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ただ、息をするということ

作者: P4rn0s

夜のコンビニの光が、アスファルトにうっすら伸びている。

今日もまた、何かを終えたという実感もなく、帰り道にただ足を向ける。

イヤホンから流れる音楽は、もう何十回も聴いた曲。

歌詞はほとんど覚えてしまっていて、聞き流すだけのリズム。

家に着いたら、お湯を沸かし、適当なごはんを食べて、スマホを眺めて、寝る。

明日は今日の繰り返し。

それがもう、何年も続いていた。

別に何かが不幸だったわけじゃない。

けれど、何かが幸せだと感じることもなかった。

気づけば、時間はただ“消費”されていくものになっていた。


朝は「起きなきゃ」で始まり、夜は「寝なきゃ」で終わる。

“やらなきゃ”に挟まれて、息をひそめるように生きていた。

道端の花に目を向けることもなく、空を見上げることも少なくなった。

季節が移ろっていくことすら、他人事のように思えた。

ただひたすら、目の前に積まれた“タスク”をこなしていく。

それだけで日々は流れていった。


けれどある日、通勤途中の信号待ちで、不意に視界の端に小さな光を見つけた。

街路樹の下、誰かが落としたのか、包装紙に包まれたままのキャンディが、ぽつんと落ちていた。

陽の光がそれを照らしていて、まるでそこだけ時間が止まったように見えた。


それだけのことだった。

でもなぜか、胸の奥に何かがひっかかった。

この世界に、こんな風に優しい光があることを、しばらく忘れていたような気がした。


思い返してみれば、子どものころはよく空を見ていた。

白い雲を追いかけたり、アリの列をじっと観察したり、土の匂いや雨の音に敏感だった。

夕焼けの色を好きな順に並べてみたり、木漏れ日の揺れを目でなぞったり。

あの頃、世界はとても広くて、ゆっくりしていて、なにより鮮やかだった。

でも、いつの間にかそんな色は、自分の中から薄れていった。

急ぎ足で歩くことが当たり前になり、

すべての行動が“効率”や“成果”で測られるようになり、

気づいたら「今日、自分は何かを感じただろうか」と、ふと思う瞬間すらなくなっていた。

そんな日々のなかで、あのキャンディは、まるで時空の裂け目のようにそこにあった。

忙しさに流されていた自分に、ひとつだけポンと問いを置いていったような、静かな揺さぶりだった。


それから少しだけ、変わった。

空を見る時間を作るようにした。

何かを口に入れたとき、味をちゃんと意識してみるようになった。

帰り道には少し遠回りをして、川沿いを歩いてみた。

休日にはコンビニではなく、スーパーで野菜を選ぶようになった。

誰かと比べる必要のない、小さな選択。

ほんの少し“生きてる”という実感に触れる時間。

そして気づいたのだ。

今、自分はここで呼吸をしている。

今日という日をちゃんと過ごしている。

それが、どれほどすごいことか。


この世には、昨日が永遠に続くと思っていたのに、今日を迎えられなかった人もいる。

明日が来ることを願いながら、それを知らずに終わってしまう人もいる。

そう思ったとき、「今日、生きている」ということ自体が、奇跡のように感じられた。

何かを成し遂げていなくても、誰かに必要とされていなくても、

息をしていること、目を開いていること、歩けること、そのすべてが十分に価値あることだった。


もちろん今も、忙しい。

やらなければならないことは尽きないし、思い通りにならない日も多い。

けれど、自分が生きているという事実に、ちゃんと目を向ける時間を持てるようになった。


たとえば、温かいスープをすする時間。

たとえば、夜風が頬をなでていく感触。

たとえば、好きな曲のサビに差しかかるあの瞬間。


そのすべてが、「生きてる」と実感させてくれる。

一瞬でも、「今、自分はここにいる」と思えたなら、それだけでいい。


今日もまた、忙しない日々が始まる。

けれどその合間に、きっと何かがある。

足元の影、朝の光、誰かの声、自分の声、

そういう小さなものたちが、静かに教えてくれる。


「今、生きてるんだ」って。


そのことに気づけただけで、

この世界は少しだけ、やわらかく見えた。

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