財布(さいふ)を落としてコンバンワ!
「これで、警察への遺失届と、駅への問い合わせは完了と。携帯はポケットに入れてて良かったわぁ。おかげでオンラインで、財布を落としたっていう相談の手続きは、できたんだから」
「当たり前みたいに、私の充電コードを使ってるわね……」
彼女が批判してくるけど、何しろ駅のホームで、ポーチごと財布を落としちゃったのだから仕方ない。携帯の充電コードや、自宅であるマンションの鍵、他にも銀行カードなどをまとめて紛失である。幸い服のポケットに、携帯と定期入れはあったので電車での移動は可能だった。残念ながら、携帯がお財布になるようなサービスは利用してないので、今の私は一文無しだ。
大学で知り合った元・同級生である彼女のマンションが、私が住んでいた所から近くて助かった。思えば家が近所という縁で、互いに独り暮らしの私たちは仲良くなったのだ。その縁も、彼女が大学を自主退学したことで断ち切られてしまったが。
「どうでもいいけどさ。鉄道会社への電話って、遺失物の問い合わせ窓口には全っ然、繋がらないよね。いっつも電話中で。まあ携帯で、チャット形式で落とし物の相談はできたけど。ところで落とし物チャット相談に出てきた、犬のお巡りさんみたいなキャラクター、可愛かったよねー、そう思わない?」
「……うん、可愛かった」
私の一方的な喋りに、彼女が反応してくれた。いい傾向だ。
「駅のキャラクターだから、あれはお巡りさんじゃなくて駅員だと思うけどね。でも私も貴女も猫派なのは変わらないよね。ペットが飼えるマンションって羨ましいわー」
にゃー、と猫のミャーコが私に寄ってくる。以前から、この猫は私に懐いていて、何なら飼い主の彼女よりも私の方がミャーコから好かれているくらいだ。「……裏切者」と、彼女が猫に向かって言うのが可笑しくて、私は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「……そもそも、何でポーチを落として気づかなかったのよ」
私が笑いを堪えていると、そう彼女が聞いてくる。困ったなぁ、と私は思った。正直に答えると、彼女に取って面白い話には、ならなそうで。かと言って、嘘で誤魔化すのも良くない気がした。
「就活でね、内定を貰ったのよ。それで浮かれちゃって、前の日に遅くまで友達と飲んでて。それで今日、眠くなって、駅のホームでウトウトしてたの。座りながら寝てたから、たぶんベンチの下に落としたんだと思うけど」
寝てる間に電車が来て、慌てて飛び乗ったのが不味かったなぁと今は思う。ポーチが無いのに気づいたのは駅を出た後だった。このままでは所持金がゼロの状態で、路上で夜を過ごす羽目になる。そう焦って、彼女の家まで歩いてきた次第だ。
「ああ、そう。就職、決まったんだ。流石ね、おめでとう」
「大学四年生の、六月の時期だもの。私以外にも、内定を貰った子は居るわよぉ」
自慢と思われたくなかった。何故、彼女が大学を辞めて、私から離れて行ったのか。その理由を私は知らない。こんな機会でも無ければ、きっと私と彼女の縁は断ち切られたままだったのだろう。
「マンションの鍵も失くしたのよね? 大家さんに鍵を開けてもらったら?」
「駄目。あの人、マンションからは離れた県に居るから。緊急の役には立たないわ」
大家さんが役に立たないので、私は此処に来る前、実家の母親に電話をした。『今夜は友達の家に泊まるから、お金とマンションの合鍵をくれない?』と。私の実家は、大家さんが居る県よりは距離的に近いのだ。問題は、どうやってお金を受け取るかだった。何しろ銀行のカードも財布と一緒に失くしているのだから。
「そしたらさ。私の母さんが、こっちに来てくれることになって。『だって貴女、全然、帰省しないんだもの。お金も合鍵も、野菜も持って、私の方から行くわ』ってさ。ありがたいけど」
ただ母親も、ゴルフの誘いとかで忙しいそうで。今夜と明日は都合が付かなくて、来てくれるのは明後日のお昼頃になるそうだ。『それまでは、お友達の家で過ごしてて。私が後から、お礼に伺うから』と言ってて、私の母は頼りになるのか呑気なのか良く分からない。
