#32 生ける屍と無力な異物
「⋯⋯ここは⋯⋯」
見慣れた、コンクリートの天井。
顔が腫れ、視野が少し狭い。
右を向くと、あの青年が椅子に座り、本を読んでいた。
彼は大輔の視線に気づき、ページの角を折り、本をテーブルに置いた。
「氷哭にやられたそうで。あれは本当に厄介です」
大輔は何も発せず、ただ涙を流す。
「貴方が全て悪いかと言われたら、それを否定することはできません。でも、罪の意識が強いんですね」
彼は、ただ静かに、
「これから、どうしますか?」
その声音に、同情も憐れみもない。
あるのはただ、“選択”だけを問う、真っ直ぐな眼差しだった。
(⋯⋯もう、やめたい)
大輔は口を開こうとして──震える指で、顔を覆った。
⋯⋯言えなかった。
ただ、涙が頬を伝う。
あの極寒の白の中で、心が音を立てて崩れていく感覚をまだ引きずっていたが──まだ“勇者大輔”が、微かに、ここにいた。
青年の声に感情は一切無い。
しかし──
「貴方は、何も“していない”人たちより、ずっと前に進もうとしています。だからこそ、氷哭は牙を剥くのです」
その言葉は、赦しではなかった。
でも、大輔の心に、一滴の“ぬくもり”のように染み込んでいった。
「心の傷に効く物理的な薬は、この国にはありません。そして、それを治せるかは、貴方の治癒力次第です。ただ、そのみすぼらしい顔は治しておきますか」
青年は大輔の顔に右手を翳す。
すると、薄い緑色の光が現れ、傷がみるみる治っていく。
(あったかい⋯⋯回復魔法みたいだ⋯⋯)
(ん?傷の治りが早い⋯⋯)
青年は不思議に思ったが、治療を終え、手を下ろした。
「僕ができるのはここまでです。リーリャ君を呼びますか?」
大輔は、少し首を振るだけだった。
「⋯⋯そうですか。まぁ、それでも彼女はここに来るでしょうね。ですので、気を悪くしないでください」
青年は本を手に取り、立ち上がる。
「では、また」
そう言って彼は部屋を出た。
青年が廊下を歩いていると、向こう側からリーリャが心配そうにこちらを見ていた。
が、気にせず通り過ぎようとしたとき──
「⋯⋯レイ先生、ダイスケは⋯⋯大丈夫ですか?」
リーリャのその言葉に、レイは足を止める。
しかし、彼は前を見たまま、
「正直なところ、大丈夫ではありません。リーリャ君、氷哭は知っていますね?」
「⋯⋯はい。過去の後悔や懺悔を具現化し、精神の自壊を誘発する、当地特有の幻覚現象です」
「⋯⋯その通り。彼は、廃人になってもおかしくない状況です」
リーリャは一瞬だけ視線を伏せ、それから無言で歩き出すと、
「そして、彼は君に会いたくないと言っていましたが──」
レイの言葉に、彼女は思わず足を止める。
だが、
「⋯⋯それでも、行きますね?」
「⋯⋯はい」
その声には、迷いも戸惑いもなかった。
リーリャの足音が、まっすぐに大輔の部屋へと伸びていく。
(医学的根拠が無いのは非常に癪ですが、彼女なら彼を蘇らせることができるかもしれませんね)
レイは密かに、その“奇跡”を信じていた。
一方──
自室の机で書類などに目を通し、判を押している、国王シデロス。
