第九一話 エーデルベルクの薔薇 三四 月と薔薇
エーデルベルク城上空――。
飛翔魔法を使い空中停止しているゴルトの背へ、真綾がヒラリと跳び乗ると、彼女の脳内に緊張感のカケラもない声が響いた。
『真綾様、目の覚めるような膝蹴りでございました。キックの鬼とはまさにこのことですね〜』
(真空飛び膝蹴り)
……そう、飛び膝蹴りである。
体を守るいくつかの魔法がなければ、ファーヴニルの防御力も鱗の硬い恐竜とさして変わりなく、大出力で射出された真綾(戦艦の防御力並みの強度を誇る)に頭部を膝蹴り(これまた大出力で)されては、ハンマーでぶん殴られた生タマゴと同じく、ひとたまりもなかったのだ。
さて、エーリヒとゴルトがここにいることについても、少々説明しなければならないだろう。
――大勢の来賓がいることを逆手に取り、その前で被災者や孤児院の援助をゾフィーアに確約させたあと、もしも彼女がすんなり帰してくれそうにない場合、真綾はレーン団協力のもとテラスへ出て、城の上空で待機しているゴルトに跳び乗って帰る――。
それがエーリヒの策だったのだ。……ゾフィーアの暴走により、跳び乗る途中でファーヴニルの頭部を粉砕する、という手間が加わってしまったが……。
「思うたより早かったのう、マーヤ。――さて、クマノ様、どうなりましたかな?」
「お待たせ。『やはり領地のお話が出てきましたが、抜かりなく固辞いたしました。被災者と孤児院への援助についても、作戦どおり確約を頂きましたよ』」
「うむうむ、それは重畳。さすがはクマノ様じゃ」
背後に座る真綾を通じて熊野からの報告を聞き、たちまち満足げな表情になったエーリヒは、そのまま地上へ視線を落とすと、テラスの上で立ち尽くしているゾフィーアに声をかける。ファーヴニルの聴力の高さを知っているため、特に大声を張り上げるでもなく至って普通のトーンで。
「ゾフィーア、間違えてはいかんぞ、これなるはマーヤ・ラ・ジョーモンじゃ。お前が呼んだのはカタストローフェであろう?」
「エーリヒ様……」
エーリヒに皮肉交じりの声をかけられ、ゾフィーアは夜空を見上げて奥歯を噛んだ。
その一方、大広間では、死んだと思われていた大物のまさかの登場に、グラーフシャフト伯とノイエンアーレ伯が揃って驚きの声を上げていた。
「げっ! 生きてたのかよ!」
「タウルス=レーンガウ伯……」
たしかに驚いているのは同じだが、前者の表情に喜びと恐怖の色が交じって見えるのは、かつての人間関係ゆえであろうか。
そうやって驚く親たちの様子に、レオンハルトとフローリアンが顔を見合わせて笑い合う一方、城の上空では、エーリヒが悪魔のごとき笑みを浮かべていた――。
「カタストローフェがマーヤに変わった時点で諦めるべきであったのう。つまらぬ言葉遊びを始めたのはそちらなのじゃ、最後まで貫き通さんと格好がつかんであろうに……。さて、うちの可愛いマーヤはこれにて連れ帰るが、皆の前で約束したこと、夢々違えるでないぞ、……のう、レーン宮中伯閣下。――さらばじゃ!」
「待って!」
勝ち誇ったように言いたいことだけ言ったかと思えば、さっさと別れを告げるエーリヒであったが、レーンガウへと首を向けたゴルトに……いや、その背中から友人たちへバイバイと手を振っている真綾に、ゾフィーアは慌てて声をかけた。
――マーヤ・ラ・ジョーモンが自分の切望していた者だった場合、どんな手を使ってでも自陣営に引き込む――。
ゾフィーアは最初から、ゲームに勝った真綾を帰す気などなかったのだ。
しかし、その声が聞こえぬかのように、エーリヒはゴルトを上昇させ始める。
「逃がさない……」
小さくなりつつあるゴルトの姿を紫色の瞳で捉えたまま、深く腰を沈めようとするゾフィーア。――真綾がそうしたように、自分もファーヴニルの剛力を使い跳躍しようというのだ……。
