暗くとも、朝だ
言葉なんて、何の役にも立ちやしない。
十三年の人生で、ハジメはよくよく思い知っていた。
「おっさん、そいつのことどうすんの?」
「あ?」
酒焼けしたがらがら声の持ち主はおっさんである自覚があったようで、ハジメの呼びかけに答えて振り返った。
湿った土と淀んだ空気がお似合いのいかにも『モグラ』らしい薄汚れた男は、前歯の抜けた口を大きく開けて笑い声をあげる。
「売るに決まってるだろうが! ほら見ろよ、この綺麗な身体。高く売れるとお前も思うだろ?」
気絶しているのか無造作に髪の毛を掴んで持ち上げられた人物はうめき声のひとつも漏らさない。
掴まれた金色の髪は、この辺りの子どもにしては珍しく艶があり、横たわった地面の土埃で汚れていても悪目立ちするだけの美しさがあった。
「まあ、そうだよな。しかもどうやら若いみたいだし良い値がつきそうだ」
髪の毛の隙間から伺える相貌は、若い、というよりも幼かった。
きっとハジメと同じくらいか少し下くらいの年だろう。
だが、自分とそう変わらない年齢の少年を幼いと評する気にはならない。
「……最初に見つけたのは俺だ。やらねえぞ」
話に乗ってきたハジメを警戒したのか、ぎらぎらした飢えた生き物の目をして男は言った。
ひとりじめしたいのなら始めから自慢なんてしなければいいのに、短絡的な男だ。
だからこそ、こんなところにいるのだろうけれど。
「安心しな。横取りしようなんて思ってないよ」
「そうかよ。じゃあいつまでも見てねえでとっとと消えろ。お前みたいな生粋の地下のガキはたいした金にもならねえからな」
下卑た笑いを顔に浮かべながら男は少年を担ぎあげるためにハジメに背中を向けた。
男が視線を外したのを確認すると、ハジメはぶかぶかの黒いコートのポケットに入れていた右手をそろりと取り出す。
彼の、まだ成長しきっていない骨ばった手には大ぶりなコンバットナイフが握られていた。
「言われなくてもとっとと消えるさ!」
くるりとナイフを回すと、ハジメはナイフの柄で勢いよく男の右側頭部を殴りつけた。
「起きろ! 逃げるぞ!」
轢かれた蛙のような断末魔をあげて男が倒れ伏すと、ハジメは素早くその場から立ち去るために走り出した。
男の手から解放された少年は、ぱちりと両目を開くと飛び起きてがむしゃらにハジメを追いかけた。
どうやらとっくに目をさましていたらしい。
「あの、もう、いい、ん、じゃ、」
男の姿が豆粒ほども見えなくなった頃に、息を切らしながら金髪の少年は口を開いた。
声変わりはもう終わっているようで、顔立ちの幼さから予想されるよりは低い声をしている。
「まだだ」
速度を緩めることなくぴしゃりと言うと、後ろから少年の嘆きが聞こえた。だが、ハジメは一顧だにせず走り続ける。
ぼう、と浮かぶ灯りが次々過ぎ去っていく。
最低限しか吊るされていない灯りは頼りなく、先まで見通せるほどの満足な明るさはない。しかしこの薄暗さに慣れているハジメは危うげなく地面に転がっている老婆を飛び越える。
少年はハジメの動きに驚きの声をあげたが、みっともない音が聞こえなかったところをみるに躓いて転ぶようなことにはならなかったらしい。そこまで鈍くはないようだ。
洞窟区画を抜けると整備された通りに出る。
一気に明るさを増した視界に目が眩んだのか少年は足を止めた。どっと増えた人の流れによってハジメもまた勢いが削がれる。
「ここまで来ればどうとでもなるだろ。じゃあな、精々気をつけてお家に帰れよ」
目をしぱしぱ瞬いている少年を一瞥すると、ハジメは通行人にまぎれるようにして姿を消そうとした。
「待ってくれ!」
「なんだよ」
コートの端を掴まれたせいでハジメの右肩からただでさえぶかぶかのコートがずるりと滑り落ちた。
「どうして君は、僕のことを助けてくれ、」
助けてくれたんだ。と最後まで言い切る前に眉間に皺を寄せたハジメはコートをぐっと引っ張り少年の手を強引に離させる。
