第七六話 エーデルベルクの薔薇 一九 奮闘
大地を揺るがして後頭部から着地する巨体には目もくれず、大太刀を両手で構え直しフローリアンを警戒する真綾。その脳内に熊野が明るい声を響かせる――。
『うーん、二トン弱といったところでしょうか……まだまだ軽い軽いっ! やはり、こうして守護者を相手にするほうが楽ですね~。うっかり殺害しても再召喚可能とわかっておりますので、気を遣わずに思いのまま動けますから~』
……いや、熊野の本体と比べれば、アフリカ象でさえ羽根のように軽いぞ。
(死して屍、拾う者なし……)
真綾は真綾で、時代劇モードに入ったままのようである……。
ともかく、このように真綾たちは至って平常運転だが、その一方――。
「アインヘア!」
――と、仰向けに倒れたままピクリとも動かない巨体へ向かい、悲痛な表情でその名を叫ぶフローリアン……。
『いやあ、負けた負けた、完敗じゃ!』
「アインヘア!?」
いきなり脳内にアインヘアの重低音ボイスが響き、驚いてしまうフローリアン……。
『フローリアン様、お忘れですかな? たしかにあの体は、もはや使いものになりませんが、それがしは守護者ゆえ再召喚すれば元どおりじゃ』
(あ、そうだった! もう、心配しちゃったよー。――じゃあ、踏まれないように召喚解除しておくね)
どうやら、守護者である彼が不滅だということを、フローリアンはすっかり忘れていたらしい。何しろ、これまでアインヘアの敗北する場面など見たことがなかったのだ、致し方あるまい。
フローリアンはホッと胸を撫で下ろしてから、倒れたままになっているアインヘアの本体を、そそくさと召喚解除した。
その脳内に、さも愉快そうなアインヘアの笑い声が響く。
『ヌハハハハ、ご心配いただけて嬉しい限りですな。――それにしても、あのような強者がおろうとは、まったく世界というものは広うございますなあ。この身を軽く手玉に取った剛力も凄まじいが、間合いを詰めた今の動き、我が目をもってしても捉えられませなんだ……。しかもあやつ、どうやらあれで、まだ実力を出さず遊んでおるようじゃ。正直な話、かつて王にお仕えし、数多の強者を目にしてきたそれがしにも、あやつの底というものがまったく見えません』
感慨深げに敵の感想を述べていたアインヘアは、そこで一度言葉を切り――。
『……フローリアン様、今すぐお逃げくだされ。あやつ、〈王級〉やもしれませぬ』
――急に真剣な声になると、そう告げた。
同じころ、巨体が吹き飛ばされる光景を目の当たりにした学生たちは、皆、言いようのない無力感に襲われていた。
「……あ、あの巨体を、片手で……。アニキィ……」
「……俺には無理だ、あんなバケモノ……。格が違いすぎる……」
――と、すがるような舎弟の視線から力なく目を背けたイグナーツを始め、彼らが絶望するのも無理はない。〈伯爵級〉上位を瞬殺できるような存在など、もはや天災と呼んでも過言ではなく、そんな理不尽極まりない存在に、たかが下級貴族である彼らが敵うはずないのだから。
「嘘だろ……〈伯爵級〉上位の巨人が、一撃だと……。そ、そうだ! エックシュタイン先生なら、最強の竜騎士なら、あのバケモノだって――」
ひとつの希望に気づいたランツクローン派の学生が、エーリヒのいる空を見上げ、釣られて見上げた仲間たち諸共に固まった。
「なんで……」
彼らの希望であるはずの人物は、ただリントヴルムに跨がったまま動く気配すら見せず、厳しい表情で自分たちを睥睨しているではないか……。
「……まさか、自分たちで乗り越えろってのか……」
「眷属を使って監視しているはずのヴォルフスヴァルト教授が、この非常事態に姿を見せないのも、よくよく思ってみれば不思議でゲス……。きっと、教授たちは問題ばかり起こすアッシらのことを、これ幸いと見殺しにする気でゲス……。アッシらの人生は今度こそ終わりでゲス……」
なまじ希望を抱いてしまっただけに、それを失ったダメージは大きい。顔面蒼白になって崩折れる学生たち……だが、そんな彼らを――。
