第六六話 エーデルベルクの薔薇 九 学生団と謎の三人組
この日もエーデルベルク城へ拉致されてきたエーリヒは、宮中伯ゾフィーアと家宰ゼバスティアンが所用により中座したため、少年時代からの親友でもあるラインハルトと久しぶりにふたりだけで語り合っていた。
今、彼らが話題にしているのは、宮中伯の座を退いたラインハルトが学院長を務めている、ヘッケンローゼ帝立学院のことについてだ。
「はて? 〈学生団〉同士でいがみ合うというのは、別に珍しいことでもあるまい。わしらの在学中もあったじゃろう」
ラインハルトから学生たちの不和について頭を抱えていると聞き、エーリヒは不思議そうに首を捻った。
帝国全土を皇帝が領有しているのではなく、五大諸侯領に皇帝直轄領を加えた六大領地から成るのが、このグリューシュヴァンツ帝国である。
その六大領地ごとに分かれて結成された学生自治組織が〈学生団〉であり、ヘッケンローゼの学生たちは出身地によって、六つある学生団のいずれかへ所属していた。
つまり、仰ぐ領邦君主の異なる学生団同士が対立することなど、エーリヒの言うとおり、昔から当たり前のように起こっていたのだ。
「いやエーリヒ、今は少し状況が異なるのだ。……実は今現在、在校生のうち最も位が高いのは伯爵なのだが、合計で四名いる伯爵のうち二名が〈伯爵級〉上位の守護者持ちでな、その二名というのが、いずれも我が領内の者――」
「おお! やったではないか! ならば、最も勢いのあるレーン団が主導して学院をまとめればよかろう」
ラインハルトの言葉どおりなら、学院は現在、宮中伯領の学生団であるレーン団の天下だろう。己が古巣の勢い盛んな様を想像し、椅子の肘掛けをひと叩きして喜びを示すエーリヒ。……だが、なぜかラインハルトは浮かぬ顔で首を横に振る。
「いや、その二名こそが問題なのだ。……何しろそのふたり、ランツクローン家とノイエンアーレ家でな……」
「ああ……それはまた不運な……。よりにもよって、あの二家の跡取りが同時期に誕生しておったとは……。ともに宮中伯麾下の伯爵家でありながら、領地を接する両家は昔から犬と猫のように仲が悪かったからのう」
ラインハルトの口からふたつの家名を聞いたとたん、エーリヒは訃報を耳にしたような面持ちになり、どこか遠くのほうを見つめた。
思い起こせば、彼の現役時代も両家にはずいぶんと手を焼かされたものである。どちらの当主も個人的には善良な人物だったのだが、なぜか、顔を合わせると衝突し合うのだ。
「そう、不運としか言いようがない……。もう少し年が離れておればよいものを、両家の子の在学期間が被ってしまったせいで、レーン団が今、ランツクローン派とノイエンアーレ派のふたつに割れておるのだ。幸い本人同士がぶつかることはないのだが、お互いの取り巻きがな……」
暗い表情でそう言うと、自分も遠い目になるラインハルトであった――。
◇ ◇ ◇
優美な曲線を描いて立ち上がる高い天井、長大な広間に整然と列を成す長机、壁面の高所に並ぶステンドグラスからは、色とりどりの光が差し込んでいる。
ここは、ヘッケンローゼ帝立学院の学生だけが利用を許された食堂だ。
そろそろ昼時ということもあって混雑し始めた食堂内に、この日も……怒号が飛び交っていた。
「おい! もう一度言ってみろ!」
「ああ何度でも言ってやるさ、きみたちのように品性下劣な輩は、誇り高きレーン団の面汚しなんだよ!」
「てめえ! ランツクローンさんの前で同じことを言ってみやがれ! この腰抜けが!」
「ヒヒッ、まったくそのとおりでヤンス。コイツら口ばっかりで、ランツクローンさんと目も合わせられない臆病者でゲスよ」
「ランツクローン? ハハッ! あのような野蛮人、僕らの麗しきフローリアン様とは比べようもないね。気高きレーン団の象徴としてふさわしいのは、フローリアン様をおいて他にないさ」