しかし彼の背後に人影を見つけると、舌打ちをし少年の腕を引っ掴み人波をかきわけて通りを進みだした。
「うわ、な、なに?」
「まだついてきてる」
「さっきの男の人か? 良かった。無事だったんだな」
自分を売ろうとしていた相手を気遣う能天気さに苛立ち、ハジメは彼を見捨てなかったことを少し後悔した。
二百と数十年前、深刻な地質汚染により人類は生活の拠点を移さざるをえなくなった。
地面の上で生物は生きられなくなったのだ。
だが、さりとて大気圏を超えて宇宙に移住できるほどの時間も技術力も当時の人類にはなく、プラントと呼ばれる地上千メートルを超える高層タワーが建築され人々はそこで生活するようになる。
街を二つ潰して土台の裾野を広く作られたプラントは年々増築され続け、今では都市がそのまま宙に浮いているような様相を呈している。
国という概念がなくなり、人種も混ざり合った人工都市プラント群には約二十億人が暮らす。
科学と技術によって環境に適応したかに見えた人類であったが、大地を失ったことによって抱えた問題が尽きることはなかった。
市場が立ち並ぶ整備区画の通りを抜けると、再び薄暗い洞窟区画に移った。
ハジメが少年を見つけた洞窟よりも狭く、蟻の巣のような構造になっている。
「ダンジョンみたいだ」
少年の呟きが狭い空間に反響した。
「ダンジョンってなんだ」
「知らない? 大昔のファンタジー小説とかに出てくるんだけど」
「知らねえよそんなもん」
自分から聞いておきながら吐き捨てるように返したハジメに少年は面食らった。
「おかえりハジメ」
無言で歩みを進めるハジメについていくこと数分、枝分かれした洞窟の横穴の一つから十にも満たないだろう男の子が顔を出した。
「あれ、また拾ってきたの?」
「きらきらしてるね」
「……なに、そいつ」
わらわらとハジメたちよりも幼い子どもばかりが横穴から現れる。
ざっと見る限り十人は超えていた。男の子が多かったが女の子の姿もある。
「気にすんな。どうせ明日にはいなくなる」
そっけなく言って横穴にハジメが消えると、すぐに少年から興味を失った子どもたちもまた穴の中へ戻っていった。
「え? あの、僕これから、その、どうすれば」
置いていかれた少年は戸惑い、他に選択肢も見つからなかったので一先ず彼らを追いかけた。
横穴の入り口は低く、一六〇センチの少年がぎりぎり通れるくらいの高さだ。
かろうじて指先が見える程度の視界に恐れをいだき壁に触れると、岩肌のざらりと冷たい感触がした。
そのまま壁を伝って歩みを進めると、先の見えないあまりの暗さに一メートルが百メートルの長さにも感じられた。
疾走とはまた異なる心臓の鳴りを聞きながら少年は暗い穴を奥へ奥へと進む。
「ここって……」
狭い通り道を抜けると広い空間に出た。
先程顔を出した子どもたちと、更に年下の、五歳以下だろう幼児が元気な声を響かせながらじゃれている。
部屋を照らす灯りは形も色もちぐはぐで白やオレンジがまだらに暗闇を明るくしていた。
「勝手に入ってくんなよ」
「ごめ……でも、僕をここまで連れてきたのは君じゃないか」
「それ以前に助けてやったんだろうが。礼じゃなく文句を言うなんていい性格してんな」
「そう、だね。ごめん。ありがとう。君のおかげで助かった」
素直に少年が礼を述べると、ハジメはお化けでも見るような目を彼に向けた。
「――お前、上のやつだろ」
「上?」
「カタコームのガキにお前みたいな奴はいない」
人工都市プラント群には約二十億人が暮らしている。
人類は科学と技術によって環境に適応した。表向きにはそう謳われている。
だが地質汚染が限界に達した頃の総人口は八十億人。
過渡期にその半数近くが様々な理由で死亡し、大幅に人口減少したにしても全ての人がプラントで暮らすのは不可能であった。
人は、命の選別を、行った。
犯罪歴のある人間、及び三親等内の親族は問答無用で移住権利の剥奪。
そして全世界で遺伝子を検査し、一定以上の優秀さを持つ人間がプラントで生きることを許された。
