第八八話 エーデルベルクの薔薇 三一 セキスペ
エーデルベルク城の大広間では、笑顔を凍りつかせたゾフィーアをよそに――。
「おお……私欲を捨て、被災した庶民や孤児のことに心を砕かれるとは、なんと慈悲深い……」
「なるほど、学生たちから尊敬されるのも頷ける。――これはエーデルベルクに縁深き我々としても、寄付せぬわけにはまいりませんな」
「ええ、そうですわね、喜んで寄付させていただきましょう。……それにいたしましても、高貴なる者の心構えというものを、あらためて教えられた思いです。……カタストローフェ様、なんて気高い精神をお持ちなのでしょう」
――などと、貴族の多くが心打たれ、口々にカタストローフェを称賛していた。
熊野の気品ある語り口(実際には真綾がしゃべっているのだが)や、「たまたま守護者を授かったというだけで贅沢をしていいのか」という、若き日の自分が一度は感じていた罪悪感も、彼らにそうさせた一因かもしれない……が、しかし、残りの者はそれどころではなく――。
(たしかに志はご立派だが、これでは……)
――と、冷たい汗をかいていた。
ここは宮中伯の御膝下なのだから当然である。貴族たちの大勢集まるなか、宮中伯を差し置いて、被災者援助や孤児院の再建、果ては今後の運営にまで口を出すということは、一種の内政干渉でもあり、「宮中伯はケチで薄情だ」と暗に非難しているようなものだ。
本来なら宮中伯を恐れて絶対にできない発言を、カタストローフェがこうして臆面もなくできるのは、異国出身という身軽な立場ゆえか、はたまた、貴族としての思慮が足りないのか……。それを計りながらも宮中伯の逆上を案じている者たちや、カタストローフェの高潔さを称え盛り上がる者たちとは別に、とある老人の悪魔のごとき笑みを脳裏に浮かべる者ふたり……。
(エーリヒ様の入れ知恵ね……)
(大勢の来賓を招いている状況を逆手に取った、この嫌らしいやり口……兄上か!)
ゾフィーアとゼバスティアンだ。
この場に呼ばなかったエーリヒの顔を思い浮かべた主従の前で、カタストローフェ……いや、真綾の口を借りた熊野が追い討ちをかける。
「『いかがなさいました? もしも宮中伯家にご予算が無いとおっしゃるのでしたら、別に無理をなさらずとも結構でございますよ。褒賞金など頂きませんでも、そのお気持ちだけで充分でございますし、援助のほうはこちらの手持ちを使わせていただきますので』」
ゾフィーア、面目丸潰れ。
上手く事を運ぼうと貴族を大勢呼び集めていたのが、この場合むしろ仇になった。これで褒賞金を出さなければ宮中伯の沽券にかかわるし、出せば出したで、自分が治める都市を救ってくれた異国の貴族に、褒賞金で被災者や孤児院の援助までさせたとして、やはり帝国中の笑い者にされるであろう……どうするゾフィーア!
「……その件ですが、ちょうどわたくしも同じことを考えていたところですので、わざわざあなたに代わってもらわなくても結構よ」
結局、最も出血の少ない方法を選ぶゾフィーアであった。
「『さようでございましたか、被災者への援助及び、孤児院再建から今後の運営費の拡充に至るまで、すべて考えていらっしゃったとは……。知らぬこととはいえ、よそ者が出過ぎたことを申しました、どうかお許しくださいませ。……それでは、〈カタストローフェへの褒賞とは関係なく、それらは必ず行われる〉と考えてよろしいのですね?』」
「もちろんです。あなたへの褒賞とは関係なく、宮中伯の責務として必ず、そして速やかに実行すると、この場にいる皆の前で誓いましょう。――さあ、皆も証人になってくれますね」
やけにカタストローフェが念を押してくるため、ゾフィーアは貴族たちを前に誓いまで立て、貴族たちもまた神妙な面持ちで首肯した。
その様子を見て、カタストローフェがひとこと――。
「『ニヤリ』」
「ニヤリ?」
「『あ、今のは声になさらなくても……』」
「…………」
熊野の余計な言葉まで拾って声に出す真綾……。彼女は今、エーリヒに言われたとおり何も考えず、熊野の言葉を外部出力するだけのスピーカーと化しているのだ。
聞き返しても妙な言葉を返してくる彼女を、しばらく無言のまま胡乱げに見つめたあと、ゾフィーアはこのまま話を進めることにした。
「……とにかく、そういうわけですので、下々のことはこちらに任せて、あなたは相応の褒賞を受け取ってください。……そうね、さっきも話に出ていたコンストニッツ伯領がいいわ、バーデン湖というとても大きな湖に面しているので、イワナなどの魚料理もおいしいし、我が領の最南端にあたる場所だから、南部辺境伯領を越えた先、美食の国エルトリアの影響を受けた料理もあるのよ」
ピク……。
料理の話が出たとたん、ほんのわずかに反応を示す真綾、そして、それを見逃すことなく、心の内でほくそ笑むゾフィーア。
(やっぱり、食べ物が弱点のようね……。ここは予定どおり、おいしい料理でもてなしながら、コンストニッツ伯領の名物料理の話でもすれば、喜んでわたくしのお友達になってくれそうだわ。材料費を惜しまず最高の宴席料理を作るようにと、今日は料理長にも言ってあることだし、……完璧ね)
真綾を落とす気満々である。
エーリヒの連れている女性こそ噂の人物だと察した直後から、ゾフィーアは密偵たちを真綾に張りつけ、目撃したものを逐一報告させていた。……そう、朝夕問わず尋常ではない量の料理をたいらげる姿も、マルクト広場の屋台を片っ端から制覇してゆく姿も、部外者立ち入り禁止である学食にさえ堂々と乗り込む姿も……。さらに、マーヤ・ラ・ジョーモンの足跡があった各地からの情報を分析し、総合的に考えた結果、ひとつの答えにたどり着いていたのだ。
――マーヤ・ラ・ジョーモンは美食で釣れる――。
まさに、エーリヒの読みどおり……。
そして今、見事に弱点を突いたゾフィーアの口撃により、面頬の下では真綾が眉間に皺を寄せ、目を線のように細めて誘惑に抗っていた。
(イワナ……)
『ぐぬぬぬ、そう来られますか……。外洋航路に就航していたわたくしは、ほとんど川魚を取り扱っておりませんでしたので、たしかにイワナ料理などの在庫はございませんが……。真綾様、ここは我慢のしどころでございますよ、ここを無事に乗り越えることができましたら、封印されしあのメニュー、〈赤龍軒スペシャル昼定食〉を解禁いたしますので』
(セキスペッ!?)
