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第八一話 エーデルベルクの薔薇 二四 火災


 真綾との名残を惜しんだ日の夜中、トイレに起きたグレーテルは、無理やり起こしたヘンゼルを連れ、孤児院の真っ暗な廊下を歩いていた。


「いっぱい出た出た! あースッキリした!」

「マーヤねえちゃんに貰ったジュースを調子に乗ってガバガバ飲むからだよ、強引に起こされる僕の身にもなってよね」

「お前はそう言うけどさあヘンゼル、あんだけうまかったんだから、しょうがないだろ。マーヤねえちゃんが帰ったらもう飲めないんだよ、飲み溜めだよ飲み溜め。あーあ、マーヤねえちゃんまた来てくんないかなー」

「もう……」


 ガサツな自称姉にヘンゼルが呆れていると――。


「あら、あなたたち」

「ギャッ!」

「ヒッ!」


 いきなり背後から声をかけられて、双子は仲良く跳び上がった。


「あらあら、驚かせてしまったわね、ごめんなさいね」

「……なんだ、院長先生かあ」

「ホッ……」


 声の主がランタンを提げた院長先生だと知ったとたん、揃って胸を撫で下ろす双子。そんなふたりを見て院長先生は目尻を下げる。


「おトイレかしら?」

「うん、いっぱい出たよ!」


 恥じらいもなく答えるグレーテル……この子はこういう女の子なのだ。


「院長先生は見回りですか?」

「いいえ、これから地下室へ行って、冬支度前のチェックをするところですよ」


 質問するヘンゼルに、院長先生は地下室の鍵をランタンで照らして見せた。

 長く厳しい冬が到来する前に越冬物資を備蓄しておくことは、生きるうえで極めて重要なことなのだ。


「じゃあ、僕もお手伝いします」

「あら、気持ちはとっても嬉しいけど、わたくしはひとりで大丈夫ですよ。子供の睡眠時間を奪うわけにはいかないわ」

「お手伝いさせてください。僕、なんか目が冴えちゃって」


 ヘンゼルからの嬉しい申し出を、やわらかく微笑んで断る院長先生だったが、気弱なヘンゼルに珍しく食い下がられると、これ以上遠慮するのも申しわけないような気がしてきた。


「……そうねえ、それではお願いしようかしら、ヘンゼルは計算が得意だから助かるわ。でも約束してね、少しでも眠くなったらお部屋に戻ること、いい?」

「はい!」


 大好きな院長先生のお役に立てるとあって、嬉しそうに返事するヘンゼル。本当によくできた子である。その一方……。


「ふあぁぁ……じゃあアタシ、眠いから先に帰ってるよ~」


 出すもの出して眠くなったグレーテルは、フラフラと自分たちの部屋へ帰っていくのであった……。

 ともかくこうして、院長先生とヘンゼルは倉庫として使っている地下室に入り、冬支度前の物品チェックを開始した。

 かつて下級貴族の屋敷だったという孤児院には、一般的家屋のそれよりも地下深くに、かなり大きい地下室……というより、地下倉庫があり、一年中ほぼ一定の温度を保ってくれるため、たくさんの子供を抱える孤児院としては重宝しているのだが――。


「院長先生、今、何か聞こえませんでした?」

「さあ? わたくしには何も……」


 持ってきたロウソクランタンの他は、扉の脇に灯るオイルランプの心もとない明かりだけが、暗闇の一部を薄ぼんやりと照らすなか、かすかに扉の向こうから物音が聞こえてきたような気がして、たちまち不安になったヘンゼルは、ライ麦袋を数えている院長先生に尋ねてみた。

 しかし、音など聞こえなかった院長先生は不思議そうに首を捻るばかり。

 こうしてふたりは、地上から隔絶されたようなこの場所で、何ごともなかったかのように作業を再開するのだった……。


      ◇      ◇      ◇


 ヘッケンローゼ帝立学院の学生寮は学生団ごとに分かれ、エーデルベルク市内に点在している。そういった学生寮のひとつ、レーン宮中伯領の学生団であるレーン団の寮は、木造建築が立ち並ぶ古い街区のすぐ近く、つまり、各寮のなかで最も孤児院に近い場所にあった。