倫理観を失った判断だと異論を唱える者も山ほどいたが、待ってはくれない現実の前では正しさなど塵のようなものだった。
プラントからこぼれ落ちた人々は地下に望みを託した。地下千六百メートルを超えると土に含まれる毒素が薄まることが判明したのだ。
鉱山などの地下坑道を活用し、少しずつ生活範囲を広げていき、残された人々はどうにか生きていける場所――新開地カタコームを手に入れた。
「早く帰れよ。お前は地下じゃ生きていけない。俺は二度も助けてはやらねえからな」
「ルイだ」
「は?」
「お前じゃない。僕はルイだ。君は?」
「……ハジメ」
「ハジメ? 東洋系なのか、じゃあもしかして見た目ほど幼くない?」
ハジメの身長はルイより数センチ低い。
硬質な雰囲気に反して顔立ちも幼く、ぶかぶかなコートが実際よりも更に彼を小柄に見せている。
ルイの目にはハジメは十歳程度に見えていた。
「俺は十三だ」
「へえ、じゃあ僕と同い年なんだな」
「それがなんだ」
「同い年なんだなあって思っただけだよ。ねえ、ここは君たちの秘密基地なのか?」
「……ここは俺たちの家だ」
「家? ここが? まさか子どもだけで住んでいるわけじゃないよな?」
洞窟にしては広い空間だが、子どもだけだとしても数十人が暮らすには手狭だ。
照明の明りで電気が通っているのは分かるが、空調設備はなさそうだった。
今は春なので問題ないが、冬の暮らしは厳しいだろう。
「それがどうした」
嘲るようなハジメの調子にルイは声を張り上げた。
「嘘だろ? 親は一体何をして、」
続く言葉は、ばさりという音にのみ込まれた。
突然暗くなった視界に驚いたルイがもがき自分を覆う布を振り払う。
地面に落ちた布を確認すれば、それは黒のモッズコートだった。ハジメに投げつけられたのだ。
「不愉快な言葉しか吐けないその口を閉じろ」
野生動物のような眼光で彼はルイを睨みつける。
「親は子どもを愛するなんてそんなの誰が決めたんだ。少なくとも俺は、そんな奴にお目にかかったことはないね」
ルイはぴくりとも動けなくなっていた。どうしてか息をすることすらままならない。
「カタコームにいるような奴らは憂さ晴らしのためにセックスをするんだ。一瞬でも現を忘れるために快楽に走る。そのおまけで産まれるのが俺たちみたいなガキだ」
しんと静まり返った空間にハジメの淡々とした言葉だけが流れていく。
「産まれた子どもは基本売られる。小銭程度にしかならねえけどな。はした金でもないよりはましだ。まともに育てるなら面倒もあるだろうが、早々に売っぱらうならガキをつくることに躊躇いもないよな」
なあ、ルイ。と出来の悪い生徒を諭すようにハジメは言った。
「愛するためにではなく売るために子どもを産む。ここはそういう場所だ。お前の常識は通じない。ルールが違うんだよ、お前の常識を俺たちに押し付けるな。大人は俺たちを守らない。誰も助けちゃくれない。生き延びたきゃ自分たちでどうにかするしかないんだ。甘ったるい考えを振りかざして善人を気取るのは気分がいいだろうが、ここじゃ滑稽さを披露するだけだと知るんだな」
黙って俯くルイの反論を数秒待った後、ハジメは仕方なさそうにため息をつく。
「売り飛ばされたくなきゃさっさと帰れ」
「……僕は、帰らない」
果たしてそれが帰らない。なのか、帰れない。なのかは分からなかった。
ただ彼が偶然地下に迷い込んでしまっただけでもなければ、好奇心だけでやって来たわけでもないということが、絞り出すような一言から伝わる。
「そうかよ。なら勝手にしろ。お前のためのものはここには一つもない、自分のものは自分でどうにかしろよ」
歓迎されたわけではない。だが、遠回しだが滞在の許可が出たことにルイは目を見張った。
「ここに僕がいても、いいのか?」
「好きにしろ。あいつも、そいつも、皆そうだ。勝手にやって来て勝手に居着いた。ならお前だけは駄目だなんて道理はないだろ」
「ハジメが拾ってきたの間違いだろ?」