熊野がその名を出したとたん、面頬の下でクワッと目を見開く真綾。
説明しよう、〈赤龍軒スペシャル昼定食〉、通称〈セキスペ〉とは、火野照子の実家であるラーメン屋〈赤龍軒〉で、平日のランチタイムだけに、それも一〇食限定で出される、それはそれはスペシャルな定食のことである。
メインとして選んだお好みのラーメンに、餃子、鶏唐揚げ、チャーハン、小鉢やサラダなどが、これでもかというほど山盛りになって付いてくるうえ、食後には自家製の杏仁豆腐まで頂けて、なんと千円でお釣りが貰えるという、物価高の続く昨今では夢のような定食であり、もちろん味のほうも抜群にヨロシイため、平日ランチタイム直前の赤龍軒では、これを求める人々の熾烈な争いにより血の雨が降るという。
学校に通っている真綾は、夏休みなどの長期休暇でもないと食べに行くことすらできず、また、姫様に気を遣い譲ってくれるだろう町の人たちの手前、長期休暇だからといって頻繁に通うわけにもいかないため、彼女の中で〈セキスペ〉は憧れそのものであり、しかも【船内空間】に収納できているのはほんの数食分しかないのであった。
ちなみに、赤龍軒でセキスペを【船内空間】へと収納する際、真綾は料理を器ごと一旦収納し、料理と分離した器だけを一瞬で元の場所へ戻したのだが、その様子をたまたま目撃した火野照子が――。
「イリュージョンか!」
――などと鋭いツッコミを入れ、花が慌てて話を逸らしたというハプニングも、今となっては良き思い出である。
『はい真綾様。熊野丸召喚と【船内空間】収納を繰り返すことで増やせるのは、船体と一緒に召喚されてきたものに限られ、【船内空間】に収納している現代の諸々は、増やせぬどころか異世界では補充すら不可能なため、在庫数の極めて少ない〈赤龍軒スペシャル昼定食〉は封印しておりましたが、今回ばかりは特別に解禁いたしましょう』
(セキスペ……)
ともかく、熊野のチラつかせた究極のエサに真綾がパクっと食いついたのは、至極当然のことであった。
そんなこととは露知らず、真綾の全身から立ち昇り始めた食欲のオーラを吉兆と受け取るゾフィーア。
(あら? なんだか急に覇気が増したわね、まるで極上の獲物を前にした肉食獣のようだわ……。料理の話を聞いてコンストニッツに興味が湧いたのかしら? ふふっ、これなら無事に落とせそうね。……エーリヒ様のせいで予想外の出費が決まったけど、これから得られる利益を考えたら安いものだわ)
見る者の肌も粟立つような笑みを冷たい美貌に浮かべると、彼女は最後の仕上げに取りかかることにした。
「少し性急だったかしら? まあ、いきなり領地などと言われたのでは、あなたも戸惑うでしょうね。それでは、別室に心尽くしのお料理を用意しているので、まずはそちらへ移り、ゆっくりとお食事しながら、コンストニッツ伯領の素晴らしさについて知ってもらいましょう」
真綾にとっては必殺の罠、豪華料理が待ち受ける饗宴の間へと、余裕しゃくしゃくの様子で誘うゾフィーア。真綾危うし、危うし真綾!
だがしかし――。
「ごめんなさい」
「え……」
いきなりペコリと頭を下げたカタストローフェを前に、またも笑顔を凍りつかせるゾフィーアであった……。
「セキスペなので」
「セキスペ?」
「じゃ」
わけのわからない単語を聞き返したゾフィーアに構わず、片手の肘から先をシュタッと上げ、さっきまでとは別人のような口調で別れを告げるカタストローフェ。……そう、調理技術が未熟なうえ、南北アメリカ大陸由来の食材も存在しない世界の料理と、はるか先をゆく世界の料理としてひとつの完成形である〈赤龍軒スペシャル昼定食〉、どちらを真綾が選ぶかは、火を見るより明らかだったのだ。