「諦めるな!」
――なんと、吊るし大根の一本が一喝した。
その声に驚いて自分を振り返った学生たちに、厳しい口調で言葉を続ける吊るし大根。
「卿らの目は節穴か! よく見ろ! フローリアンたまは微塵も諦めてなどいないぞ! ……ブヒ」
最も太い吊るし大根の懸命な言葉を聞いた学生たちは、一斉に戦場へ首を向け、そして見た。
天災にすら敢然と立ち向かってゆく、触れれば折れそうなほど華奢な体を――。
◇ ◇ ◇
(うわー〈王級〉かあ、そりゃ強いはずだよ。……でもね、アインヘア、みんなを捨てて逃げるわけにはいかないな。それに、このあと学長や宮中伯が来てくれたとしても、それまで近くの町や村の人たちに被害が出るだろうからね。――ボク、頑張ってみるよ)
撤退を進言するアインヘアにフローリアンが返したのは、可憐な外見に似合わぬ勇気と、そして、見た目どおりの優しさに満ちた言葉であった。
召喚契約を通して、その意志が揺るぎないものだとわかるだけに、こう言われてはアインヘアも観念せざるをえない。
『……ハア、まったくフローリアン様らしいご決断ですな。――よろしい、このアインヘアが加護、存分にお使いくだされ!』
(うん!)
こうして主従の腹が決まったところで、フローリアンはメイスを構え一歩踏み出した。
もはや、密かにサポートしてくれる者も心強い相棒の姿もなく、頼れるのは自分の華奢な体ひとつだけ……。
それでもフローリアンは前へ出る――。
「ボクが時間を稼ぐから、みんなは逃げて!」
――そう叫んだあと、羽根のように軽い体をアインヘアの剛力で加速させて。
疾風のように間合いを詰めると、フローリアンは真綾の頭へメイスを振り下ろした!
その一撃を神速の足捌きで横に躱す真綾――だが、唸りを上げて空を切っていたメイスが、なんと、急に軌道を変えて襲ってきたではないか!
『……やはり、こちらのお嬢様も、真綾様と同じく天賦の才をお持ちになり、お若くして無念無想の境地に至っておいでのようですね……』
回避不能なはずの攻撃をも無心に躱す真綾の中で、熊野はフローリアンの卓越した才に感心していた。
その後も巧みに位置を変え、変幻自在な攻撃を続けるフローリアン。相手がこう動けばこう、などとは考えず、ただ無心に、直感の赴くままに。
……そう、熊野が気づいているように、彼女もまた真綾と同じく、予知にも似た鋭い勘と人間の限界を超えた反射神経、それらを始めとする極めて高い戦闘の才を、生まれながらにして持った、異常個体とも呼べる存在であったのだ。
そのころ、ノイエンアーレ派の学生たちは――。
「ああ……フローリアン様、あなたという人は……」
「フローリアンたまは、僕たちのために死ぬ気ブヒ……」
そして、ランツクローン派も――。
「アニキ、……あいつ、自分を犠牲にして俺たちを逃がそうと……」
「ノイエンアーレ……」
――と、守護者を失ってなお懸命に戦うフローリアンの姿に、派閥の別なく心を打たれていた。
しかしその間も、真綾とフローリアンによる超高速の攻防は続いている。
『うーん、こうまで変則的な動きを高速でされますと、本当にやりづらいですね。うっかり〈鬼殺し青江〉が当たりでもしたら、お命を奪いかねませんので、こちらの速度と動きが制限されてしまいます……』
などと熊野はこぼすが、能力を限定したうえ力や速度も手加減してなお、傷ひとつ負わされていない時点で、真綾が圧倒的優位であることは明白だ。あとはどう勝つか、だけのことである。
そして、その時は遠くなかった。……超高速の、それも、力で慣性を強引に捻じ伏せたような挙動の連続は、強力なアインヘアの加護を受けているフローリアンにすら、大きい負担を確実に強いていたのだ。
「あっ」
ついに居着いてしまったフローリアンが、真綾に背後を取られて声を上げた。
そんなフローリアンの白く細い首へ、大太刀の棟をそっと当てようとする真綾。
だが――。
ブンッ!
