第1章ー⑤ その噂に花束を
ノイズ混じりのアナウンスではない、目覚まし時計の音で意識が覚醒する。重い瞼を擦って目を覚ませば、時刻はすでに朝の十時を回っていた。ここまで遅い時間に起きたのはいつぶりだろう。気だるい体に鞭を打ち、どうにかベッドから起き上がる。半年は空けていたアパートの一室は軽く掃除したもののどこか埃っぽく、目覚めの一息を吸うためだけに窓を開け放った。
リングの居住空間と宇宙空間を区切る外壁に表示された、晴れ渡った青空と白い雲。誰もが見慣れたタイル状の空を見上げながら作り物の日光を浴びる朝。もう通勤・通学の時間も過ぎ去ってしまったせいか、アパートが接する通りには人っ子一人いない。せっかくリングに帰って来たというのに、この光景だけ見れば放棄された地球の住宅街のようだった。
「新しいメッセージが届いています。至急確認してください。」
静寂を切り裂くようにテーブルに打ち捨てていたスマホが通知を発する。部屋の照明をつけながらテーブルの方へ向かうと、明るい画面に通知が表示されていた。昨日応募した求人から書類選考の結果が届いたらしい。
『セオドア・エバンズ様。選考の結果、残念ながら採用は見送らせていただくことになりました。エバンズ様の今後のご活躍をお祈りしております。』
システマティックな不採用通知に、さっき吸い込んだばかりの新鮮な外の空気が吐き出されていく。これでもう二十通目だ。見える範囲のメッセージの受信箱はもう不採用通知で埋め尽くされている。そんなことないと理解していても、そのうち全てが不採用通知に変わってしまうのではないかと錯覚してしまう。
わかっていたことではあるが、それでもまだ採用されるのではないかと希望を持っていた自分に驚いた。ありふれた営業の求人だったが、不採用の理由はもう察しがついている。小学校卒業後飛び級で音楽院に入学し、その音楽院を十五歳で退学したとなれば採用したがらないのも当然だ。今のご時世、中学高校を真っ当に卒業した人間なんてごまんといる。大卒だって珍しくも何ともない。その中で中学にすら通わず音楽ばかりやっていた人間を好き好んで雇う場所なんて、一般企業ならまずないだろう。
「……買い物にでも行くか。」
朝食を用意しようにも、パンすらなかったことに今さら気づく。地球から帰って来た日に相当買い込んだつもりだったが、いつの間にか全て消費してしまっていたらしい。家の鍵とスマホをシワだらけのズボンのポケットに突っ込み家を出る。三十メートルほど歩いて袋を忘れたことに気づいたが、まあ店でもらえるか。
買い出しに来ている人が多いのか、近所のスーパーマーケットの出入り口ではせわしなく人が行き交っていた。大体は老人や主婦らしき女性で占められている中に実質無職の独身男が切り込んでいくのは勇気がいるが、別の店に行く気力もなく前へと踏み出す。周囲の客も買い物に夢中でこっちには見向きもしない。それぞれが買い物かごに商品を入れ、忙しそうに早歩きしている。野菜が販売されている冷蔵庫の前を通ると、地球の冬の空気とはまた違う人工的な冷気が肌を撫でた。
『プラント生産ニンジン三本 五〇〇アウル』
ふと目を落とせば、透明なビニール袋に包まれたニンジンの束の前に貼られた値札が目に入る。リング内の通貨がアウルに統一されて長いというのに未だにドル換算しようとしてしまうのは、俺がリングでまともに生活していたのが移住直後の数年だけだからだろう。当時は従来の農法で育てられた野菜も見かけたが、今ではノートリスターを利用したプラント生産以外の野菜なんて絶滅危惧種に等しい。家畜や魚だってノートリスターから作られた餌で育てられている。数多の人類を殺した星が今、自然の恵みの代理となって人類を生かしている。
伸ばしかけた手を引っ込め、目当てのパン売り場に向かう。スライスされた食パンが大量に入ったお徳用パック、ブルーベリーのジャム、ベーコンとチーズ。一通りの商品をかごに集めてレジを探せば、どのレジも長い列を作っていた。並んでいる客が持っているかごにはどれも縁まで沢山の商品が詰め込まれており、どの列に並んでも支払いには時間が掛かるだろう。諦めて一番近くの列の最後尾に自身を連ねる。自分の一つ前には五十代ほどの女性が重そうなかごを持って並んでおり、そのまた一つ前の女性客と知り合いなのか世間話に華を咲かせていた。
「最近年のせいか体の調子があんまり良くなくて、ホントに嫌になっちゃうわよね。」
