第七七話 エーデルベルクの薔薇 二〇 模擬戦終結
レオンハルトがフローリアンの加勢に入るより、少し前のことである。
吊るし大根たちのぶら下がっている場所に、両腕をダラリと垂らし足取りもおぼつかないライナーが現れ、何を思ったか、一番下の大根を縛っている縄に噛みついた。
「ライナー!? そんな状態できみは何を――」
「今からきみたちを解放するから、治癒魔法の使える者は私の腕を治してくれ。……この命に代えてもお守りすると、私はフローリアン様に誓ったんだ」
驚いて尋ねる同級生に、真剣な声でそれだけ答えてから、ライナーはふたたび縄を噛み始めた。……だが、渾身の力を振りしぼっているというのに、太く丈夫な縄は切れる気配さえ見せてはくれない……。
(切れろ! 切れてくれ! 早くしないとフローリアン様が!)
いつもの冷たく整った顔からはほど遠い必死の形相で、歯茎から血を流しながらも縄を噛み続けるライナー。ひたすらそれのみに集中していた彼は、急にかけられた声で我に返った。
「見ちゃいられねえ……。先輩、そこどいてくれよ」
その声の主を確かめてライナーは目を見張った。そこにいたのは――。
◇ ◇ ◇
陸上戦におけるレオンハルトの才は、残念ながら、異常個体であるフローリアンには劣っていた。また、フローリアンとの連携も、守護者であるアインヘアほど完璧ではない……。
だが、それでも彼の戦闘能力は非常に高いものであったし、フローリアンとの息も不思議なほど合っていた。
さらに――。
『先ほどは一方が守護者でしたので強引に突破できましたが、どちらも人間、それも、これほどお強い方々だと、本当にやりづらいですね……』
――そう、熊野の言うように、彼らが相手だと手加減が非常に難しいのだ。
大太刀を使い相手に重傷を負わせず勝つためには、かなり方法が限られてくるのだが、なまじ相手の能力が高いぶん、これが容易ではない。
特にフローリアンなどは、やたら敏捷なうえ思いもよらぬ動きをするので非常に厄介だ。寸止めすればよかろうと、あるいは、手足を少し斬れば問題なかろうと、真綾が超高速で振るった刃の軌道上に、たまたまフローリアンの首でも高速移動してきたらどうなるか……。
もちろん、相手がひとりならば、レオンハルトと一騎討ちした時のように、背後を取って大太刀の棟をそっと置く、などという小粋なこともできるのだが、ふたりがかりで上手く連携されてはそうもいかない。
真綾の本心を言えば、好印象しかない両名には重傷どころか傷ひとつ与えたくないのだが……。
そんなわけで、不幸な事故を避けるため大太刀を振るうこともままならず、さりとて、時代劇の主人公的勝利を演出したいがため、大太刀を完全に手放して勝つわけにもいかず、真綾はジレンマを抱えたまま、ふたりの猛攻をひたすら躱し続けているのだ。……いや、妙なこだわりを捨てればいいだけでは……。
一方、レオンハルトは焦り始めていた。
(フローラ……さっきは強がっていたが、ずいぶんつらそうだな……。体力を回復する時間があった俺と違って、こんな無茶をし続けているんだから当然か……)
フローリアンの限界が近いことを、彼は察していたのだ……。
「フローラ、いったん距離を取るぞ!」
そう叫んで横殴りに振るうレオンハルトのランスを、真綾がなめらかな足捌きで後ろへ躱し、彼のとなりへフローリアンも下がったことで、双方の間に一〇メートル弱の距離が生まれた。
それは貴重な距離、そして大切な時間……。
肩で息をしている親友に、レオンハルトは語りかける。
「これから俺が時間を稼ぐ。その間にフローラは少し休め」
「ありがとうレオンハルト。……でもね、あの魔物の相手は、ふたりでやらなきゃ絶対に無理だよ。ボクなら大丈夫だから、気にしないで」
となりで気遣ってくれるレオンハルトに、精一杯の微笑みを浮かべて返すフローリアン。だが、その可憐な笑顔はどこか儚く、高く澄んだ声も今は弱々しい……。
「あんな無茶な戦い方を続けて大丈夫なわけがないだろう。頼む、少しだけでも回復を――」
