第八〇話 エーデルベルクの薔薇 二三 薔薇園にて
フローリアンの心も晴れ、ようやく食事を始めた三人だったが、意外にも健啖家であったフローリアンと大食い魔人により、うずたかく積み上げられてゆくカニ足の殻を前に、エーリヒがポカンと口を開けていたことは……まあ、どうでもいいだろう。
やがて食事休憩も終わり、学生側陣地である廃城前の広場で、現在は予定どおりエーリヒと真綾が指導して、学生たちの武術訓練を行なっているところだ――。
「どうした! さっさと回復してやらんか!」
「も、もう無理でゲス……」
「ああん!?」
「ヒィィィ……」
疲れ果てているにもかかわらず、怪我をした学生の回復をエーリヒに強要され、力なく悲鳴を上げる出っ歯。
「ま、参りました! え……」
小手を打ち据えられて降参したものの、地面に落ちたロングソードを木刀の先で指す真綾を見たとたん、血の気と言葉を同時に失うイグナーツ。
彼らだけではない、すでに白目を剥いて転がっている白豚を始め、もはや学生たちは死屍累々といった有様であった……。
そんななか――。
「ハア、ハア、……さすがエックシュタイン先生だ、陸上でも恐ろしく強ぇ。――あー、とうとうワインが切れちまった」
「ボクの飲む?」
レオンハルトが革水筒を逆さにし、水割りワインの残る一滴を口に落としていると、となりで同じく水分補給していたフローリアンが、自分の使っている革水筒を差し出した。
その飲み口と薄紅色した唇の間を、レオンハルトの視線が往復する。
「ほら、遠慮しないで」
――などと言ってフローリアンは微笑むが、汗で濡れたアッシュブロンドの髪が白い肌に張り付き、これがまた妙に艶めかしい。かすかな汗の匂いまでも花のように甘く、蠱惑的にさえ感じられた……。
ドクンと心臓を高鳴らせ、耳まで真っ赤になるレオンハルト。
『……行くとお決めになったとたん、フローリアン様もグイグイお攻めになりますね。……いえ、ひょっとしたら、アレを無自覚でやっておいでなのかも。そうだとしたらフローリアン様、なんて恐ろしい子……』
そんなふたりの様子を観察し、フローリアンの隠れた素質に戦慄する熊野……。
ともかくこうして、若者たちの苦痛と恐怖と絶望と、一部甘ずっぱい想いをはらんだまま、地獄のピクニック初日は過ぎていったのであった。
……そう、ピクニック〈初日〉は。
◇ ◇ ◇
ピクニック初日と同じあの場所で、やはり午前中は模擬戦を行い、昼食後は午後三時まで武術指導、ようやくそれが終わると、疲労困憊のままエーデルベルクまで行軍させられる学生たちを尻目に、自分とエーリヒはゴルトに乗ってさっさと帰り、その足で孤児院へ直行し宿の夕食時間前までカワイイ成分を補充する。そんな忙しい真綾の毎日は、結局、初日も含め五日間に及んだ。
そして今日はその最終日、午後の武術訓練も終了し、いつもの廃城前に今、エーリヒの声が朗々と響き渡っていた――。
「よいかこわっぱども! 貴様らはキュウリじゃ! しかし、このわしが保証する! この五日間を生き抜いた貴様らは、ちっとは使えるキュウリになった! もっと使えるキュウリを目指し、これからも日々精進を怠るな!」
「はい、閣下!」
ちなみに、エーリヒがやたら「キュウリ」を連発しているが、この国でキュウリは役に立たないものの代名詞なのだ。
「我らが守護者を授かったのは奢侈のためでは断じてない! 弱きを守るために貴族があることを忘れるな!」
「はい、閣下!」
「強敵を前にしても怯むな! いかなる状況下でも諦めず、常に頭を働かせて最善を尽くせ!」
「はい、閣下!」
「死を恐れず、しかし絶対に無駄死にはするな! 人知れず命を落とそうとも、己自身が胸を張れる死であればそれでよい! つまらん名声など豚にくれてやれ!」
「はい、閣下!」
鬼気迫るエーリヒの演説に、直立不動で整列した学生たちが声を揃えて返事をする。彼らの瞳に危険な光が宿っているのは、果たして気のせいであろうか……。
「よし! ――それでは最後に、カタストローフェからも何か言葉はないかの?」
学生たちの様子を満足げに眺めたエーリヒは、となりでヌボーッと立っている真綾に話を振った。……偽名のほうは無事に覚えたらしい。
そんなエーリヒに真綾が歩み寄り何やら耳打ちすると、彼は神妙な面持ちで頷いてから、ふたたび声を張り上げる。