大人しくしていた子どもの一人からからかいの声があがったが、ハジメに一瞥されると肩をすくめて口を閉じた。
「ところでお前、何かできることあんの?」
「計算は、得意だけど……」
「文字は?」
「も、文字? 読めるし書けるけどそれがどうかした?」
「じゃあそいつらに教えてやれ、その対価としてなら食い物をやってもいい」
「そんなことでいいのか? 文字くらい君だって教えられるんじゃ、」
「俺にはできない」
さらりと告げられた内容にルイは数度目を瞬かさせた。
「なんだよ」
「いや、なんか、意外で、だって君、賢そうというか」
「馬鹿な子どもは搾取されるからな。他人からいい様に使われたくなきゃ、文字が読めなくても、計算ができなくても、賢いふりをしなくちゃならない。まあ、大人だろうが読み書きも計算もできないやつだっていくらでもいるけどな。お前を売っぱらおうとしてたおっさんもそうなんじゃねえの」
気負いなく紡がれた言葉はこれまでの何よりもルイに衝撃を与えていた。
それは、ルイにとっては望まずとも手に入るものだった。
読み書きができることも計算ができることも特別ではない。そういう世界で生きてきた。
だから子どもを売買するなどという想像もできなかった現実よりも、よっぽど彼にとってリアルな隔たりに感じられた。
常識は通じない。ルールが違う。という言葉の本質にルイは触れた気がした。
「そう、か。うん。教えるよ。文字も、計算も」
「取引成立だな。先払いでこれやるよ、どうせ何も食べてなかったんだろ」
行き倒れていた理由を察されていたことに苦笑しながら、ルイは投げ渡された林檎を受け取る。
「うわ! これ、腐りかけじゃ」
丸一日何も食べていなかったこともあり受け取ってすぐに豪快にかぶりついたが、口内にいれた瞬間にざわりと鳥肌がたち一噛みでルイは林檎を吐き出した。
「腐ってないまともな食べ物が恋しいなら、」
にやにや笑うハジメの様子から試されているのが分かり、両手をあげてルイは降参を示す。
「おーけい。食べるよ、食べる。それがここの常識ならね」
合格点の返答だったのかにやりとするハジメを見て、これからの日々を思いルイは内心冷や汗をかいた。
一週間過ごしただけでもカタコームの日々はルイにとって新鮮さとカルチャーショックで満ちていた。
一日一食が当たり前の食事。洞窟にある湖の水を使った冷たいシャワー。数日間着続けるほつれた服。
子どもだけの暮らしの不安定さ。食べ物を得るためなら盗みすら厭わないこと。
暴力、侮蔑の目。
ただ生きるだけのことがどれだけ困難な日々なのかを知っていく毎日だった。
理不尽に一つ会うたびにルイは顔を青くしていた。それを見たハジメは毎回今日こそは上に戻ると言い出すだろうと思ったのだが、彼はしぶとくカタコームに残り続けていた。
「ルイ、お前どうやってプラントからここまでおりてきたんだ?」
子どもたちが寝静まった時間。声をひそめたハジメの問いかけが投げかけられた。
いつからか彼らは就寝前の数分、暗闇への感情を潰すように会話を交わすようになっていた。
毛布を敷いていても背中にあたる感触はごつごつとしていてお世辞にも寝心地がいいとは言えない。寝付くには時間がかかった。
「僕はプラントから来たわけじゃないよ。リバイブなんだ」
「リバイブ?」
「地表再生計画を担った研究員やその家族たちがそう呼ばれてるんだ。僕の両親って研究者でさ、二年前に家族全員でプラントからおりて地上で暮らしてる」
もしもプラント住まいであったならカタコームに来ることはできなかった。
地上におりるには厳重なチェックを通らなければいけない。子ども一人では地上におりることは絶対にできないのだ。
「人が暮らせるようになってたのか。知らなかったな」
声だけでもハジメが驚愕しているのが伝わった。それだけ地上に住むというのは今や夢物語になっている。
「ここ数年でやっと実現できた計画だから知らなくてもおかしくないよ」
「ふうん、地上にはもう住めそうなのか?」