お互い死を覚悟しているとはいえ、むざむざフローリアンが殺されるところなど見たくない、というのが本音だ。痩せ我慢する親友へ、レオンハルトが懇願するような声を上げていると――。
「野蛮人もたまには思慮深いことを言う」
彼らの背後から、皮肉な響きを含んだ声が聞こえてきた。
「ライナー!?」
その名を口にしつつ弾かれるように振り返ったフローリアンの瞳に、剣とダガーを左右に握った長身痩躯の若者が映る。……いや、それだけではない――。
「イグナーツ! お前ら……」
一緒に振り返ったレオンハルトは、そこに、炎の剣を携えたイグナーツと、ランツクローン派の仲間たち、そして、ノイエンアーレ派の面々の姿を見た。
「フローリアン様、復帰が遅くなり誠に申しわけございません。――ランツクロ……いや、レオンハルト、フローリアン様を守ってもらったこと、心より感謝する」
「ランツクローンさんも水くせえなあ、たまには俺たちにもカッコつけさせてくださいよ。――ノイエンアーレ、アレだ、…………今まで悪かったな……」
今や肩を並べ、敵視していた相手に感謝を述べるライナーと謝罪するイグナーツ。
……そう、カラドリオスの契約者(出っ歯)により密かに回復したランツクローン派が、ノイエンアーレ派を吊るし大根状態から解放し、自由になった者たちは、派閥内のカラドリオスの契約者(白豚)に回復してもらったのだ。
出っ歯と白豚だけが目に見えてゲッソリしているのは、頑張って治癒魔法を連発したせいであろう。
「みんな……」
「どいつもこいつも……」
困惑顔のフローリアンと呆れ顔のレオンハルト、そんなふたりのそばに、カラドリオスの契約者たちがヨロヨロとやってきた。
「ハァハァ……フローリアンたま、……す、すぐ終わるから、優しくするから恐くないブヒよ。……ハァハァ……ち、ちゃんと先輩から許可も貰ったブヒ……」
「ランツクローンさん、お、お情け頂戴しますでゲス……」
などと、ひとこと断ってから、彼らが大きく息を吸い込み始めると、フローリアンたちの体から黒い霧が立ち昇り、上気している顔の中心に大きく開いた鼻の穴へ吸い込まれてゆく……。
「あはぁぁ……甘い香りがするブヒィ……。我が生涯に一片の悔い無しブヒ……」
「はうぁぁぁ、男らしいニオイでゲスゥ……。もう思い残すことはないでゲス……」
力を使い果たした白豚と出っ歯が、恍惚とした表情のまま地面に倒れ、グイッとサムズアップした時、それまで限界寸前だったフローリアンとレオンハルトの体は、まるで嘘のように回復していた。
「ありがとう、楽になったよ。――みんな、本当にいいんだね?」
ふたりへ礼を言ってから皆の顔を見回すフローリアンに、彼らは力強く頷いた。ひとり残らず、一人前の戦士のような顔をして。
そんな彼らの様子に、顔を見合わせて微笑み合うフローリアンとレオンハルト。
「揃いも揃ってバカばっかりだぜ……。よし! お前ら喜べ! 〈諸侯級〉以上の大物が久しぶりに出現したんだ、このことは必ず帝国の歴史に残る! つまり、今日は俺たち〈レーン団〉が伝説になる日だ! 百年後の子供たちに憧れてもらえるよう、全員気合い入れて戦うぞ!」
「オオッ!」
嬉しそうにぼやいたあと、レオンハルトが晴れやかな表情で鼓舞すると、力強い声がそれに応じた。ランツクローン派でもノイエンアーレ派でもなく、晴れやかな顔をしたレーン団の声が。
最強の竜騎士に喰らいつくレオンハルトを目の当たりにして心震わせ、フローリアンの気高き戦いに心打たれた彼らは、己の卑小なるを知り、死という抗いがたき現実を覚悟した今、初めてひとつになったのである。
その光景を眺め、ニヤリとほくそ笑む者、空にひとり……。
「ふん、ようやくか……」
悪魔のごとき顔をしたエーリヒである……。
「……それにしてものう、盛り上がる気持ちはわからんでもないが、ここは演劇ではなく戦いの舞台じゃというに、こわっぱどもめ、敵を目の前にして何を悠長にやっておるのやら……。大半の学生と勘の鋭いあの娘が一応は警戒しておるようじゃが、いささか甘いと言わざるをえんのう……どれ、そろそろこの喜劇の幕を下ろすとするか……」