 その夜遅く、寮の自室で熟睡していたレオンハルトは、けたたましいノックの音で目覚めた。


「なんだ、こんな夜中――」

「ランツクローンさん! 外、窓の外を見てください!」


 睡眠の邪魔をされた彼が不機嫌そうに扉を開けると、部屋へ転がるようにして飛び込んできたイグナーツが、尋常ではない様子で窓のほうを指差したではないか。

 その様子から、何か良くないことが起きていると察したレオンハルトは、弾かれたように窓際へ駆け寄り――。


「なんてこった……」


 ――絶句した。

 闇に包まれているはずの都市の一角が、赤い炎に煌々と照らされているのだ。

 孤児院の建っている一角が……。


      ◇      ◇      ◇


 この日、エーデルベルク市街の一角にある孤児院から発生した火災は、その街区が木造建築の密集地なうえ、晴天続きで空気が乾燥していたこともあり、一気に燃え広がるかと思われた。

 今や孤児院に隣接する建物にも火が燃え移り始めた火災現場で、何もかもが炎の色に染められているなか、忙しく動き回るいくつもの影が――。


「フローリアン様、住民の避難、完了しました! これで周囲の建物内には誰もいません! これから僕たちも水運びに加わります!」

「はい、お願いします! ――よーし、やっとボクたちの出番だね、レオンハルト! こっちはボクとアインヘアで崩すから、きみはあっちをお願い!」

「任せろ!」


 住民の避難誘導をしていた学生の報告が終わるや否や、剛力を誇るフローリアンとアインヘア、そしてレオンハルトが、孤児院に隣接する建物の破壊を始めた。延焼防止のため古今東西を問わず行われている、破壊消防というものだ。


 ブシャァァァッ!


 空中では、川から帰ってきたグラーネが火災現場に風を送らないよう注意しつつ、飲み込んでいた川水を吐きかけると、ふたたび川へ向かって飛んで行く。この放水によって、火元である孤児院はともかく、隣家の一部に移っていた火が目に見えて弱まった。

 その他にも――。


「二階、及び屋根裏の捜索完了、要救助者ナシ! 思ったより火の回りが早い、イグナーツはサラマンダーだけ残して出てこい! 代わりに私の守護者を一階へ降ろす! かわいそうだが、ヴォルパーティンガーとラタトスクは、召喚解除されるまで引き続き一階を捜索!」


 炎の影響を受けないポルターガイストに孤児院内を捜索させ、自らは玄関前の小広場で捜索隊の指揮を執るライナー。

 最初期に捜索救助活動をしていたコーボルトたちは、火勢が強くなったため、今は水運び(いわゆるバケツリレーである)の手伝いに回してある。

 現在、孤児院内で活動しているのは、炎に強いポルターガイストとサラマンダー及びイグナーツ、決死隊として、感覚の鋭いヴォルパーティンガーたちと、イグナーツとの通信係や要救助者への声がけ役も兼ねてのラタトスクたちだ。

 イグナーツに同行させているラタトスクを通し、ライナーからの指示を舎弟が伝え、決死隊の契約者が守護者の消える瞬間まで意識を集中させているころ、彼らから少し離れた場所では、治癒魔法を使える出っ歯が――。


「フゥゥゥ……。これで大丈夫でゲス。さて、お次は――」


 ――と、孤児院スタッフの女性から吸い取った黒い霧を空へ向けて吐き出し、彼女の容態を確認すると、すぐさま次の患者の治療へと取りかかっていた。無論、そのとなりでは、彼のカラドリオスも同じように頑張っている。


「貴族の坊っちゃんたち、すごいじゃないか」

「ああ、見直したぜ……」

「惚れ惚れするねぇ」


 バケツリレーをしている住人たちが感心するように、レーン団の活躍は目覚ましいものであった――。

 現場の街区を受け持つ夜警や住民たちが右往左往するなか、颯爽と駆けつけたレーン団は、極めて迅速に部隊を展開すると、それぞれが的確で無駄のない行動を起こし、こうして懸命に働き続けていたのだ。

