#39 ひとつの祈り
サイラは背伸びをひとつして、肩の力を抜くと、踵を返した。
「おっちゃん、ちょっとファナんとこ行ってくるわ」
「あぁ、分かった」
その背に向かって、ルガンが声を上げる。
「サイラ、僕も一緒についていっていいですか?」
サイラはぴたりと歩みを止める。
振り返らずに、一言だけ返した。
「──お前が何かできるって思うなら、ついてきな」
そのまま、サイラは広場へと歩き出す。
ルガンは小さく息を吸い、そして走り出した。彼女の背中を、追いかけるように。
サイラとルガンが広場に着くと、子どもたちは笑い声を上げながら、元気よく駆け回っていた。
誰かがゴーレムの背に登り、また誰かが転んでは大笑いして──そこには、温かな日常の風景が広がっていた。
そんな中、ゴーレムの足元に、ひとり座る小さな背中があった。
まるで、そこだけが別の世界のように。
サイラには、陽の光すら届かない、静かな影が落ちているように見えた。
彼女はファナの隣に、何も言わずに座った。
ルガンも、その隣に、静かに腰を下ろす。
ふたりとも、無理に言葉を探さず、ただ彼女の“心の隣”に寄り添った。
やがて──遠くを見つめたままだったファナが、ぽつりと呟くように口を開く。
「サイラ⋯⋯」
「ダイスケのこと、信じられないか?」
ルガンはサイラの何気ない言葉に引っかかる。
(ダイスケ⋯⋯?ダイスケって勇者の⋯⋯?)
ファナは静かに首を横に振った。
そして、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「大輔は、優しいです。ドジで、恥ずかしがり屋で、泣き虫で。でも──かっこよくて、可愛くて、ひたむきで、頑張り屋で、人思いで⋯⋯」
言葉のひとつひとつが、まるで祈るように、風の中に溶けていく。
それは、誰かに説明するためじゃない。
“自分に言い聞かせる”ような声だった。
「そんな大輔が、国を滅ぼしたりなんて──できるわけないです」
その声には、揺らぎがなかった。
悲しみも、迷いも、飲み込んだ上で、確信だけが残っていた。
「⋯⋯アタイもさ、あいつにゃできねぇって思ってたんだ」
サイラの呟きに、ルガンはちらりとファナの横顔を見る。
陽の光に透けた頬。
伏せられた睫毛。
揺るがぬ想い。
(か、可愛い!──けど⋯⋯なんだろう、さっきから⋯⋯)
胸の奥に居座る、もやのような違和感に言葉を探していた。
(何かが、こう──うまく言えないけど、引っかかる)
どこか肌に合わないような、ざらついた感覚。
(僕、何を感じてるんだ?それに、彼女の頭の上に浮かんでる霧みたいなのは何だ?)
ルガンの混乱をよそに、おもむろにサイラの声が響く。
それは、ファナもルガンも予想だにしない言葉。
「ファナ、セオカトの代表になろう」
「えっ⋯⋯?」
ファナは目を見開き、サイラの目を見る。
「私が、代表?」
「あぁ。神官様たちは猛反対だろうけどな」
「でも⋯⋯私は何もできないって言いましたよね?」
「それでいい。ファナの為には、この方法しかねぇんだよ」
「私の⋯⋯為?」
「まぁ、“本番”になりゃ分かるさ」
終始柔らかい表情で話すサイラに、ルガンは眉をひそめながら、
「サイラ、それはさすがにまずくないですか⋯⋯?」
「アタイがうまく神官様たちを言いくるめりゃいい話だろ?何かありゃ責任取ればいい。それだけさ」
(ダイスケ、こっちはまとめといてやるから⋯⋯絶対、モノマヒアに出て来いよ。ファナの背中を──もう二度と、あんなふうに見たくねぇんだ)
一方、ヴァルドノルド王国の王立病院の一室。
レイが去ったあと、大輔は掛け布団を頭から被り、ベッドで丸くなっていた。
すると、部屋の扉がノックされる。
その向こうから、
「ダイスケ⋯⋯入るよ?」
いつものトーンとは違う、リーリャの声。
それに大輔は一切反応しない。
扉が開かれると、リーリャはベッドの横の椅子に座った。
「⋯⋯おかえり、ダイスケ」
「⋯⋯」
「リーリャはね、どんな形でも、ちゃんと帰ってきてくれて嬉しいって思ってるよ」
「⋯⋯」
「“氷哭”に遭っちゃったんだね」
「⋯⋯」
「⋯⋯ダイスケは辛かったんだね」
「⋯⋯」
「心の中を、見ないように必死だったんだね」
「⋯⋯」
「そして、それをリーリャに見せないようにしてくれてたんだね」
「⋯⋯」
「やっぱり、ダイスケは強かったんだね」