伯爵以上ともなれば力の強い守護者を持つ者も多いため、こうした力の使い方も珍しいものではなく、ましてやファーヴニルほどの剛力ならば、ゴルトの現在高度まで人体を跳躍させることも可能ではあろう。
すがるような想いを胸に、ゾフィーアが跳躍しようとした――その時。
「ゾフィーア、そこまでだ」
近くから、威厳に満ちた声が彼女を引き留めた。
「お父様……。やはり仮病でしたのね」
体調不良を理由に式典を欠席していた父、ラインハルトの、針葉樹のように痩せた長身をそこに認めると、ゾフィーアは嘆息した。
「今の当主はお前ゆえ私も黙っておったが、親友を裏切るような企みごとに顔を出す義務もあるまい」
知的な光の宿る双眸を娘に向け、少し疲れたように苦笑するラインハルト。
学院長として本来なら出席すべき表彰式典を、彼が仮病を使ってまで欠席したのは、親友の厚意を利用する形になった自分への戒めか、それとも、それをさせた娘に対する彼なりの抗議だったのか……。
「ゾフィーアよ、厄介な加護を得てしまったがゆえ強者に焦がれる気持ちは、同じ守護者を持つ私が誰よりも理解しておる。先の皇帝陛下と初めてお会いした時は、私も喜びのあまり心震えたものだ……。しかし、お前はもう大領の君主たるレーン宮中伯なのだ、もっと立場をわきまえて行動せねばならん。……エックシュタイン家を敵に回すことは良策か? あれほどの力を持つマーヤ・ラ・ジョーモンを、お前は本当に御せると思っているのか?」
「……」
「お前がいかに柵で囲おうとしても、月はそのはるか上を悠々と越えてゆこう。……お前が太陽に手を伸ばし近づいてゆけば、いずれその身を灼かれ死んでしまうであろう。……ゾフィーアよ、彼女のことは諦めろ」
せつせつと諭す父の声に、普段の冷静さを取り戻してゆくゾフィーア。彼女が見上げる夜空の上で、奇しくも、遠ざかりゆくゴルトの姿と月が重なった。
「身の丈に合わぬ考えをお前が捨てるなら、私からエーリヒに頼んでやろう。……月を鳥籠に入れることなど誰にもできぬが、ときおり照らしてもらうことなら叶うかもしれんぞ」
「……はい、お父様」
同じ守護者を持つ父と娘に【エギルの兜】は効かない。優しい眼差しを向けてくれるラインハルトに頷くと、ゾフィーアは憑き物が落ちたように微笑み、父と同じ紫色の瞳を、すっかり小さくなったゴルトへと向けるのであった――。
◇ ◇ ◇
リントヴルムは極めて視力が良いうえ、星明かりで色を判別できるほどに夜目が利く。さらには優れた方位認識能力をも有しているため、エーデルベルク城をあとにしたゴルトは、そのままレーンガウへ帰るべく夜の空を飛んでいた。
この季節ともなれば夜の空はかなり冷えるのだが、守護者を持つエーリヒと真綾にとっては何も問題ない。
ズルッ、ズルルルッ。
「のうマーヤよ……」
ズゾ、ズゾゾゾゾー。
「うまそうな匂いじゃのう……」
ゴクゴク。
「……まだ根に持っておるのかの?」
モッシャモッシャ……。
「……わし、悲しい……」
背後から絶えず聞こえてくる食事音と、食欲をそそって止まぬ匂いに耐えつつ、手にしたチーズをそっとかじるエーリヒ……。
いたたまれないその状態はしばらく続き、ようやく真綾の声が聞こえた。
「ごちそうさまでした」
……そう、あれだけ楽しみにしていた〈赤龍軒スペシャル昼定食〉、通称〈セキスペ〉を、腹ペコ状態の真綾が我慢できるはずもなく、ゴルトの上で機内食よろしくセキスペを取り出すと、彼女は一心不乱に食べていたのであった。エーリヒには教員食堂支給のパンとチーズだけ渡して……。
食べ物の恨みは恐ろしいのだ。
『セナカ、ヨゴサレテナイカナ……』
(うるさいわ!)