「――ふむ、なるほど。――よいかこわっぱども、これからカタストローフェの言葉を伝える、唱和せよ!」
「はい、閣下!」
学生たちの完璧に揃った返事を聞くなり真綾が〈鬼殺し青江〉を天に突き上げると、すぐさまエーリヒはランスを掲げ、彼女の言葉を高らかに唱えた。
「死して屍、拾う者なし!」
「死して屍、拾う者なし!」
すると、一糸乱れぬ動きで自分たちも武器を掲げ、テレビ時代劇のセリフとも知らず唱和する学生たち。その瞳に異常な光を宿したまま……そう、五日間にも及んだ地獄の日々により、彼らは完璧に仕上がっていたのだ……。
「死して屍、拾う者なし!」
「死して屍、拾う者なし!」
こうして、熱に浮かされたような野郎どもの声が、この日、幽玄なたたずまいを見せる廃城の前に、何度も何度も響いたのであった……。
◇ ◇ ◇
「もう、レオンハルトってば、こんなに汚しちゃって~」
「お、おう……」
フローリアンに口の端を拭いてもらい、ドギマギするレオンハルト。
長年抑えていた感情が解き放たれたせいか、フローリアンは積極的に彼の世話を焼くようになっていた。
「あーっ! レオンハルトにいちゃん、照れてらー!」
「ホントだ、顔真っ赤だ!」
「バ、バカ! うっせ!」
グレーテルたちに冷やかされ、赤い顔でうろたえるレオンハルト……。
「にいちゃんが怒った! みんな逃げろー!」
「キャー!」
「待て、悪ガキども!」
キャッキャと蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた子供たちを、口のわりに楽しげな表情でレオンハルトが追いかけていると、フローリアンの脇を通りかかった四歳ほどの子が、急に足をもつれさせて転びそうになった。
「危ない!」
「危ねえ!」
とっさに動き、その子を同時に抱き留めたフローリアンとレオンハルトだったが……。
「よかった、無事だね」
「気をつけろよ」
「うん、ありがと…………おねえちゃんとおにいちゃん、ママとパパみたい……」
ホッとしたあと揃って声をかけた子に腕の中から笑顔でそう言われ、自分たちが幼子を抱く夫婦のような姿になっていることに、ふたりは初めて気がついた。
「あ……」
思わず至近距離から顔を見合わせてしまったふたりは、揃って小さい声を上げると、慌てて相手の顔から目を逸らしたが、腕の中で幸せそうにしている子を落とすわけにもいかず、互いの体温と息遣いを意識しつつ、しばらくの間、嬉し恥ずかしの現状を維持し続けるのであった。
そんなふたりを遠目に――。
『見事な薔薇ですねえ……』
(薔薇の匂いが濃いです……)
秋薔薇特有の濃厚な香りに包まれた中庭で、熊野と真綾はマッタリしていた……。
遅れてしまったが説明しよう、今日は地獄の五日間最終日の翌日である。
エーリヒと宮中伯との取り決めも無事に終わり、明日にはレーンガウへ戻るということで、真綾はお別れとカワイイ成分の最終補充も兼ねて、今日は朝から夕方までマッタリと孤児院で過ごすことにしたのだ。
最後の晩餐ではないが、お別れの昼食を真綾が大盤振る舞いしていたところに、レオンハルトとフローリアンがヒョッコリやってきたため、彼らも仲間に入れて和気あいあいと食べ終え、今に至っているというわけである。
「よし今だ! 攻撃開始!」
「わー!」
「わっ! なんだお前ら!?」
グレーテルの号令一下、レオンハルトの体によじ登り始める幼児軍団と――。
『のどかですねえ……』
(のどかです……)
それを眺めてマッタリモードの熊野と真綾……。
木組みの美しい木造建築が軒を連ねる街区にあるこの孤児院は、使われなくなった古い建物を宮中伯が下賜してくれたもので、小広場に面した玄関とは反対の側に、三方を建物に囲まれた中庭があるのだが、花好きな院長先生と孤児院スタッフの女性たちの手によって、今や薔薇園と称しても過言ではないほどにまでなっていた。
この美しく優しい場所を、熊野と真綾はすっかり気に入っていたのだ。
『――あら、笑いましたよ、きっといい夢を見ているのでしょうね。本当に愛らしいこと……』
(はい……)
スヤスヤと寝息を立てている赤ちゃんを腕の中にそっと見下ろし、脳内にもかかわらず声を潜めて会話する真綾たち。
実は、天使のような寝顔を見て内心デレデレしていたところ、院長先生が抱かせてくれたのだ。