「そうなのよ。私もこの前なんか首が痛くて病院に行ったんだけど、そしたらいつもの先生に大きな病院で検査してもらうよう言われちゃって。」
「そうだったの? 大丈夫だった?」
長い会計の待ち時間を潰すにはもってこいの近況報告。普段なら聞き流して一切頭に入ってこないレベルの内容だが、あまりに列が進まないせいか耳が勝手に暇つぶしをし始める。
「ええ。大きな病気は何もなくて一安心。でもね、検査に行った病院でちょっと気になる噂聞いちゃって。」
「え、何? この辺の大きい病院って言ったらキルクス大学病院よね? 何かあったの?」
「何かあったというか、少し変わった患者さんが入院してきたみたいなの。何でも、地球で保護された女の子なんですって。」
耳が拾い上げた一言に、反射的に顔が上がる。女性たちは列の動きに合わせて前に進みつつも雑談を止める様子は無い。『地球』という単語が出た瞬間、レジに近い方の女性は片手で口元を覆った。
「地球で⁉ もしかして、移住が嫌で残った人?」
「多分そうなんじゃない? でも、記憶喪失で何も覚えてないそうよ。しかも家族や親戚も見つからないんですって。」
「まあ……ただでさえ大変な生活だったでしょうに、可哀想ね。」
「そうね。孤児の保護体制は整ってるから大丈夫だとは思うけど、記憶喪失なんてね。」
二人の女性はそこにいない記憶喪失の女の子に対して憐れみの眼差しを向け、眉を八の字にする。地球で保護された女の子。まさか。それだけの情報で断定するには早計だとも思ったが、地球で人が保護されてリングの病院に入院することなんてほとんどない。看護師が言っていた通り、容態が安定したのを見計らって移動してきたのだろう。それにしても、記憶喪失というのは初耳だ。星が衝突してきた時に頭でも打ってしまったのだろうか。
星の衝突によって多くの死者が出たことに伴い、孤児も大量発生した。移住計画の直後は病院の数よりも孤児院の数の方が多かったとも聞く。俺を含む当時の孤児たちの大半が大人になったことで孤児院の数も落ち着いたが、今も当時の名残で孤児に対する支援は手厚い。放っておいてもあの子は退院後しかるべき孤児院に送られるだろう。でも……
「ずっと山で暮らしてきたってことでしょ? 今から全く違う暮らしを始めるのは大変なんじゃないかしら。」
「学校だってきっと通ってないわよね。おまけに記憶喪失なんて、里親になってくれる人がいるといいんだけど……」
里親になる大人だって人間だ。訳ありの孤児を無条件に嬉々として引き取ってくれるわけじゃない。期待外れだったり育てにくかったりすれば、あっさり手放されて孤児院に逆戻りなんてよくある話だ。
不意に、あの日倒れていた彼女の姿を思い出す。まず目に入ったのはひどく傷ついた細い体と、金髪にしても色素の薄い波打った髪。車内に寝かせてわかったのは、新人以上に幼い顔立ちをしていること。あの瞼が開くところを見ることはついぞなかったが、きっと純朴で真っ直ぐな瞳が眠っているのだろう。これから荒波のような社会に身一つで放り出されるとも知らずに。そんなことになったのは間違いなく、俺があの場で彼女を助ける判断を取ったせいだ。一人の人間として守られるべきだと判断したせいだ。でも今からあの日、あの時、あの場所に戻ったところで、俺は何度でも同じことを繰り返してしまうだろう。昔の自分になけなしの救いを与えるために。
「次の方、どうぞ。」
いつの間にか列は進み、自分の番が回ってきていた。気づけばあの女性たちも会計を終えたのかとうに目の前からいなくなっている。俺は大量の商品が入ったかごをカウンターに置き、商品の確認と合計金額が算出されるのを待った。その間に視線を店の外に向ければ、道路を挟んだ先に花屋が見える。季節という概念のないリングの中で、花屋というのはいくらか特殊な空間だ。地球にいた頃に見ていた四季の移ろいを、店先のバケツに入った花が思い出させてくれる。もっとも、その花は人工的に環境が整えられたプラントで育ったのだが。
「合計三八〇五アウルになります。」
伝えられた金額を確認し、スマホをかざして会計を済ませる。かごを受け取って袋詰めの台の方へと移動していく俺に、店員は丁寧に頭を下げていた。それに軽く会釈して答え、もらったレジ袋に商品を詰める。パンを潰さないよう一番上に入れて仕上げをし、店を後にした。
「キルクス大学病院、か。」
こんなことしたって何の贖罪にも励ましにもならない。そう理解してはいるのに、足は自然と横断歩道を渡って花屋の方へと向かっていく。
「すみません。お見舞い用の花束、一ついただけますか。」