「そそ、そうだ、僕たちのフローリアンたまこそが正義ブヒ、あの笑顔を見られるだけで、生きていてよかったと思えるブヒ」
醜い争いであった……。
この、ふた手に分かれて言い争う集団こそ、ラインハルトの悩みの種、レーン団に属する学生たちである。
一見しただけでわかるほど派閥にカラーがあるようで、ランツクローン派は力を持て余しているヤンチャ小僧やその腰巾着、一方のノイエンアーレ派は彼らのようなタイプを毛嫌いする優等生と、可憐なフローリアンに魅せられたファンといったところか。
その他に、いちおうは自分の属する派閥側に立っているものの、言い争いを静かに見守っている少年たちもいるが、まだあどけない外見からして下級生だろう。先輩たちの醜い争いに巻き込まれて、思えばかわいそうな話である。
それにしても、宮中伯領はかなり個性の濃い人材に恵まれているようでゲス……。
「ブヒブヒうるさいでゲスよ、この豚! 爪の垢を煎じて飲みたいほど男らしいランツクローンさんの、あの痺れるようなカッコよさが理解できないなんて、脳味噌がラードに置き換わっているに違いないでゲス!」
「な、なにおう! ゲスゲスうるさいのはそっちブヒ! この出っ歯! フローリアンたまは近くを通っただけでいい匂いがするブヒ! ぜ、ぜひ爪の垢を煎じて飲みたいブヒ!」
変態か……。
他学生団に属する学生たちがゲンナリと見守るなか、この見るに堪えぬ醜き争いは、いつ果てることなく続くかに思えた――が、しかし!
ザワリ――。
それに最も早く気づいたのは誰だったろう……。
食堂の入り口付近から始まったざわめきと沈黙は、波のようにして学生たちの間へ広がり、瞬く間に広い食堂中を満たしていった。
「おい、ちょっと待て。何かおかしい――」
「どうした? ようやくきみもフローリアン様に跪く気に――」
「……あ、あれは誰でゲショ」
「……ブ、ブヒ!?」
今まで争っていたレーン団の連中も、周囲のただならぬ雰囲気にようやく気づくと、仲良く皆の視線を追っていった。
彼らがそこで目にしたものは――。
◇ ◇ ◇
ふたたびエーデルベルク城内の一室――。
「本来なら中心になるべきレーン団がそのていたらくでは、他領の学生にも悪影響が出るじゃろうに……」
「まったくそのとおり、だから困っているのだ」
エーリヒの憐れむような声に、ラインハルトの沈んだ声が答えた。
彼の禍々しい威圧感も、今日ばかりは少々しぼんでしまっているようだ。
「ハァ……。ラインハルトほどの知恵者でも、こればかりはさすがに難しいか……」
深く嘆息したエーリヒがそう言うと、お手上げとばかりに両手のひらを上にして肩をすくめるラインハルト。
「仲良くしろなどと上から命令したところで、人の心は変えられんからな……。エーリヒ、もうしばらくはエーデルベルクにいるのだ、少しでよいから学院を覗いてもらえないだろうか? 何か良策が思い浮かぶやもしれぬ」
「そうさのう…………。上手くいくかどうかはわからんが……どれ、可愛い後輩の頼みじゃ、ひと肌脱いでやろう」
ラインハルトからの要請を聞いたエーリヒは、しばらく自分のアゴヒゲを撫でつつ思考したあと、かつての後輩に頼もしい言葉を返した。
そのとたん、それまで曇っていたラインハルトの痩せた顔が、待ってましたと言わんばかりに輝きを放つ。
「おお! 頼みましたよ、エーリヒ先輩!」
「やめんか! 気色の悪い!」
話が自分たちの母校のことであるためか、ラインハルトが若き日の気分に戻って言うと、五歳年上の先輩は即座に突っ込みながらも、楽しげな笑みを浮かべているのであった。
◇ ◇ ◇
優美な曲線を描いて立ち上がる高い天井、長大な広間に整然と列を成す長机、壁面の高所に並ぶステンドグラスからは、色とりどりの光が差し込んでいる。
もう一度言おう、ここは、ヘッケンローゼ帝立学院の学生だけが利用を許された食堂だ。
