第1章ー⑥ 再会
来てしまった。『キルクス大学病院前』のバス停に降り立つと同時に謎の罪悪感が胸を襲う。よくよく考えてみれば、あの子がこの病院に入院しているという確証もなければ名前も知らず、アポイントも取っていない。一度買い物袋を家に置きに行った間に冷静になる瞬間はなかったのかと自身を責める。手の中では花屋で買ってしまったオレンジのガーベラが活き活きと花弁を広げ、それがより自身の浅慮を責め立てているようだった。
「俺は一体、何やってんだ。」
思わず口に出してしまったが、先ほどのスーパーと打って変わって聞こえそうな距離に人はいない。花を持っているため自然と知人のお見舞いに来たと認識されているのか、数少ない通行人にも特に足を止める様子もなく素通りしていく。実際には名前も知らない少女のお見舞いに行こうと衝動的に思い立ち、病院の目の前まで来て冷静になった馬鹿でしかないのだが。
「……帰ろう。」
買ってしまった花には悪いが、顔見知りでもない三十路の男が突然入院中の少女のお見舞いに来たと言っても病院が受け入れてくれるはずがない。迷惑をかけるくらいなら自分の中のやらかしとして処理できる範囲に抑えた方がまだマシだ。俺は病院の門の前でUターンし、再びバス停に向かう。さっき乗ってきたバスとは反対方向に行くバスに乗るため横断程の信号待ちをしていたその時だった。行きに使ったバスの次の便がバス停に到着し、そのドアがゆっくりと開く。降りてくる客は疎らだったが、その中で一人の客と目が合った。
「え……なんでアンタがこんなところに⁉」
白のブラウスに紺のジャケットを纏ったその客は、単なる通りすがりとして処理するにはあまりにもよく知りすぎていた。ビジネススタイルの品のある服に身を包んだ彼女―マリはヒールを鳴らしながら一直線に距離を詰めてくる。逃げようにもまだ青にならない信号のせいで足止めされ、気づけば目の前にはやや切れ長の黒いアーモンドアイが迫っていた。
「アンタやっぱりテオよね⁉ バスから見てまさかとは思ってたけど、アンタいつこっちに帰って来たの?」
「あー、いや、つい二週間前くらいに。」
「帰ってたなら連絡寄越しなさいよ! ビックリしたじゃない!」
挨拶代わりに信号待ちをしていた背中をバシバシと力任せに叩いてくるマリ。昔よりも鈍い痛みが体に響いてくるのはマリの力が強くなったからか、俺が年を取ったからか。しかし遠慮こそないものの、マリの薄い唇の端は口角に合わせて僅かに上がっていた。
「アンタの職場、ちゃんと休暇が取れたのね。私の電話が効いたのかしら。いつまでいるの? 来週? 再来週?」
耳の前に掛かった髪を指でかき上げながらマリは尋ねてくる。休暇が取れたというのはある意味正しいものの、マリが望んでいた形ではないだろう。正直に停職のことを話せばマリのことだ。きっと自分の劇場や実家の楽器屋を働き口として紹介してくれる。でもそれに頼りたくない自分がいる。ただでさえ両親の死後、俺の面倒を成人まで見てくれたのだ。三十にもなって頼るなんて、親類でもない俺にはできない。
「あー、そうだな。来週には基地に戻る予定だ。クリスマスまではいられないが、まあこれくらいで手打ちに」
「アンタ、クビになったんでしょ。」
図星を突かれ、ガーベラの花束がカサリと音を立てるほど体が跳ねる。一方マリはといえば自身の頬に片手を添え、得意げな表情を浮かべていた。
「私に嘘ついて騙そうったって百年早いわ。三歳の頃からの付き合いよ? アンタが電話した程度で休暇を取るような人間じゃないことくらい、わかってるんだから。」
「俺のことなら何でもお見通し、ってか?」
「ええ。それで、何があったの? 真面目なアンタがクビなんて、よっぽどのことがあったんでしょうね。ちょうど時間が空いて暇してるのよ。コーヒー一杯、奢ってちょうだい。」
マリは俺の腕を引き、近くにあったカフェを指差す。
「無職の人間に奢らせるなんて、劇場の経営がよっぽど苦しいらしいな。」
「あら失礼ね。経営は順調よ。今まで全然帰って来なかったこと、コーヒー一杯でチャラにしてあげるって言ってるの。アンタに会えて機嫌が良いから。」
そう言って目を細めるマリは、年々彼女の母親に似てきているのがよくわかった。昔から何一つ変わらない自信に溢れた眼差しに、体の力が自然と抜けていく。
「わかったよ。ケーキもつけてやる。」
「今ダイエット中なんだけど、アンタがそこまで言うなら受け取ってあげるわ。ほら、行くわよ。」