すると、部屋の扉がノックされ、
「シュルト・グリッツァーです。僭越ながら、陛下にお話がありまして参りました」
(シュルト?まだ第一の試練の時間のはずだが⋯⋯)
「入れ」
「失礼致します」
部屋に入ったシュルトは、片膝をつき、頭を下げた。
「直ってよい⋯⋯何があった?」
「本日敢行としておりました“ドキナミス”ですが、私の判断により中止とさせていただきました」
「⋯⋯そうか」
シデロスは目を伏せる。
「本来、私の職務において越権にあたること、重々承知しております。申し訳ありません」
「気にするな。私はお前を信頼している⋯⋯理由があるのだろう?」
「はい。結論から申し上げますと、彼は氷哭に遭遇しました」
「あれか⋯⋯」
「しかも、複数名からの干渉があったようです」
「つまり、あの男は⋯⋯それだけの“後悔”や“懺悔”を背負ってきたと?」
「はい。もはや、試練の続行は命に関わると判断致しました。現在は王立病院で安静にしています」
シデロスは少し黙ったあと、
「⋯⋯回復の見込みはあるのか?」
「分かりません⋯⋯何せ、治療法が確立されておりませんので、本人次第ということに⋯⋯」
シデロスは小さくため息をつく。
「分かった⋯⋯シュルト、お前も体調には気をつけろよ」
「はい、恐縮です。失礼致します」
シュルトが部屋を出ようと扉に手をかけたとき、
「⋯⋯シュルト。私はまだ諦めていないが⋯⋯お前はどうだ?」
シュルトはシデロスに背を向けたまま、ただ一言。
「⋯⋯陛下がそう仰るなら、従うまでです」
扉を開けたシュルトは、シデロスに一礼して、部屋を出た。
(私の背を、誰よりも静かに支えているのは──いつもお前だ、シュルト)
* * *
時は少し遡り──大輔がヴァルドノルド王国へ向け歩き出した頃。
セオカトにある宿の一室。
契りを交わしたファナとサイラは、互いの絆を深めるため、サイラの豪快な提案──
「裸の付き合いこそ距離を縮める」
それを行うべく、ふたりは共に、部屋に備え付けられた露天風呂へと向かった。
「はぁ〜!この温泉最高だなぁ!使わねぇときはアタイ専用にしてくれねぇかなぁ!」
サイラは先に、風呂で足を伸ばしていた。
そよ風に乗ってやって来る、草の匂いが鼻をくすぐる。
「⋯⋯サイラ?やっぱり、一緒に入らないとダメ⋯⋯ですか?」
ファナが身体にタオルを巻いて、恥ずかしそうに佇んでいる。
「な〜に恥ずかしがってんだよ?女同士なんだから、素っ裸で入ってこいよ!」
(サイラ、いきなり距離が近すぎます⋯⋯)
(普段のアタイで接してるけど、いきなり殺されたりしねぇよな⋯⋯?)
お互いの疑念は、サイラの“情報漏洩”で払拭されるとは、ふたりは思いもよらなかった。
「ダイスケだって素っ裸で入ってきたんだぞ?入っちまえば慣れるって!」
その瞬間、ファナの目は丸くなる。
「えっ⋯⋯?大輔と?お風呂?」
(あっ⋯⋯やべ⋯⋯)
「いや〜、じゃなくて、大輔が風呂入ってるときに、間違ってアタイが入りそうになっちまってなー、ハハハ⋯⋯」
「そうですか⋯⋯」
ファナが顔を伏せ、小刻みに身体を震わせている。
(あれ⋯⋯ファナ怒ったか?)