その院長先生が、やわらかく真綾へ微笑みながら、育ちのよさを窺わせる淑やかさで礼を述べる。
「マーヤ様、今日はごちそうになりました。見たこともないお料理の数々、どれも驚くほどおいしくて、たいへん素晴らしいものでございましたわ。あれほどの美味、貴族はおろか王侯でさえ口にしたことはないでしょうね。子供たちの大喜びする様子ったらもう、……ふふっ、……わたくし、思い出しただけで笑いが込み上げてきます」
真綾によって料理やデザートが出現するたび歓声を上げ、それらを口に入れるごとに大騒ぎしていた子供たち。
大食い対決の様相を呈した真綾とフローリアンに声援を送る子供たち。
にぎやかなその様子を思い出して、院長先生は心から幸福そうに笑った。
それから彼女は、しばらくの間、レオンハルトやフローリアンと遊ぶ子供たちを慈しむように眺めていたが、やがて、真綾の腕の中にあるあどけない寝顔へ視線を落とすと、慈愛の眼差しはそのままに、愁いを帯びた声で語り始めるのだった。
「亡くなった親がギルドやツンフトの組合員……つまり有力商人や職人の親方衆なら、そちらで養育先をお世話してもらえるのでしょうが、それはほんの一部……。都市に住む者の大半は、居留民や零細民といった貧しい者たちですから、多くの孤児や捨て子は、こうして孤児院に保護されるか、……あるいは死んでしまうか、生き延びたとしても、過酷な人生を歩むことになってしまいます……」
悲しげにそう言ったあと今度は真綾へと視線を移し、やわらかな、それでいて力強い笑みを浮かべる院長先生。
都市住人なら誰でも知っていることを、こうして彼女がわざわざ話すのは、真綾のことを深窓の令嬢だと思ってのことか、はたまた、世情の違う異国から来た貴族と推測してか、いや、あるいは……。
「わたくしは、そうした子供たちを可能な限り救いたい。……そして叶うならば、ここを巣立っていった子供たちが、いつの日かここでの日々を思い出した時、記憶にある自分やみんなの顔が笑顔であってほしいのです。……その思い出さえあれば、苦しいときも悲しいときも、心の傷を少しでも癒やすお薬になってくれるでしょう。それに、道を見失いそうになったときの、しるべともなるでしょうから」
――ああ、なんて大きい人なんだろう――。
目の前でやわらかく笑う彼女の瞳に、祖父にも似た深い慈愛と揺るぎない意志を認め、真綾の心は震えるのであった。
そんな真綾を、院長先生の穏やかな声が包み込む。
「貴族の世界で生きていたわたくしにはわかります、マーヤ様のお力が、神と契約した王にさえ勝るとも劣らないものであると。……ここへいらっしゃってからの毎日、あなたはその御業をもって、子供たちに笑顔をくださいましたね、心からの笑顔を。……前にも申しましたが、この子たちは大きくなっても、女神様のようなあなたに笑顔を頂いたことを、決して忘れないでしょう。そして、いつの日か、この思い出がこの子たちを救ってくれるでしょう」
「…………」
たしかに彼女の言うとおり、女神に等しい存在から直に恵みを貰う、などということは、孤児はもちろん庶民にとって奇跡以外の何ものでもなく、その鮮烈で幸福な記憶が子供たちの心から消えることは、おそらく生涯ないであろう。……だが、真綾の思いは違っていた。
――褒められるべきは自分ではない――。
なんと返せばいいかわからない真綾の前で、なおも院長先生は続ける。
「マーヤ様、あなたはわたくしの願いを叶えてくださいました。……あなたは本当に女神様なのかもしれませんね」
そこまで聞いたところで首をフルフルと横に振り、口下手ながらも、ようやく真綾は言葉にした。目の前にいる偉大な人へ、自分の正直な気持ちが少しでも伝わるように。
「私は何も……。院長先生のほうが、ずっと偉いです」
その言葉を耳にしたとたん院長先生の目は丸くなり、見る見る涙が溢れてきた。
――報われた――。
子供たちのためにしてきたことを、彼女自身が苦労だとは思っていないにしても、それを人に……それも、女神のごとき存在に心から認めてもらえたことは、やはり、感慨深いものがあるのだ。
「ありがとうございます、わたくしの優しい女神様……。どうかいつまでも、あなたのままでいらしてくださいね。――そして、あなたの未来に光あらんことを」
涙を拭ってそう言った院長先生の笑顔を、真綾が忘れることはないだろう。