「ほんの一部の場所しか生き物が住める環境にはなっていない。全員が地上に住むにはきっと何十年、下手したら百年以上かかると思う」
「そうか」
ひそやかな夜にハジメの落胆のため息がふわりと浮かんだ。
「ハジメは地上に住みたいの?」
「……わからない」
彼にしては珍しく迷いの強い返答だ。
「ただ、そうなれば何もかもが解決するんじゃないかって、どこかで思ってんのかもな」
子どもたちの目がないからだろうか、いつも張り詰めている彼のほころびを見せてもらえた気がした。
「ハジメは、どうしてここに住むようになったんだ?」
今なら聞けるような気がしてルイは口を開いた。
「お前と似たようなもんだよ。行き倒れてたら声をかけられたんだ」
「誰に?」
「お人好しの、馬鹿な女だったな。本当にカタコーム育ちかよって疑いたくなるような奴だった」
突き放す調子だったが情を感じる言い様だった。それだけで女性への彼の信頼を感じられた。
「その人は、今はどうしてるんだ?」
「逆恨みしたガキに刺されて死んだ」
雪が積もる音のような声だった。
「本当に、馬鹿な女だったよ。おかしな奴だった。刺された癖に笑って死んでいきやがったんだ」
――私の人生。結構、上等だったと思わない?
そう言って笑って、彼女は死んだ。
理解ができなかった。死んだら全部終わりだ。上等だろうがなんだろうが、死んだ奴が負けだ。ハジメはそう思っている。
中身なんて関係ない。生き延びることだけが全てだ。
どうして自分が生きていたいのか、理由なんて、分からなくとも。それだけが。
だというのに、彼女の笑った顔が、残した言葉が、心臓にひっかかり続けている。
「上等な人生だったかなんて、聞かれても俺には分からねえよ……」
とろとろと進むごとにハジメの言葉は溶けていき、最後は寝息にかわった。
三週間が過ぎる頃には、ルイもすっかり地下での暮らしに馴染んでいた。
先生業も板についてきて、吸収のはやい子どもたちはもう単純な足し算引き算なら完璧にマスターしている。
「ルイ、僕もう自分の名前書けるよ」
自慢げな少年の姿にルイは笑みを浮かべる。
「昨日教えたばかりなのにもう覚えたのか、リックは賢いな」
ストレートな褒め言葉に照れたのか、リックは赤面を隠すために遊んでくると言って逃げてしまった。
ここの子は馬鹿にされたりするのは慣れているのに、褒められるのには慣れていないのだ。
「戻ったぞ!」
「どうしたんだハジメ」
普段とは異なる嬉しそうな声に様子を見に行くと、袋に入ったソーセージを手にするハジメがそこにいた。
「久しぶりに肉が手に入ったんだ。安心しろ、ルイの分もあるぞ」
「……僕はいいよ。皆で食べてくれ」
「なんでだよ? 十分な数があるんだ、食えよ。肉が手に入ることなんて滅多にない。今食べなきゃ次いつ食えるか分からないんだ。ほら」
離れようとしたルイを引き留めてハジメはソーセージを手渡そうとした。
「やめてくれ!」
ハジメの手を絶叫と共にルイは振り払う。
衝撃で地に落ちかけたソーセージを少女が必死にキャッチした。
「ルイ、お前、」
騒いでいた子どもたちはぴたりと動きを止め二人を見守っている。
沈黙で張り詰めた洞窟には、ルイの絶叫がまだほのかに反響していた。
「言うな!」
身を切るような悲痛な叫びが再びあがったが、ハジメの発言は止まらない。
「自分が食べてた合挽き肉の正体を知っちまったのか」
ルイのうめきが洞窟中を埋めた。
痛々しい姿にまだ三歳のカレンの泣き声が追随する。
カタコームにルイがおりたのは、衝動的な行動からだった。
その日、いつもだったら鍵がかかっていたはずの父親の書斎が開いていた。中に入ってしまったのは、ただの好奇心だった。
机の上に置かれていた資料に目を通してしまったのも、そうだ。
偶然だった。覚悟もなかった。でも知ってしまえばもうどうしようもない。
知る前にはもう戻れない。
動かずにはいられなかった。だって――自分たちはカタコームに住む人間の肉を、日常的に食べていたのだ。