「⋯⋯」
「リーリャは──優しいダイスケが好きだよ」
「⋯⋯」
「この国にいるうちは、ずっとずっと、リーリャが支えてあげるからね」
「⋯⋯」
リーリャは終始、悲しげな顔をして話しかけていたが、大輔は知る由もない。
お互い、何も話さず、数分の沈黙が続く。
そして、
「⋯⋯リーリャは他の仕事もあるから、もう行くね?」
彼女は立ち上がると、静かに部屋を出ていった。
その後、ベッドの上の塊が小刻みに震え、小さく嗚咽を漏らしていた。
翌日。
大輔は相変わらず、同じ体勢のままでいた。
ただただ、流れていく時間。
ベッドの横のテーブルに置かれた食事にも、一切手をつけていなかった。
その静寂の中、扉をノックする音が響き、「ダイスケ、入るね?」とリーリャの声がして、部屋に入ってきた。
彼女は食事を目にすると、
「ダイスケ、ちょっとでいいからご飯食べないとダメだよ?」
そう言いながら椅子に座る。
「あのね、パパがダイスケのこと心配してたの」
「⋯⋯」
「でも、“大丈夫なのか?”とか“早くよくなるといいな”とか、そんな優しい言葉じゃなくて」
リーリャは含み笑いをしながら言ったが、大輔は反応しない。
「“前を見れない奴に未来は無い”だって!本当にパパったら口べたで不器用なの」
その言葉に、リーリャの目の前の塊が少し、もぞ、と動いた。
「実はパパもね、若い頃“氷哭”に遭ったんだって」
「⋯⋯」
「昔ね、プラティドラク山脈の炭鉱で大規模な爆発事故があって、パパもそこにいたの」
「⋯⋯」
「親衛隊が、貴重な鉄鉱石の運搬の警備をしてたんだけど、それに巻き込まれて⋯⋯パパは奇跡的に無事だったんだけど、たくさん仲間が亡くなって」
「⋯⋯」
「“氷哭”に遭ったとき、その仲間たちに責められて⋯⋯本当に辛かったって」
「⋯⋯」
「でも、その亡くなった人たちの遺族から、パパはいい奴だって聞いてた、今までよくしてもらってありがとうって言われたって」
「⋯⋯」
「リーリャは“氷哭”に遭ったことないから、偉そうなことは言えないけど⋯⋯もっと仲間を信じてあげてもいいのかなって思うの」
「⋯⋯」
「⋯⋯何かごめんね?分かったようなこと言って」
「⋯⋯」
「ダイスケ、パンだけは置いてくから、ちゃんと食べてね?」
リーリャは立ち上がり、食事の乗ったトレーを持つ。
「じゃあ、また明日ね」
そう言うと、彼女は部屋を出て行った。
翌日。
いつものように、部屋にノックの音が響く。
「ダイスケ、入るね?」
リーリャが扉を開け、椅子に座ろうとしたとき、テーブルの上のパンに目がいった。
すると、少しだけちぎられた跡があり、その横にある水差しの水も、少し減っていた。
リーリャはそれを見て微笑み、椅子に座った。
そして、ベッドの上の塊は、心なしか平たくなったように見えた。
「⋯⋯ダイスケ。リーリャね、いいことがあったの」
「⋯⋯」
「だからね、今日はいい日なの」
「⋯⋯」
「どうしてって?そうだなぁ⋯⋯“一歩踏み出せた”からかな?」
「⋯⋯」
「その一歩はね、すごく大きな一歩なの」
「⋯⋯」
「そしてね、ゆっくりだけど、一歩、また一歩って歩いて、いつか必ずたどり着くの」
「⋯⋯」
「ダイスケの大切な人たちが⋯⋯そこで待ってるよ?」
布団の中から、わずかに嗚咽が漏れる。
「もちろん、リーリャも待ってるの。それは、希望じゃなくて⋯⋯今、確信になったの。だから、今日はいい日なの」
「⋯⋯ううっ」
「ふふ、ちょっとクサかったかな?でも、リーリャの“アトロティミラ”は強くて優しいから、信じてるの」
リーリャは静かに立ち上がると、笑みを浮かべて、
「また、仕事してくるね。じゃあね、ダイスケ」
彼女がゆっくりと扉に手をかけた──そのとき。
「⋯⋯リーリャ⋯⋯ごめん⋯⋯」
か細く、涙に濡れた声が、布団の中から、そっと、漏れた。
それはまるで、崩れそうな心が、ようやく結んだ──たったひとつの言葉だった。
ゆっくりと振り返ったリーリャの頬に、大粒の涙がつうっと伝い落ちる。
彼女は唇を噛みしめ、肩を小さく震わせながらベッドに歩み寄ると、そっと両膝をついた。
掛け布団に額をあて──堪えていたものが、ついに崩れる。
「ダイスケ、頑張ったね。おかえり、ダイスケ⋯⋯」
声にならない嗚咽が混じるその言葉は、まるでずっと胸の奥で温めていた祈りのようだった。




