第七〇話 エーデルベルクの薔薇 一三 竜騎士ふたり
向かい合ったまま互いに一度距離を取り、長大なランスを構える竜騎士ふたり。
(夢みたいだ……)
エーリヒの胸元にランスの穂先をピタリと向けつつ、レオンハルトは感動していた。
彼が粗野な振る舞いをするようになった理由は、思春期であることを含めていくつもあるが、やはり、次のふたつこそが最大の要因だったろう。
ひとつは、森で仲良くなったフローラの本名が、フローリアン・フォン・ノイエンアーレであり、日々募っていた感情が決して叶わぬものだと知ったこと。
そしてもうひとつ、消息不明だったエーリヒの死亡説が有力になったことで、〈いつの日か、憧れの英雄から指導を受ける〉、という夢が絶たれたうえ、彼の知る大人たちの幾人かが、エーリヒのことを過去の人間と呼んだこと……。
(あの人のことを『過去の人間』って言ったやつ、見てみろ! あの姿を! 直に感じてみやがれ! こうして向かい合ってるだけで鳥肌が立ってくるエゲツない気迫を! ……すげぇ……すげぇ! エーリヒ・フォン・エックシュタインは今でも強い!)
伝説の竜騎士、健在なり! 諦めていた夢が突如として叶ったのだ、こうしてレオンハルトが歓喜に打ち震えるのも無理はない。
しかし、むしろ夢の本番はここからである。はやる気持ちを抑え、これから始まる憧れの英雄との戦いへ、彼は静かに深く集中していった――。
それからどれだけ向かい合っていただろう……その時は唐突に訪れ、レオンハルトのリントヴルム、グラーネが動いた!
一方、エーリヒが乗るゴルトも即座に応じ、一直線に向かってくるグラーネに突っ込んでゆく!
垂直上昇の際に羽ばたく以外、飛行中のリントヴルムは翼をほぼ固定するため、現在のゴルトとグラーネも水平に大きく翼を広げている状態だ。つまり、双方の翼が邪魔になってしまい、騎士の馬上槍試合のようにすれ違えない。
それでは、竜騎士同士があえて正面から突撃し合うとき、彼らはどうやって戦うのだろう?
その答えのひとつが、これだ――。
(ほう、なかなか肝が据わっておるのう……。ゴルト、アレじゃ)
『アイヨ』
姿勢を変えぬまま突っ込んでくる胆力に感心しつつ、エーリヒが指示とも呼べぬ指示を出すと――ゴルトはクルリとロールして背面飛行に移った!
たしかに、こうして一方が逆さになっていれば、広げたままの翼も邪魔にならず、上下ですれ違うことが可能だろう。
しかし、元来、リントヴルムは背面飛行などしない。死後、人間と契約を交わして守護者となり、相棒とともに研鑽を重ねることによって、初めてそれが可能となるのだ。
こういった飛行技術こそ、まさに竜騎士としての腕の見せどころであった。
(さすがに上手い……)
惚れ惚れするようなその動きに舌を巻くレオンハルト。
背面飛行に移る際、未熟な者なら制御不能になって落下しかねないし、一人前の竜騎士でさえ少しは隙ができるはずなのに、人竜一体となったエーリヒとゴルトの、なんとなめらかで無駄のない動きか……。
だが、悠長に感心している時間はまったくない。レオンハルトはすぐにランスの角度を上方修整し、衝撃に備えてグラーネの背を挟む両脚に力を込める。
(頭は簡単に躱される、狙うは胸。リーチを稼ぐためにランスの柄はできるだけ端を握った。よし、あとは思いきり猿臂を伸ばせば、俺のほうが先に――!?)
自分の前方斜め上に高速接近してきたエーリヒの胸目がけ、渾身の力を込めたランスを突き出そうとして――レオンハルトは違和感を覚えた。
頭を上にして水平飛行中の彼と、背面飛行中のエーリヒ、お互い右手から突き出したランスは、本来なら平行にすれ違うはずなのに、エーリヒのランスが角度を変え始めた気がしたのだ。
「クッ!」
レオンハルトはとっさに上体を反らせた!
その刹那、天を見上げる形になった彼の鼻先を、なんと、エーリヒのランスが唸りを上げ、予想外の角度で通り過ぎていくではないか!