昼時ということもあって混雑している食堂内に、なぜか今は、ポッカリと不自然な空白地帯ができあがっていた。
また、いつものような喧騒はなく、声を潜めた学生たちの作り出す微小なざわめきと、ときおり食器の立てるカチャカチャという音が聞こえるのみ。
「あれ? なんだよ、もう結構埋まってるじゃないか。あんまり静かだから誰もいないのかと思ったよ。なあ、どうしてみんな――」
腹を空かせて入り口から飛び込んできた学生が、まずは意外な人の多さに驚いたあと、先に来ていた友人の視線を怪訝そうに追ってゆき――固まった。
友人の視線の先……いや、ここにいる学生全員の視線が集まる先、空白地帯の中心にいるのは――。
「女神様……」
それだけつぶやいて声を失う学生……この光景、これで今日何度目だろうか。
もちろん、学食に来る女神様などいるはずもなく、今、学生たちの視線を集めているのは、揃って黒マントを身に着け黙々と食事する――真綾と双子の姿であった。
ここの学生の証である黒マントを、部外者である彼女たちがどうやって入手したのか? それは、今からしばらく前に――。
「それなら、それを三枚貸してください。ちょっとだけ」
「え?」
――学生食堂前で真綾とレオンハルトが交わした、この短い会話がすべてである。……そう、レオンハルト、イグナーツ、舎弟、この三人の黒マントを、真綾が脅し取っ……借り受けたのであった……。
どうやら彼女は、黒マントさえ着ていれば学食で食事できると思ったらしい。真綾の食い意地恐るべし……。
「ヘンゼル、うまいなあ」
「うん、おいしいね、グレーテル」
真綾を挟んでヒソヒソと感想を言い、微笑み合うグレーテルとヘンゼル。
さすがに最初は緊張していた双子だったが、せっかく連れてきてくれた真綾に恥をかかせまいと真剣に思ったし、存外に器用でもあった。真綾の美しい所作を必死で真似ているうちに余裕もできて、またもやお姫様の家臣にでもなった気分で胸を張り、お貴族様用の豪勢な料理に舌鼓を打っているのだ。
なるほど、イグナーツによって傷付けられたふたりの心を癒やすことこそが、優しい真綾の真の目的だったのかもしれない。
「マーヤねえちゃん、この肉うまいなあ」
「……」
「マーヤねえちゃん、白パンおいしいね」
「…………」
左右から話しかける双子の声も耳に入らず、一心不乱に食べ続ける真綾……。やはり、ただ純粋に自分が学食で食べたかっただけ、なのでは……。
真綾の真意はともかく、この三人組がヘッケンローゼの学生でないことは一目瞭然だったし、当然、学生以外ここで食事できないことなど誰もが知っていた。にもかかわらず、ひとりとして追及する者がいないのはどうしてか?
ここは、ヒソヒソとしゃべっているレーン団の皆さんの声に少し耳を傾けながら説明しよう――。
「あの上品な子供たち、いったいどこの家の子だ? 俺の実家なんか未だに手掴みで食べてるってのに……」
「実は僕の家もそうさ。この学院だって、今の学院長が『帝国貴族の文化面での向上を図る』とか言って、ようやくカトラリーを導入したらしいからね。あの子たちはセファロニア貴族かエルトリア貴族の子供なのかも――」
まず、マントの上に出ている双子の顔は幼いながらも整っているうえ、毎日顔を洗い髪もキレイに梳いている。さらに、拙いながらもそれなりにキチンとした所作で食事しているのだ、武骨で知られる帝国貴族の子より品良く見えるふたりのことを、一介の孤児だと思う者は、食堂内にひとりもいなかった。
「――まあ、一緒に食事しているということは、あの女性の小姓や侍女見習いなどではなく、お相手役の貴族……にしては小さすぎるから、彼女と親密な貴族の子、もしくは親族なんだろうね」
そして、その双子の間に、日光菩薩と月光菩薩を脇侍にした薬師如来のごとく、あの真綾がいるのである。
「それにしても、あの超絶美人はいったい何者でