第1章ー⓪ 母の左手
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音には、感情を励起させる力がある―音楽家だった両親がよく言っていた。でもその言葉の意味を知ったのは、全てを失った後だった。安全だと言われていた避難所に落ちてきた石の塊。星と呼ばれるそれは避難所を一瞬で破壊し、多くの人間を瓦礫の下敷きにした。そして瓦礫に押し潰された犠牲者の中には、避難所でも他人のためにピアノを弾き続けていた父と母もいた。
砕けたコンクリートの破片で指が切れ、爪が剥げる。降り注ぐ冷たい雨が傷口に染みようが、『もうやめなさい』と大人に止められようが、それでも瓦礫をどけて来る日も来る日も両親を探し続けた。二人がまだ生きているなんて信じられるほど子供でもなかった。かと言って、遺体を見たいわけでもなかった。ただひたすらに、二人の顔が見たかった。ただ、それだけだったのだ。
結局必死の捜索で見つかったのは、溶けかけの指輪を着けた母の左手だった。つい一週間前まで鍵盤の上を走っていた細い指は炭のように焼け焦げ、硝子細工のようだった面影なんて少しも残していなかった。
物心ついた頃、母の膝の上で母が弾くピアノを聴くのが好きだった。母の体温、部屋に射し込む日光、本棚の楽譜の香り、柔らかい旋律。その全てが絶対の幸福の象徴だった。自分の原風景として心に刻まれた光景が、母の左手と共に音もなく崩れ落ちていく。胸に抱えた母の手が表面からボロボロと塵になっていくのを感じながら、俺はそれを受け入れるしかなかった。
俺の世界がシンと静まり返っても、社会は悲しむ俺を待ってはくれない。息つく間もなく溢れる騒々しい音に囲まれるうちに、失ったものを数えることもなくなった。星の衝突災害の頻発、混乱の一途をたどる社会、満を持して始動した宇宙空間への移住計画。両親の死後も目まぐるしく世界は変化し続けた。
そう。思い出の中に、ピアノの音を置き去りにしたまま。