過去に、取引があった。
地下で生活を始めたがどうしても農作物が育てられなかったカタコームは、プラントに助けをもとめた。
その結果、植物は育てられても畜産に難航していたプラントは苦渋の決断をした。
現在地球上で一番多い生き物であった人間を食するという、選択を。
豚や牛、鶏の肉に混ぜての加工品のみであるが割合を少しずつ増やしていき、今では合挽き肉の四割は人の肉が使われていた。
当初から今に至るまで一般には秘匿されているが、上層部や研究員の一部には情報が開示されていた。それをルイは目にしてしまった。
ハンバーグはルイの好物だった。ふわりと香るデミグラスソースの匂いも、ナイフを入れた時に溢れだした肉汁で鉄板がたてる音も好きだった。
付け合わせの野菜もこの時ばかりは進んで食べた。
だがもう、好きだったはずの肉汁の味が、今は厭わしくて仕方ない。
「だって、君たちは、人だ」
豚や牛だって命であることには変わりない。だが感情が拒否する。
知ったうえで、人の肉は食べられない。
「一緒に過ごしてみて改めて確信した。君たちと僕は何も変わらない。楽しければ笑うし、悲しければ泣く、大切な人を慈しむ心だって持っている。同じ人間だ」
何かに許しを乞うようにしゃがみ縮こまって内心を吐露したルイの姿に偽りを感じなかったからこそ、彼の言葉を聞いて生まれた自分の感情にハジメは戸惑っていた。
ルイから、上の人間から、人だと言われるだけで、自分がこんな感情になるだなんて思ってもみなかったのだ。
「……そうだ。俺らは、俺は、人間だ」
ハジメの親は、彼を食肉用に子どもを育てるファームに売った。
早々に逃げ出さなければハジメは今頃とっくにプラントの人間の腹の中におさまっているはずだった。
「ハジメ?」
「家畜じゃない、食い物じゃない、人だ、こいつらも、俺も、人間だ、なのに食われるために産み落されたなら、俺たちはどこにいけばいいんだよ……!」
はらはらと知らない熱がハジメの目からこぼれ落ちる。
頭上から降るその熱は、後悔や絶望を塗り替えてルイを突き動かした。
「僕は世界を変えたい」
足に力を込め立ち上がりハジメの両腕を掴む。
勢いでコートが右肩からずり落ちたが、二人とも気にもしなかった。
「ああ、いや、違う。世界は、変わらない。そう簡単に変わったりしない。僕はまだ何もできない子どもだ。でも、いつか。今、ここから。人生全部使って、ただ、今より少しでもましな世界にしたい、してみせる」
「……いいな、お前は」
未来を信じることができる。そんなことすらハジメはできない。
羨ましかった、心から。
「ハジメ、君にだってできることだ。君はここで信じられる大人になれ。自分が子どもじゃなくなっても子どもから信じてもらえる大人になるんだ。それだけでいい」
ハジメの弱音を即座に覆し、ルイは目を輝かせた。
「君は君であるだけで世界を変えられるんだ」
甘い言葉だ。
子どもの、理想でしかできていない言葉だ。
現実を何も分かっていない幼さが生む愚かさだ。でも、どうしてかハジメは信じたくなった。
初めて、人生の先に、夢を見た。
「なあ、ハジメ。それができた僕たちの人生ってきっと上等だって思わないか?」
暗くじめじめした洞窟でも損なわれなかったルイの姿は、その笑った顔は、噂で聞いた太陽のように見えた。
ルイ・リュンクス博士の研究により、人工培養肉の技術は飛躍的に向上。
完成から数年で一般にも忌避されることなく広く普及し、長年の食肉問題の解決に至った。
氏は、偉業によって得た資産のほとんどを寄付するほどの人格者であり、プラント住民が知る由もなかったカタコームの現状を周知することにも貢献した。
余談ではあるが、博士はカタコーム初の孤児院経営者ハジメ・アカツキと幼少から親交があったようだが、地上と地下で育ちの異なる彼らがいつどのように出会ったのかについて知っている者はいなかったという。
彼らのことがとても好きなのでいつか長編にしたいです。