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第八九話 エーデルベルクの薔薇 三二 マーヤ・ラ・ジョーモンでした



 平坦な口調で短く別れを告げたと思ったら、先ほど閉じられた扉のほうへガシャンガシャンと歩き出すカタストローフェ。そんな彼女の背中、黒い陣羽織に金糸で施された〈三足鴉〉の家紋を、しばし呆気にとられ眺めていたゾフィーアは、ようやく我に返ると声を上げた。


「カタストローフェ教授、何を……」

「帰ります。セキスペなので」

「領地は……」

「いりません」

「…………」


 ゾフィーアの問いかけへ律儀にも向き直って答えると、カタストローフェはまたもやクルリと背を向け、大広間出入り口の扉へと歩き始めた。頭の中にセキスペのことしかないのは説明するまでもない。

 しかしここで、ゾフィーアの沈黙を怒りのせいだと受け取ったのか、宮中伯の直臣にあたる連中がふたたび騒ぎ始めた。


「なんたる無礼!」

「このまま我らが指を咥えて帰すとお思いか!」

「さあさあ皆様方! 宮中伯家への長年にわたりし御恩をお返しする時は、今をおいて他にございませんぞ! 臆さず引き留められませい!」


 こう言われては、宮中伯陣営に身を置く者として動かぬわけにもいかず、予想外の事態にざわついていた貴族家当主たちも、ある者は腹を据え、ある者はおっかなびっくりの様子で、カタストローフェの歩みを阻もうと動き始めた……が。


「ああっ! 足がもつれたでゲス!」

「うわっ! いきなりなんだきみは!」


 歩き出していた宮中伯直臣たちの足元へ、わざとらしい声を上げてヘッドスライディングしていく出っ歯を始め――。


「お父様、カタストローフェ先生は頭がおかしいほど強いブヒよ、男爵が束になったところで絶対に敵わないブヒ。それだけじゃないブヒ、怪我させては治癒を強要し、また怪我させては治癒を、という生き地獄を、それこそ相手の心が折れるまで延々と繰り返すブヒ……。だから邪魔しないほうが身のためブヒよ」

「お、お前がそう言うのなら……」


 自分の父親のもとへ近寄り、その周囲にいる貴族たち諸共ビビらせる白豚。

 さらには――。


「何をするのですライナー! 今すぐお離しなさい!」

「いいえ離しません、これも母上のことを思えばこそなのです。よく聞いてください、我々の能力など先生相手にはなんの意味も成しません。それどころか、あの、究極に麗しく花よりも可憐なフローリアン様ですら、まったく歯が立たなかったのですよ」

「……ライナー、この場合『究極に麗しく花よりも可憐な』は関係ないのでは……」


 カタストローフェに忍び寄るべく【認識阻害】を発動した母親を、羽交い絞めにしたうえドン引きさせるライナー……など、なんと、レーン団の面々が一斉に貴族たちを邪魔し始めたではないか。

 彼らの思いがけぬ行動のせいで騒然となった大広間に、ほどなく、高く澄んだ声が凛と響いた。


「ご安心を! ここはボクたちレーン団がお預かりしますので、どうか皆様はご自分のご伴侶をお守りしてください!」

「そうそう、団長の言うとおり、ここは我々に任せて下がったほうが利口ですよ。カタストローフェ先生は恐ろしく強い、ましてや能力を知らない皆様では、分が悪いなんてモンじゃないでしょう。――いいかみんな! これから俺と団長で先生を止めるから、お前たちは皆様が無用なお怪我をなさらぬよう、しっかり気合い入れて盾になれよ!」

「おおっ!」


 カタストローフェの進路上に肩を並べて立ち塞がり、困惑する貴族たちを鎮めるべく声を上げたのは、フローリアンとレオンハルトである。

 レオンハルトの頼もしい声にレーン団員たちが力強く応じ、カタストローフェと貴族たちを隔絶するように並ぶと、守られる形になった貴族たちの多くは若き伯爵ふたりの言葉に納得し、(お言葉に甘えて伴侶の護衛に専念しようか……)などと思い始めた。

