第27話:無垢なる楽園と、王の狂愛
灰色の霧が晴れたあとの世界には、耳が痛くなるほどの「清浄な静寂」が満ちていた。
かつて人間たちの強欲や怨嗟、そして醜い虚飾が渦巻いていた外界は、いまやリリアナの真名から溢れ出した銀色の波動によって、一粒の塵すら残さず浄化されていた。城の窓から見下ろす地平の果てまで、そこにあるのはリリアナの幸福感に呼応して芽吹いた極彩色の森と、精霊たちが放つ光の粉を湛えた透明な大気だけ。
人間という種がもたらしていた雑音は消え去り、世界は精霊たちの奏でる純粋な音色だけが響く、神代の静寂を取り戻したのである。
(……ああ、本当に。すべてが、終わったのね)
城の最奥、雲を突き抜けるような高みにあるバルコニーで、リリアナは朝の光を全身に浴びていた。
彼女がふと、昨夜の微睡みの中で「あの荒れ地にも花があればいいのに」と小さく呟いた場所には、一晩にして見たこともないほど瑞々しい白銀の花々が咲き乱れていた。リリアナの意志は、もはやこの世界の絶対的な「法」となり、彼女が微笑むだけで万物が芽吹き、彼女が憂うだけで世界に静かな雨が降る。
ふわり、と背後から熱を帯びた影が寄り添い、リリアナの細い腰を逃さぬように抱きすくめた。
アルヴィスだ。彼はリリアナを自分という檻の中に閉じ込め、外界の空気さえも彼女に触れさせるのを惜しむかのように、その白い項に何度も熱い唇を寄せた。
「……おはよう、私の眩い太陽。……お前が世界を塗り替えたおかげで、ようやく不快な雑音がすべて消えた。……これで、私の目は、私の耳は、お前という名の奇跡だけを享受することができる」
アルヴィスの声には、これまでの数千年の孤独が嘘のような、狂おしいほどの悦びが滲んでいた。
彼はリリアナを自分の膝の上へと抱き上げると、そのまま豪華な長椅子へと腰を下ろした。世界から「リリアナを汚す視線」や「彼女を道具と呼ぶ者」が一人残らず消え去ったことは、この独占欲の権化たる王にとって、何よりも甘美な勝利であった。
「お前を傷つける泥も、お前を縛る義務も、もうこの世のどこにも存在しない。……リリアナ、お前はただ美しく、私の隣で咲いていればいいのだ。……あとのすべては、私が、お前の影となって支えてやろう」
アルヴィスは、精霊たちが集めてきた「月の蜜」を自ら銀のスプーンで掬い、リリアナの唇に寄せた。
一滴、その喉を潤すごとに、人間だった頃の記憶――空腹、寒さ、そして蔑み――が、実体のない幽霊のように遠のいていく。アルヴィスはリリアナが指一本動かすことすら許さず、彼女の髪を梳き、その細い指先を一本ずつ愛おしそうに舐め上げ、自分の魔力でその肌を宝石のように磨き上げていった。
それは、究極の寵愛という名の、甘すぎる監禁。
けれど、リリアナはそれを拒まなかった。王の腕の中から伝わる、自分を失うことへの狂信的なまでの恐怖と、それを上回る深い情愛を知っているからこそ、彼女はこの熱の中に身を浸すことに至上の安らぎを感じていた。
「……アルヴィス様。……私、少しだけ『約束の庭』へ行きたいのです。……ロバートさんに、お礼を伝えたくて」
リリアナの小さなおねだりに、アルヴィスはわずかに眉を潜めたが、彼女の潤んだ瞳で見つめられると、抗う術を持たなかった。
「……お前は、いつになれば私一人で満足するのだ。……だが、よかろう。あそこは私の領土だ。……お前が望むなら、お前を抱えたまま、その庭まで運んでやろう」
◇◇◇
聖域の外縁に作られた、穏やかな陽光が満ちる『約束の庭』。
そこでは、リリアナの過去において唯一の恩人であった老庭師のロバートが、外界の崩壊とは無縁の場所で、リリアナの魔力を浴びて瑞々しく咲き誇るバラの手入れをしていた。
銀色の霧と共に現れた二人を、ロバートは深く頭を下げて迎えた。
「……リリアナお嬢様。……いえ、女王陛下。……今日も、お美しい。……このバラも、お嬢様の笑顔のように、これほどまでに綺麗に咲きました」
リリアナはアルヴィスの腕から降り、自らの足でロバートの元へ歩み寄った。
彼女は自分を救ってくれた老人の手を取り、優しく微笑む。
「ロバートさん、ありがとうございます。……あなたのおかげで、私は人間界に置いてきた最後の未練を、美しく残すことができました。……もう、何も心配はいりません。……私は、この方と共に、永遠に色彩の中で生きていきます」
ロバートは、目の前に立つリリアナの姿に、もはや人間としての名残を見出すことはできなかった。
かつての屋根裏部屋で震えていた少女は、いまや全精霊を統べる女王となり、その瞳には神の如き慈愛が宿っている。ロバートは彼女の幸福を確信し、安堵の涙を流しながら、再び深く跪いた。
「……お幸せに、お嬢様。……わしはここで、ずっと、お二人の世界を見守っております」
リリアナは満足げに頷くと、再び自分を迎えに来たアルヴィスの広い胸へと戻った。
人間界との最後の糸が、いま、温かな感謝と共に断ち切られた。
◇◇◇
「……満足か、リリアナ。これで、お前をこの地に繋ぎ止めるものは、私以外にいなくなったな」
城へと戻る道すがら、アルヴィスはリリアナをより一層強く、逃がさないという確固たる意志を込めて抱きしめた。
背後では、色彩を失った外界が完全に「無」へと還り、一筋の灰も残さず消失していく。
残されたのは、二人が愛を語らうための、この広大で美しい檻だけ。
「……はい、アルヴィス様。……私は、あなたの檻の中で、永遠に甘い夢を見続けていたいのです。……あなたの声だけを聴き、あなたの熱だけを感じて……」
「ああ……お前はどこまでも私の心を狂わせる。……これからは、誰にも邪魔をさせん。……お前の一分一秒、お前の吐息のひとつまで、すべて私が愛で満たしてやろう」
アルヴィスは、リリアナを城の最深部、誰も立ち入ることのできない『真実の寝所』へと運び込んだ。
扉が閉まり、精霊たちが祝福の歌を奏でる中、二人は永遠へと続く深い微睡みの中へと落ちていった。
それは、虐げられた少女が手に入れた、あまりに残酷で、あまりに甘美な、無垢なる楽園の完成であった。




