月光
あなたに、月が綺麗だねと言われたい。
彼女と別れて、駅とは逆の方へ歩いていた。
理由は考えなかった。考えれば、きっと足が止まる。
酒が残っているのか、それとも夜のせいか、世界はやけに柔らかかった。街灯の輪郭は滲み、足音は少し遅れて返ってくる。月だけがはっきりと空にあって、今夜の主役を引き受けたように静かに光っていた。
今日の彼女は、いつもより言葉が少なかった。
話すとき、語尾を丁寧に置き、笑う前に一瞬だけ視線を外す。その仕草が、妙に記憶に残る。
「今日はありがとうございました」
別れ際の声が、耳の奥に沈んでいく。
「こちらこそ。また会いましょう。」
そう言ったとき、胸の内側で何かが擦れた。
彼女は少し間を置いてうなずき、歩いて帰ると言った。
時刻は一時を回っていた。
電車のことを考える必要は、もうなかった。
交差点の角に、人影があった。
近づくにつれ、それが誰か分かってしまい、歩幅が乱れる。
「どうして、こんなところに?」
彼女は首を傾げ、困ったようにこちらを見る。
言葉を探したが、うまく掬えなかった。
「……なんとなく」
そう言うと、彼女は少し困ったように笑った。
「少し、話しませんか」
近くの公園には、誰もいなかった。ベンチに腰を下ろすと、風が木々を揺らし、月光が砂を淡く照らした。会話は生まれなかったが、沈黙は重くなかった。
しばらく、空を見上げていた。
「今日の月は、綺麗ですね」
その一言で、時間が止まったように感じた。
返事を探しているあいだに、息が一つ余分に漏れる。
「……そうですね」
声が少し低くなったのが、自分でも分かった。
「月は、いつも綺麗です」
彼女の耳と頬が赤く染まっている。
寒さのせいだと思うことにして、再び空を仰ぐ。
月は、何も語らない。
ただ、言われなかった言葉までも、等しく照らしている。
息が白くほどけていくのを見て、夜が終わりに向かっていることを知った。
それでもしばらく、立ち上がる理由は見つからなかった。