サイラはしれっと、ファナから対角の角に寄り、肩をすくめる。
「じゃあ⋯⋯サイラとお風呂に入ったら、大輔とお風呂に入ったのと一緒ですね!!」
ファナは真剣な顔で頬を赤くし、目をキラキラさせているが、サイラは突拍子もないその言葉に、ぽかんとした。
「⋯⋯へ?」
(えっと⋯⋯どういう原理だ?アタイの頭じゃ理解できねぇ⋯⋯)
「⋯⋯それっ!」
ファナは身体に巻いたタオルを投げ捨て、湯船に飛び込んだ。
立ち上がった水柱が、サイラに直撃する。
「おぉ!ファナ!いい飛び込みだ!」
「ふふっ、そうですか?」
ふたりは顔を拭いながら、笑い合った。
するとファナが、少し困ったように笑いながら、
「ここに⋯⋯大輔もいたら、もっと楽しいんでしょうね」
「あぁ⋯⋯そうだな」
サイラは風呂の縁に頭を預けながら、空を見る。
「サイラ、大輔は今、何してるんでしょうか?⋯⋯ちゃんと、生きてますよね?」
「⋯⋯アタイにも分からねぇけど、あいつのことだから、きっとうまくやってるさ」
「⋯⋯そう、ですよね」
(セオカトでは箝口令で口封じしてるけど、いずれ知ることになるだろうな⋯⋯)
しばしの沈黙が流れる。
湯けむりが、空気に溶けていく。
ファナは、湯の表面を見つめたまま言葉を探し──ふいに顔を上げた。
「あっ、サイラ。私、行かなきゃいけないところがあるんです。ついてきてもらえますか?」
「ん?どこだ?」
「ヴァーゴさんのお店です」
サイラは身体を起こしながら、ファナの顔を見る。
「⋯⋯えっ?ヴァーゴのおっさんの店?ファナ、そんなに金持ってるのか?」
「私がペンダントを作ってほしいってお願いしたら、お代はいらないって言ってました」
「はぁぁぁ?ファナ、あのおっさんはな、世界に名だたる装飾職人なんだぞ?一番安いのでも、その辺の行商人の給料の半年分くらいするんだぞ?」
ファナは首を傾げ、まばたきする。
「はぁ⋯⋯そうなんですか?」
「いまいちピンと来てなさそうだな⋯⋯まぁ、とにかく高いんだ。でも、ファナは目の付け所がいいな!」
「そうですか?たまたまお店を見かけて、お願いしただけなので⋯⋯」
(ダメだ。ファナは物の価値が分かってねぇ!この話は終わらせよう)
「じゃあファナ、背中流し合って、ヴァーゴのおっさんのところに行くか!」
「はい!」
ふたりは湯船から上がり、サイラはファナに背中を向ける。
「ファナ!しっかり力入れろよ!」
「⋯⋯はいっ!」
(大きい背中⋯⋯何か、人の顔に見えます⋯⋯)
ファナは力いっぱい擦るが、
「ファナ?撫でてるのか?」
「いえっ!全力、です!」
「ハハハ!そうか!じゃあ、交代だな!」
次は、ファナがサイラに背中を向けると、
「ファナ、子供みたいに小せぇ背中だな〜」
サイラは少し茶化すように言ったが、
(こんな背中に、セオカトの未来を背負わせるのはな⋯⋯いや、それ抜きにしても、方法はひとつしかねぇよな⋯⋯)
サイラはそんなことを考えながらファナの背中を擦ると、
「ひいっ!!」
とファナは悲鳴をあげた。
「サイラ⋯⋯皮膚が剥がれちゃいます⋯⋯」
「ああっ⋯⋯ごめん、ファナ。そんなに力入れてねぇんだけどなぁ〜」
するとサイラは、撫でるようにファナの背中を擦る。
「これでもちょっと強いですけど⋯⋯さっきよりマシです⋯⋯」
(⋯⋯待てよ?ファナって何が出来るんだ?そもそも戦えるのか?)
サイラの疑問は、すぐに言葉になった。
「なぁ、ファナは⋯⋯戦えるのか?」
「えっ?えっと⋯⋯」
ファナはふと、ギャレットの言葉を思い出す。
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「魔法は元々この世界には無かったんや」
「攻撃魔法、使ったらアカンで?」
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「⋯⋯何も、できないです」
その言葉を口にした瞬間、ファナの胸の奥がずきりと痛んだ。
サイラに嘘をついた罪悪感と、自分はこの世界にとって異物なのだという事実を、改めて突きつけられたようで。
「⋯⋯そうか。変な質問してごめんな。じゃあ、そろそろ上がるか!」
「⋯⋯はい」
ふたりは風呂から上がり、身体を拭き、服を着る。
その間、会話は無かった。
(ファナの後ろに見えるフレイヤ様は虚像なのか?今、その姿が見えるのは神官様たちとアタイだけ⋯⋯それに何か意味があるのか?)
(私は、この世界では誰の力にもなれない⋯⋯ねぇ、大輔なら⋯⋯何て言ってくれますか?)
その問いかけに、答えは無かった。