「危なかった……」
天を見上げたまま思わず声に出してから、レオンハルトはようやく理解した。今、エーリヒが何をやったのか……。
相手の突きに突きで応じるのではなく、絶妙なタイミングでリントヴルムを横滑りさせ、攻撃を躱すと同時に相手を横薙ぎにする。
その発想も恐ろしいが、それを本当にやってのける技量のなんと凄まじいことか……。
(やっぱり、すげぇ……)
神技を目の当たりにしたレオンハルトが、恐怖と感動ない交ぜになった感情で震える一方、エーリヒも大きくゴルトを旋回させながら、今の一撃を見事に躱してみせた彼に感心していた。
(ほう、あれを躱しおったか……。よし、ゴルト、次は追いかけっこじゃ)
『エーリヒ、ズイブント、タノシソウジャナイカ』
(当たり前じゃ、やはり空はよいのう!)
『ハハハ、ソノトオリ!』
何者にも縛られることのない空を自由に駆ける喜びを、そして、強敵と空中戦を繰り広げるときの血の滾りを、いつから彼は忘れていたのだろう……。
ともに数多の死線をくぐり抜けてきた相棒と、脳内で少しだけ笑い合ってから、エーリヒは若き竜騎士の横へゴルトを寄せていった。
「小僧、今のはほんの挨拶程度じゃ、見事わしを落としてみよ」
レオンハルトの横でそれだけ言うと、並走状態からゴルトを一気に加速させてゆくエーリヒ。
「はい!」
その背中を子犬のように追いかけ始めたレオンハルトの中に、あの鬱屈とした澱は微塵もなかった。
(来たな……。どこまでついてこられるか、楽しみじゃわい)
彼がある程度まで追いついたのを見計らい、エーリヒはさらに加速させ、急角度をつけての右旋回、水平に戻してからの左旋回と、遊ぶようにゴルトを操り始める。
「何クソ!」
その一方、我知らず声に出しながらも、エーリヒの後ろに喰らいついてゆくレオンハルト。
空の上を自由自在に飛び交うリントヴルムたちの様は、さながらレシプロ機同士の空中格闘戦のようだった。
尻尾の先に毒を持つものの、熊野たちと違い後ろに目があるわけでないリントヴルムと竜騎士は、死角を取られたほうが圧倒的不利となる。そのため、こうした背後の取り合いはレシプロ機と同様に熾烈を極め、当然レオンハルトも、振り切られまいと必死にグラーネを操っているのだ。
(しぶといのう……。よし、ゴルト、今度はアレじゃ)
『ウレシソウニ……。アイヨ』
レオンハルトが急降下からの急上昇にもついてきたところで、エーリヒは何やら指示を出した。その嬉々とした様子にゴルトは呆れ声で返すと、水平飛行の状態で一気に最大速度まで持っていく。
そして――ゴルトの姿が、レオンハルトの視界から忽然と消えた!
(来た!)
その消失を知っていたかのように、迷わず視線を上げるレオンハルト。
そこにいた、速度をほぼ殺すことなく上方宙返りに入ったばかりのゴルトが!
――そう、カールがワイバーン戦で使ったインメルマンターンを、その師であるエーリヒは使おうというのだ。
だがしかし……。
「おお!」
一気に高度を稼ぎ背面飛行に移りかけたところで、今度はエーリヒが声を上げた。
彼は見たのだ、ゴルトと同じループを描き上昇してくるグラーネの姿を!
