 違う。


 王が望んだ国は、憎しみで人を裁く国ではない。


 罪を明らかにし、法によって裁く国だ。


 レオンは剣を下ろした。


「殺せ……!」


 ヴァルドが叫ぶ。


「殺せばいいだろう!」


「貴様は裁かれる」


 レオンは静かに言った。


「陛下が守ろうとした法によって」


 ヴァルドの顔が歪んだ。


「それが……それが復讐か!」


「いいや」


 レオンは答えた。


「忠義だ」


 その言葉に、ヴァルドは崩れ落ちた。


 騎士たちが彼を拘束する。


 広場には、誰の声もなかった。


 やがて、幼い新王が壇上から降りてきた。


 震える足でレオンの前に立つ。


「レオン・グランツ」


 少年王は、まだ幼い声で言った。


「そなたの罪は……晴れた」


 レオンは膝をついた。


 深く、深く。


「ありがたき幸せ」


 民衆の中から、誰かが泣き出した。


 それはやがて、広場全体に広がっていく。


「すまなかった……」


「レオン団長……」


「信じられなくて、ごめんなさい……」


 謝罪の声。

 すすり泣く声。

 そして、王の名を呼ぶ声。


 レオンは何も言わなかった。


 ただ、空を見上げた。


 青い空だった。


 王が夢見た夜明けのように。


 数日後。


 ヴァルドは正式な裁判にかけられた。


 王暗殺。

 国家反逆。

 公金横領。

 証拠隠滅。


 全ての罪が明らかになった。


 彼は死罪となった。


 だが、レオンは処刑を見に行かなかった。


 代わりに、王の墓前へ向かった。


 王城の北にある小高い丘。

 そこに、アルヴァン王は眠っていた。


 墓前には花が供えられている。

 民が持ち寄ったものだった。


 高価な花ではない。

 野に咲く小さな花。

 子供が摘んだであろう花。

 土のついたままの花。


 それが、何より王に似合っていた。


 レオンは膝をつく。


「陛下」


 風が吹いた。


「遅くなりました」


 彼は黎明剣を墓前に置いた。


「貴方の無念は、晴れました。ですが……私は、貴方を守れなかった罪を、生涯忘れません」


 沈黙。


 鳥の声が遠くで響く。


「私は、貴方の仇を殺しませんでした」


 レオンは目を閉じる。


「本当は、斬りたかった。何度も、何度も。あの男の首を落とせば、この胸の穴が少しは埋まる気がした」


 だが、埋まらない。


 誰を殺しても、王は帰ってこない。


「だから私は、貴方の国を守る道を選びました」


 それが正しかったのかは分からない。


 けれど、王ならばきっと。


 困ったように笑って、こう言うだろう。


『よくやった、レオン』


 その声が聞こえた気がして。


 レオンは初めて、穏やかに泣いた。


 墓地の入口で、ミラが待っていた。


「終わった?」


「ああ」


「これからどうするの?」


 レオンは王城を見た。


 新しい王はまだ幼い。

 国には混乱が残っている。

 騎士団にも、民にも、深い傷がある。


 やるべきことは山ほどあった。


「騎士団長には戻らない」


 レオンは言った。


 ミラは驚く。


「どうして?」


「私は一度、王を守れなかった。民にも疑われ、国にも傷を残した。今さら以前と同じ場所に戻るべきではない」


「じゃあ、出ていくの?」


「いや」


 レオンは静かに笑った。


「陛下が守ろうとしたものを、別の形で守る」


 後日。


 レオン・グランツは正式に赦免された。


 多くの者が騎士団長への復帰を望んだ。

 新王もまた、彼に戻ってほしいと願った。


 だが、レオンはそれを辞退した。


 代わりに彼が選んだのは、辺境の復興だった。


 盗賊に襲われ、見捨てられた村。

 戦争で傷ついた町。

 税に苦しむ民。

 親を失った子供たち。


 王が生前、救おうとしていた人々のもとへ赴き、剣ではなく手を差し伸べた。


 もちろん、剣を捨てたわけではない。


 盗賊が現れれば戦った。

 民が脅かされれば盾となった。

 だが彼はもう、復讐のために剣を振るわなかった。


 誰かの明日を守るために振るった。


 やがて人々は、彼をこう呼ぶようになった。


 忠義の騎士。


 王を殺した罪人ではなく。

 王の仇を討った英雄でもなく。


 王の志を継いだ、一人の騎士として。


 数年後。


 あの廃村には、新しい家々が建ち始めていた。


 畑には麦が揺れ、子供たちの笑い声が響く。

 慰霊碑の周りには、白い花が咲いていた。


 ミラはその村で、子供たちに文字を教えるようになっていた。


 レオンは村の外れで、剣の稽古をしていた少年に声をかける。


「剣は、人を斬るためだけにあるのではない」


 少年は不思議そうに首を傾げる。


「じゃあ、何のため?」


 レオンは少し考えた。


 かつての自分なら、迷わず答えただろう。


 王を守るため。

 敵を倒すため。

 仇を討つため。


 だが今は違う。


「誰かが泣かずに済むようにするためだ」


 少年はまだ分からないという顔をした。


 レオンは笑った。


「いつか分かる」


 夕暮れ。


 村の丘に立つと、遠くに王都が見えた。


 空は茜色に染まっている。


 レオンは胸元から、小さな剣飾りを取り出した。


 かつて罪の証として使われたもの。

 だが今は、真実を取り戻した証だった。


「陛下」


 彼は静かに呟く。


「この国は、まだ傷だらけです。貴方が夢見た未来には、まだ遠い」


 それでも。


 子供たちが笑っている。

 畑に麦が実っている。

 誰かが誰かを想い、今日を生きている。


 王が守りたかったものは、確かにここにある。


「ですが、私は歩き続けます」


 風が吹いた。


 まるで、誰かが背中を押すように。


 レオンは微笑んだ。


「貴方の夜明けが、この国に届くその日まで」


 忠義の刃は、復讐を越えた。


 仇を討つために振るわれた剣は、やがて人々を守る光となった。


 そしてその光は、王の死後もなお、王国の片隅で静かに輝き続けた。


 かつて王が願った、優しい未来へ向かって。


 ただ、真っ直ぐに。

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