「……いいわよ。貴女のお母さんが来るまで、ここに泊まっても。だからと言って、縒りは戻さないからね」
そう言いながら、手早くパスタを作って、彼女が私に振舞ってくれる。テーブルで彼女と食事をしていると、私たちが付き合っていた当時の記憶が甦った。うーむ、これ多分、押したら何とかなるな。『縒りは戻さないからね』っていう彼女の言い方が、もうツンデレ女子の前振りとしか思えない。
「久しぶりに来て、あらためて見るけど、私の部屋より広いよね。2LDKでしょ、家賃も高いんじゃない?」
「……親が私に甘くて、私が大学に行ってた時は全部、払ってくれてたのよ。今は私が自主退学したから、アルバイトして家賃を折半してる……親からは、『家賃の世話をするのは四年間だけ』って言われてるから、来年には此処を出ていくと思うわ」
「聞いていい? どうして大学を辞めたの?」
「付いていけなくなったのかな、何もかもに。変な感染症で大学の授業はオンラインだし、サークル活動も、できなかったし。期待していた大学生活と違って友達も、できなくて。将来の夢も分からなくて、他の皆が当たり前に熟していることを私は、できなかった……こんな人間が、大学を出て就職なんか無理よ」
「だから、私からも離れた? 私に迷惑を掛けたくなかったから?」
「そうよ。貴女は私と違って、きちんと就職できる。会社に行けば、経済力がある男性とだって出会える。結婚だって、できる。私が貴女に、できることなんか無いのよ。どうせ世の中は変わらない。同性婚なんか、できない。私は貴女の足を引っ張りたくなかった……」
テーブルで彼女が下を向く。私はパスタを食べ終わって席を立つと、寝室へと向かう。この部屋は猫が移動するので、あちこちのドアが開いたままだ。私は寝室に入って、そのベッドの上で寝ている、猫のミャーコの傍で跪いた。
「ミャーコちゃーん、今の話、聞いてたー? 私、聞き流してたから良く分からなかったー」
「いや、聞きなさいよ!」
本気で怒ったのか、彼女が席から立ち上がって寝室に入ってくる。うーん、ちょろいなぁ彼女は。別れた恋人同士が寝室に入ってきたら、一体どうなるのかを教えてあげなくては。
「ねぇ。私、就職したら此処に住むわ。一緒に暮らそうよ」
猫のミャーコを撫でながら、そう彼女に言う。開いた口が塞がらない、といった彼女の様子が面白い。彼女が絶句しているので、私は話を続けた。
「そもそも一人で、2LDKの部屋に住むのが、おかしいのよ。そりゃ寂しくなって、考えも暗くなるわ。私と家賃を折半して二人で住めば、広い部屋を持て余さなくて済むわよ?」
「ちょっと、何を勝手に!」
「来年からは、貴女の親も家賃を出してくれないんでしょう? こんなにミャーコが部屋でリラックスしてるのに引き払うの? それはミャーコも嫌よねぇ?」
私の言葉に、にゃー、とミャーコが相槌を打った。賢い子だなぁ。
「止めてよ……私、只のフリーターよ? 貴女の足を引っ張りたくないの」
「何、言ってるの。さっきから黙って聞いてたら、私を完璧超人みたいに。私、駅のホームでポーチごと財布を落とした女よ? こんな奴が会社で、お金持ちと結婚? 無理、無理。大体、男と結婚する気なんか無いもの。私が愛してるのは貴女よ、愛が無い結婚なんか上手く行きっこないわ」
財布を落としたのも痛いけど、他にも鍵や、カード類といった個人情報が含まれているものを落としたのが実に痛い。悪用されたら、どうしようかと思うと不安で一杯で、今夜は彼女と一緒じゃないと眠れそうにない私である。
「……本当? こんな私でいいの? 一緒に居てくれるの?」
「もちろんよ。私、財布を失くして泣いちゃいそうだから、早く慰めて」
割と本気で私が言う。パスタを食べたばかりで歯も磨いていないのにキスをして、こんな関係が私たちには、きっと合っている。猫のミャーコは私たちに気を遣うように部屋から出て行って、以前に彼女と付き合っていた頃から、ミャーコの行動は変わらないなぁと私は感慨深かった。