◇ ◇ ◇
斜面を駆け下り森を抜けたノイエンアーレ派の面々は、そこで、ニクロス川に足留めされているランツクローン派に追いついたのだが、ほどなく、彼らの様子がおかしいことに気づいた。
「妙だな、ランツクローン派の連中、揃いも揃って上だけを見ていないか?」
「……ぜえ、ぜえ、……本当、ブヒ……。拳を……握り……しめて……えらく力が入ってる……ブヒ……。いったい、上に……何が…………ブヒッ!」
息も絶え絶えな色白ぽっちゃり系学生を始め、何げなく空を見上げたノイエンアーレ派の面々は、そこに、熾烈な空中戦を繰り広げる二体のリントヴルムを見て絶句した。
自在に飛び回る一体の後ろを、もう一体が離されまいと追いすがっているようだ。それが守護者を駆るエーリヒとレオンハルトであることは容易に理解できた。黒マントが見えることから考えて、追っているほうがレオンハルトなのだろう。
やがて、伝説の竜騎士の神技とも呼べる飛行技術と、それに必死で喰らいつくレオンハルトを見ているうち、学生たちの間に変化が――。
「ヨシ!」
「ランツクローンさん、すごいでゲス!」
「負けるなランツクローン!」
「行くブヒィ!」
なんと、ランツクローン派のみならず、敵対するノイエンアーレ派からも、レオンハルトを応援する声が上がり始めたのだ。
そして――。
「ヤベェ! なんだ、先生のあの動きは!?」
「とんでもない速度で宙返りしたでゲス!」
「いや、ランツクローンも負けてない! 行け!」
「おおっ! やったブヒ! やったブヒィィィ!」
レオンハルトが見事にインメルマンターンを成功させ、エーリヒの後ろにピタリとついた瞬間、派閥を超えて肩を抱き合い、歓声を上げる学生たちであった。
◇ ◇ ◇
地上で沸き起こった歓声を耳にしながら、エーリヒはひとり納得していた。
(そうか、思い出したぞ。小僧の親父を今の技で何度か手玉に取ってやったのであったわ。さてはあやつ、密かに研究して息子にも教えておったな。……よし、ゴルト、都合のよいことに今日は一騎討ちじゃ、今度はアレをやってみよう)
『アレネェ……。アレハ、アマリ、スキジャナイガ……ワカッタヨ』
悪い笑みを浮かべてエーリヒの出した指示を、渋々といった様子で了承するゴルト……。リントヴルムの嫌がるアレとは、いったい……。
(よし! 俺たちは充分やれてるぞ! グラーネ、そのまま離されるな!)
『ハーイ』
一方、レオンハルトは、憧れの英雄に喰らいつけていることに自信を深めつつ、再加速したゴルトを追うようグラーネに指示を出した。
(……さあエックシュタイン先生、いったい次は何をやる気だ? もし、またアレをやる気なら、何度だってついていってやる!)
そうやって闘志を滾らせるレオンハルトの前で最大速度に達すると――ふたたびゴルトは姿を消した!
しかし、種がわかっていればどうということはない、ほんの一瞬だが、上昇に入るゴルトの挙動をレオンハルトは捉えていたのだ。
つまり、再度あの技を使ったにすぎない。
(よし! グラーネ!)
即座にグラーネを急上昇させるレオンハルト、だが――。
(いない!?)
予想だにしない光景に彼は大きく目を見張った。……そう、そこには、ゴルトのいない青い空だけが広がっていたのだ。
その直後……。
『……ゴメンネ、レオンハルト、……オナカ、ヤラレチャッタ……』
(グラーネ!?)
彼の脳内に苦しげな声を響かせ、グラーネが力なく落下を始めた……。
「何が起こったんだ……」
光の粒子になって消えていく相棒を呆けたように眺めながら、ひとりつぶやくレオンハルト……。
リントヴルムの加護である【落下速度軽減】を発動し、ゆっくり落下していく彼の深い青の瞳に、ランスを携え雄々しくゴルトに跨がったエーリヒの姿が映る。
(……ああ、やっぱり、エーリヒ・フォン・エックシュタインは最強だ)
遠ざかりゆく雄姿に手を伸ばす若者の心は、悔しいという感情より、むしろ、憧れの英雄が伝説どおりであったという喜びと、その英雄相手に自分が善戦できた達成感で満たされていた――。
ところで、あの時、エーリヒは何をしたのだろう?
彼は急上昇に入った瞬間、まず、ゴルトに飛翔魔法を切らせて一瞬の失速状態を作り出した。
すると、猛スピードで追従して上方宙返りに入ったグラーネは、当然ながらゴルトを上から追い越し始める形となり、その時すでに、ゴルトの姿はレオンハルトたちの視界から消えている。
そして、……そう、ゴルトの失速状態は一瞬であり、すぐに飛翔魔法を最大限で再発動させていたエーリヒは、自分の頭上を相対速度差のままに通り抜けてゆくグラーネの腹部を、……ランスで深々と刺したのだ。
第二次世界大戦時における日本のエースパイロットが、これに少し似た〈木の葉返し〉という技を、使ったとか使わなかったとか言われているが、まあそれは蛇足である。
結局、地上に到達するまで、レオンハルトがこの神技の全容を知ることはなかった。