自分の背中にラーメン汁が飛んでいないか心配するゴルト、そして、そんな相棒に脳内で八つ当たりするエーリヒ。……とても〈伯爵級〉上位の守護者とその契約者とは思えぬ会話である。
「……ところで、クマノ様とマーヤにゾフィーアの顔はどう見えたかのう?」
何を思ったか、エーリヒは真綾に背を向けたまま、そんな質問を不意に投げかけた。
「『お顔ですか? そうですねぇ……。とてもお美しい方でした。それから……終始笑顔でいらっしゃいましたね、それはそれは薔薇のように華やかな』右に同じ」
ふたりの答えを聞いたとたん、ハッとするエーリヒ。……それは、親友の愛娘の幼少期を知る彼にもかつて見えていた笑顔。……彼女が守護者を得た時から彼にはもう見ることができなくなった、ゾフィーアという人間の本当の笑顔。
「そうか、そう見えたか……」
感慨深げに口の中でつぶやくと、昔から鬼神のごとく恐れられてきたエーリヒは、ここへ来て、マーヤにひとつ頼みごとをしたくなった。
「マーヤ、もしも、二度と妙な気は起こさぬとゾフィーアが誓えば、また会うてやってもらえるかの?」
「オッケー牧場」
異世界のものらしい了承の言葉を背中越しに聞くと、老いた英雄は、真綾と出会えた奇跡に幾度めかの感謝をした。
「ありがとうマーヤ。――よし、急げゴルト! 疾風のごとく! 可愛い孫たちが待っておるぞ!」
真綾に礼を言ったかと思えば、わざわざ声に出してゴルトを急がせるエーリヒ。
『ホントニ、ゲンキナトシヨリダネ……。アイヨ』
そんな相棒の様子に少し呆れつつも、なんだかんだで言われたとおり速度を上げ始めるゴルト。
『洋上でのお月見もよろしゅうございましたが、こうしてお月様を眺めながら空を飛ぶというのも、なかなかに風情がございますね〜』
(月見団子……)
呑気に脳内会話する熊野と真綾。
レーンガウへと一直線に向かう一行を、少し欠けた月が優しく照らしていた――。
◇ ◇ ◇
さて、たいへん長かったエーデルベルクでのひと幕も、これにてようやく終了と相成るが、このままではいささか味気ない。よって、いくつかの事柄を付け加えてから幕を閉じようと思う。
まずは、エーデルベルク城について――。
その後もなんだかんだで宮廷道化師を続け、いろいろとやらかしたペルケオは、年老いて病気になった際、酒量を減らして水を飲めと医者から言われ、生まれて始めてワインではなく水を飲むと、そのままコロッと逝ってしまったという。
また、『カタストローフェの噛み跡』については先に語ったが、テラスから真綾が跳び上がった際に、あまりの大出力ゆえ石畳にできたくぼみは、ペルケオにより『黒き乙女の足跡』と名付けられ、これもエーデルベルク城七不思議のひとつとして、後世まで伝わることになる。
続いては、レーン団について――。
かつて「エーデルベルクの厄介者」と陰で呼ばれていたレーン団は、このころを境にして、都市住人に迷惑をかけることも醜い内輪喧嘩をすることもなくなり、やがて、ヘッケンローゼ帝立学院の学生全体を先導していくようになる。ピクニックの名を借りた五日間の矯正プログラムに加え、彼らを見る人々の目が変わったことも、この大きな変化をもたらした要因のひとつであろう。
また、〈カタストローフェ教団〉、あるいは〈学食の女神教団〉なる怪しげな団体が、学生団の垣根を越えて地下で結成された、などと噂されているが、これは学校の七不思議的なアレに違いない。……たぶん。
ちなみに、許されぬ想いに焦がれる若き伯爵ふたりが、その後どうなったかについては、ここでの公表を差し控えさせていただく……。
最後は、孤児院について――。
レーン宮中伯ゾフィーアは約束を守った。……というより、居並ぶ貴族たちの前で豪語した手前、守らざるをえなかったのだ。……すべてはエーリヒの思惑どおり。
そういったわけで、宮中伯の面子もあってか立派な屋敷を与えられ、見事に復活を果たした孤児院は、毎年の運営予算も増額された結果、幼い子供たちが働くこともめっきり減り、その時間の一部を基本的な読み書き計算の勉強に充てた。
これには、向学心に富むヘンゼルと違いグレーテルなどは不満たらたらだったが、後年、この孤児院を巣立った孤児たちは、各方面でエーデルベルクを大いに盛り立ててゆくことになり、結果的に宮中伯家も株を上げたという。
はるか後世までも続くこの新孤児院には、それはそれは見事な薔薇園があるのだが、そこに咲き誇る薔薇のルーツは、いくつもの文献に、『孤児院の再開祝いとして黒き乙女より贈られた薔薇を、当時の院長が丹精込めて育てたものだ』と記述されている。
複数の文献に書かれるくらいだから、それだけ世間では知られていた話なのだ。その結果、黒き乙女の庇護下にあると噂される孤児院に悪事を働く者はいなくなり、そこで育った孤児たちもまた、誇らしげに胸を張り社会へ出ていったそうだ。
さあ、これにて閉幕である。
野薔薇の名を冠する学院、紫薔薇と呼ばれた少女、そして、孤児院の薔薇園。エーデルベルクでのひと幕には様々な薔薇が登場したが、さて、あなたはいくつ薔薇を見つけられただろう。