 たかが庶民の、それも孤児ごときを救うために危険を冒し、労を惜しまない貴族たち、そんな、おとぎ話のような光景を目の当たりにして、ここにいる住人たちは何を思っただろう……。


「スゥ……はぁぁ、無垢な少女の香りブヒィ……スゥゥゥゥゥゥ……。ブフゥゥゥ……」


 意識を失って横たわるグレーテルの匂いを嗅いで、興奮する変態……ではなく、あくまでも真摯に治療を行う白豚……。

 幼いながらも整った顔と子鹿のように細い手足から、火傷がきれいに消えたのを見て、彼がブフウと安堵の息を漏らした、その時――。


「院長先生が、院長先生のお姿が見えません! 子供もひとり足りません!」


 子供たちの無事を確認していた孤児院スタッフのひとりが、悲鳴のような声を上げた。彼女自身、駆けつけてきたレーン団に止められるまで、子供を救うため何度も孤児院内へ入ったせいで、顔は煤けて疲れ果て、衣服もボロボロの状態だ。


「何ィ!? じゃあ、まだ中にいるってのか!」


 その時、ちょうど外へ出てきたイグナーツが、彼女の声を聞いて後ろを振り返った。

 今まで孤児院内で捜索活動していた彼にはわかる、あそこで燃え盛っている炎の温度は、フローリアンやレオンハルトでさえ耐えられぬほどの高温だ。しかも、今や有毒な煙まで充満している。あの中に誰か取り残されているとしたら、もはや絶望的……。


「……い、院長先生と……ヘンゼルが、地下室に……」


 聞こえてきた弱々しい声の主を振り返り、イグナーツはハッと息を呑んだ。そこにいたのは、白豚のおかげで意識を取り戻したグレーテル。……そう、数日前に彼が泣かせてしまった孤児のひとりだ。


(たしか、ヘンゼルって……)


 我知らずポケットの中に手を突っ込み、キレイに折りたたんである布を握りしめるイグナーツ――。

 あの日、学食前で気絶していた彼が目覚めた時、水で濡らしたボロ布が額の上に載せられていた。

 舎弟が言うには、あの孤児のうちヘンゼルと呼ばれていた子が、広場の噴水で濡らしてきた布を載せてくれたのだとか、あれほどひどい言葉を浴びせかけられたというのに……。

 一度は捨てようかとも思ったその布を、イグナーツは結局、捨てることができずにいたのだ。


「ボクが入る!」

「俺が!」

「いけませんフローリアン様! レオンハルトも! いくらあなた方でも、あの高温には耐えられません! 救助ならポルターガイストに任せて、ここは破壊消防に専念してください!」

「でも!」

「見殺しにできるか!」


 鋭い聴覚によりグレーテルの声を聞きつけ、フローリアンとレオンハルトが今にも孤児院へ飛び込もうとしたため、ライナーは必死になって制止したが、院長先生とヘンゼルを心配するふたりは猛然と食い下がる。

 そのやり取りをどこか遠くのことのように聞きながら、ギリッと歯を食いしばったあと、イグナーツは右足を前に出す、そして、次は左足を――。


「おい! やめろイグナーツ! いつ崩壊し始めてもおかしくないぞ!」

「危ないですよ、アニキィ!」


 ライナーや舎弟の制止する声も聞かず、イグナーツは孤児院の中へ飛び込んでいった。弱者につらく当たっていた情けない自分と決別し、そんな自分さえ気遣ってくれたヘンゼルに報いるため、轟々と燃え盛る炎の中へと――。


      ◇      ◇      ◇


 真綾とエーリヒが滞在している高級宿は、孤児院からかなり離れた街区にある。

 その夜、宿の一室で熟睡していた真綾は、なぜか急に目を覚ました――。

 ちなみに、隣室を取っているエーリヒは、翌日にエーデルベルクを離れるということもあり、宮中伯から城での晩餐に呼ばれたため、そのまま今宵はラインハルトと呑み明かすそうだが、この際それはどうでもいいので真綾に話を戻そう。

 ――彼女は何を思ったか、すぐに窓際へ行くと窓を開け放ち、はるか向こう、孤児院のある方角の空が赤く染まっているのを認めたとたん――忽然と姿を消した。




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