眉をひそめて嘆いたあと、エーリヒは地上へ向かって大声で叫んだ。
「おーい! 早う終わらんと、昼食が遅れるだけじゃぞー!」
すると、当然ながら驚いた学生たちは空を見上げる。エーリヒの言葉が自分たちへ向けられたものと思いつつ、その真意を理解できぬままに。
だが、その直後のことであった。
「!?」
誰よりも早く異変を察したフローリアンが、敵の姿があるはずの方向へ慌てて振り向き――。
「え……」
――漆黒のナニカが自分の視界を塞いでいることに、声を失った。
恐る恐る見上げるフローリアンの瞳に映ったのは、クワッと恐ろしげに開いた口から覗く、黄金の牙……。
あの距離をコンマ一秒で詰めてきた敵が、目の前にいるのだ……。それを、ようやくフローリアンの脳が理解した時、その細い肩に誰かがそっと触れ、フローリアンはこの世界から……一度消えた。
それはまさに一瞬のできごと、誰もが動くことすらできぬまま、その目前で確実に起きた畏怖すべき奇跡……。
「フローラ!」
真っ先に動いたのはレオンハルトであった。忽然と消えてしまった親友の名を呼びながら、その元凶であろう漆黒の魔神に猛然とランスを振るう。
「フローリアン様!」
「クソッ!」
彼に一瞬遅れ、ライナーがダガーを投げ、イグナーツも炎の剣を突き出した。
しかし、なんということだろう、それらの武器はことごとく、漆黒の体に触れると同時に虚しく消滅したではないか……。
「フローラをどこへやった!」
「フローリアン様を返せ!」
「バケモノめ、ノイエンアーレをよくも!」
それでも怯むことなく他の武器を手にし、仇敵を包囲し始めるレオンハルトたち。悪鬼のごとき形相をした彼らに他の学生たちも加わり、ついには厳重な包囲網が完成した。そのなかには、倒れていたはずの【治癒】持ちふたりまでが、憎悪に目を光らせて立っているではないか……。
今や彼らの中に圧倒的強者へ対する恐怖はない。――たったひとりで皆を守ってくれたフローリアンを、敵は無慈悲にも消滅させた――。そのことへの激しい怒りが恐怖をはるかに凌駕しているのだ。
――玉砕してでも、一矢報いてやる――。
学生たちの誰もが、そう心に誓った。
だが、こうして殺伐とした空気が満ちる川べりの平地で、またもや唐突に奇跡は起きるのだった。
「え……」
目の前の光景が一瞬で変わったことに驚き、ポカンと口を開ける可憐な顔……そう、漆黒の魔人が手をかざしたとたん、その下にフローリアンが出現したのだ。
「フローラ!」
「フローリアン様!」
「ノイエンアーレ!」
その名を口々に叫んだものの理解が追いつかない彼らの上へ、にわかに日を遮って影が落ち、それと同時に突風が叩きつけた。風にもめげず見上げれば、降下してくるゴルトの姿が、そして――。
「勝負あり! わしらの勝ちじゃ」
「え……」
思ってもみないエーリヒからの勝利宣言に、上を向いてポカンと口を開くレーン団の面々。
「なんじゃ、揃いも揃って間の抜けた顔をしおって。鈍いのう、……ホレ、よう見てみい」
呆れ顔でそう言うと、エーリヒはアゴをしゃくってみせた。
一斉にその方向を向いた学生たちが見たものは、片手を天高く突き上げている漆黒の魔人。そして、その手に握られ秋の風にヒラヒラと揺れているのは、リボン状になった赤い布……。
それから無言のまま、まず彼らの視線はアッシュブロンドの髪に集中し、次に黒い角に可愛く結ばれた赤いリボンへと移り――。
「なんじゃそりゃあぁぁぁ!」
一斉に声を上げるレーン団の面々……。そう、彼らはようやく、これが模擬戦であったことを悟ったのである。
それにしても、「昼食が遅れる」とのエーリヒの言葉ひとつで、あれだけこだわっていた時代劇の主人公的勝利をアッサリと捨て、一瞬でフローリアンに肉薄すると【船内空間】へ収納、リボンだけを分離した状態で再出現させるとは……。
真綾の食い意地恐るべし。
(取ったどー)
ヘナヘナと膝から崩折れる学生たちをよそに、雄々しく片手を突き上げたまま、脳内で勝利の雄叫びを上げる真綾であった……。