風鳴りとともに襲ってきた物体を、ヒラリと飛びすさって真綾は躱した。
彼女を横殴りに襲ったのは、全長六メートルはあろう鉄製のランス。そして、それを振るったのは――。
「レオンハルト!」
――そう、これまでフローリアンの顔を立て、手出しを必死に我慢していたレオンハルトである。守護者を倒され孤軍奮闘するフローリアンの姿を前にして、とうとう堪えられなくなったのだ。
顔を輝かせて自分の名を呼んだフローリアンに、彼は少し言いわけじみた言葉をかける。
「フローラ、お前も守護者を倒されたんだ、邪魔だとは言わせないぜ」
「…………」
「どうしたフローラ! どこか痛むのか!?」
「あ、ううん、ボクは大丈夫だよ。……それよりレオンハルト、今、ボクのことを『フローラ』って……」
フローリアンからの返事がないため、その身を慌てて心配したレオンハルトであったが、遅れて聞こえてきた恥ずかしそうな声は、思わぬ事実を彼に告げた。
とたんに顔が真っ赤になるレオンハルト……。
「バッ、バカ! こんな時に名前なんてどうでもいいだろ!」
「どうでもよくないよ! ……だって、もう何年も、きみはボクのことを家名でしか呼んでくれなかったんだから……」
「う……」
潤み始めた明るいグレーの瞳を見て、言葉を詰まらせるレオンハルト……。
『…………こちらのお嬢様とレオンハルト様、もしかして……。なるほど、そういうことでしたか…………なるほど、そういうことでしたかっ! アリです!』
(…………)
そして、ふたりの甘ずっぱい空気を敏感に察知し、真綾の脳内で何やら勝手に納得しては興奮する熊野……。
そんな彼女をよそに、耳まで赤いレオンハルトが、フローリアンから目を逸らしてボソリと言う。
「……俺が悪かった……」
「え……」
アインヘア並みの聴力を持つフローリアンが声を上げたのは、聞こえなかったからではない。そんなことはレオンハルトにもわかっている。
――圧倒的強者を相手に、これからふたりで死に逝くであろう今、妙な意地を張っていても仕方がない――。
その考えに突き動かされている今、ついに彼は、思いの丈をぶちまけた。
「……もうこうなったら、ノイエンアーレだのフローリアンだのは関係ねえ、フローラはフローラ、あの日誓ったとおり、お前は俺の親友だ!」
「レオンハルト……」
――何年も待ち望んでいた言葉を、こうしてやっと聞けたのだ、死んでしまっても思い残すことはない――。
フローリアンの白い頬を涙が伝う。
「……あ、でも、その名前で呼ぶのは、ふたりだけのとき限定だよ」
「お、おう……」
『あらあら、まあまあ!』
涙を拭ったフローリアンが、薄紅色した唇の前に人差し指を立て、長いまつ毛に縁取られた片目をパチッとつむると、レオンハルトはさらに顔を赤らめて、心の動揺を悟られまいとバツの悪そうな返事をした。
それから無邪気に微笑み合うふたり、まるで幼いころに戻ったように……。
なぜか嬉しそうな熊野は……この際、放っておこう……。
「――さて、そろそろやつも痺れを切らしたころだろう。――フローラ、動けるか?」
「うん! 力みなぎってるよー!」
相手は強大、勝てぬことは百も承知だ。それでも、これから死へと向かおうとするふたりの心は、不思議と、今日の空のように晴れやかであった。