 その空気を察し、なぜかニヤリと笑うレオンハルトと、カタストローフェにウィンクするフローリアン。

 しかし、そんなふたりの様子を看過できない者が、ここに二名ほど……。


「フローリアン離れなさい! 近い、近すぎます! 野蛮なランツクローンの近くにいたら、飛びトカゲの臭いが移ってしまうわよ!」

「不甲斐ないぞレオンハルト! 何が団長だ! お前はノイエンアーレごときの風下に立って悔しくないのか!」


 大広間の両側から声を張り上げたかと思えば、それぞれ自分の子にズンズン詰め寄っていくのは、ノイエンアーレ伯とグラーフシャフト伯である。

 屈強かつ大柄なグラーフシャフト伯はともかく、華奢で小柄なノイエンアーレ伯が、行く手を阻む学生たちを軽々と押しのけて歩く様は、なんとも不思議な光景だ。

 どうやらカタストローフェのことなどより、我が子と仇敵の子が仲良く並んでいることのほうが、このふたりにとっては重大案件であるらしい。


「いいえ離れません! 絶対に!」

「まあっ!」


 離れるどころかレオンハルトに密着したフローリアンを見て、大げさに白目を剥いて衝撃を受けるノイエンアーレ伯……。


「おい、さすがに近いって……」

「なんだその顔は! レオンハルト、さては骨抜きにされおったな!」


 フローリアンへ小声で文句を言う我が子の、耳まで赤く染まった不甲斐ない様子を見て、たちまち憤慨するグラーフシャフト伯。

 二組の親と子がそれぞれ睨み合い、今や一触即発の雰囲気……いや、何か忘れているのでは?


 ガチャ、ヒュゥゥゥ……。


 伯爵四人の寸劇に注目していた人々は、急に入ってきた冷たい風を感じ、頭の隅で(ああ、誰かが窓を開けたのか……)などと思いつつも、意識するとでなく風の流入先を確かめて――。


「あ、カタストローフェ教授……」


 ――思わず口にした。大広間の壁にいくつも並ぶ大きなガラス窓(無論、瓶底状のガラス板を金属枠の間に嵌めたアレだが)のひとつを開け放ち、今まさに身を乗り出そうとしている者の名を。

 貴族たちの前に並ぶレーン団の面々は、カタストローフェを取り囲んでいたかに見えたが、実は一か所だけ、大窓のひとつへと続く道を作っていたのだ、貴族たちに気取られぬよう巧妙に、前もってエーリヒから頼まれていたとおり……。

 このあと、さらに人々は驚愕の光景を目撃することになる。


「なっ!?」

「おお、これは夢か……」

「まあ、なんて美しい……」


 なんという神秘、ただ呆然と見守る彼らの前で、瞬く間に漆黒の魔人が姿を変えたではないか……。

 そこに現れたのは、スラリとした長身に黒ずくめの衣装を纏った乙女。東方の白磁のようになめらかで白い肌と、月の女神が降臨したかのごとき完璧な美貌、光の加減で青味がかっても見える長い黒髪を、サラサラと夜風になびかせた、その乙女の名は――。


「マーヤ・ラ・ジョーモン……」


 ゾッとするような笑みを浮かべ、宮中伯ゾフィーアが小さくつぶやいた。


「マーヤ・ラ・ジョーモン? カタストローフェではないのか?」

「これはいったい、どういうことだ!?」

「マーヤ・ラ・ジョーモンといえば、出入りの商人から噂を聞いた異国の姫君と同じ名前ですわ。なんでも、飛んでいるワイバーンを殴り殺してシュタイファーを守られたとか」

「姫君!? ――は、話が違いますぞ宮中伯閣下、伯爵だとおっしゃるから私も勧誘に協力したのですぞ。それを、こ、このような、王侯など、なんと畏れ多い……」


 守護者の加護を受けている貴族たちには五感の鋭い者も多いため、ゾフィーアのつぶやき声すら聞き逃さなかった者たちが一斉に騒ぎ始めた。

 そのなかには、すでにマーヤ・ラ・ジョーモンの噂を知っている者や、ゾフィーアから勧誘の協力を頼まれていた者もいるようだ。特に後者などは顔色が青を通り越して真っ白である。……まあ、一歩間違えれば、天災とも呼べる存在の逆鱗に触れていたかもしれないのだ、致し方あるまい。

 一方で、フローリアンを除くレーン団員たちも、鬼教師の正体が食堂の女神様だったと知り、揃いも揃って呆けたようにポカンと口を開けていた。……薄々気づいていたのか、レオンハルトは苦笑いしているが。

 そういった人々の混乱など、マイペースな真綾はまったく意に介さない。


「ありがとう」


 一度だけレーン団員たちのほうを向いて礼を言うと、彼らの顔が赤く染まったことなど気に留めることもなく、この日の主賓は空中へと身を躍らせるのだった。


      ◇      ◇      ◇


 エーデルベルク城には、館本体から数メートル離れた形で、市街を見渡せる展望テラスがある。煌々と月輝き燦然と星煌めく夜空の下、長さ四〇、幅一〇メートルほどはあろうその広大なテラスに、真綾は黒鳥のごとく舞い降りた。

 見上げれば、彼女が今までいた大広間の窓という窓は開き、そこに、鈴なり状態でこちらを見下ろす貴族たちやレーン団員たちの姿が見える。

 イグナーツは蒼白な顔をして舎弟に支えられているようだが、真綾の後ろ姿を見て何か思い当たることがあったのだろう……。

 やがて、そういった大窓のひとつに見えていた人々が、何やら慌てた様子で場所を空けたかと思えば、突然そこから、紫色のドレスをひるがえし何者かが飛び出してきた。……その際、気苦労の絶えない家宰の悲鳴が聞こえたような気もするが、この際それは無視するとしよう。

 常人ならば足を骨折してもおかしくない高さから、難なくテラスの石畳に降り立ったのは、紫色の瞳と酷薄そうな美貌が印象的な貴婦人……宮中伯ゾフィーアだ。


「この場合、初めましてと言ったほうがいいのかしら? ようやくお会いできてとても嬉しいですわ、マーヤ・ラ・ジョーモン様。あなたのお噂を耳にしてからずっとお会いしたかったのに、エーリヒ様が許してくれないものだから、わたくし困っていましたの。……せっかくお会いできたのにもう帰ってしまわれるなんて、あまりにつれないとは思いません?」


 そこまで言うと、身の毛もよだつような笑みを浮かべるゾフィーア。するとどうしたことか、間髪を入れず階上の大広間から、いくつもの悲鳴と人々の慌ただしい声が聞こえてきたではないか……。


「あら、いけない、危うく賓客を発狂させてしまうところだったわ。……それにしても、思ったとおり、あなたは今のくらいじゃなんともないのね……。嬉しい、ますます実力を見たくなってきたわ」


 異変を察し大広間を一度見上げたゾフィーアは、片手で淑やかに口元を押さえ何やら物騒なことを言ったかと思えば、平然と立っている真綾に視線を戻し、紫色の瞳になぜか浮かんでいた寂しげな色を、たちまち喜びの色に変えた。

 その直後、彼女と向かい合う真綾の脳内に熊野の緊張した声が――。


『真綾様、お気をつけください。六時方向、何か出ます』

(はい)


 短く返事をするや否や、流れるような足捌きで体の向きを九十度変えつつ下がり、ゾフィーアと召喚陣どちらにも背中を見せぬよう位置取る真綾。

 ……そう、召喚陣。しかも、リントヴルムのそれより巨大で、何やら禍々しい気配まで漂わせている召喚陣が、真綾の背後だった場所の石畳に煌々と浮かび上がっていたのだ。

 直径十数メートルはあろう召喚陣が回転しつつ上昇を始め、やがて役割を終えて消滅した時、そこで真綾を睥睨していたのは――。



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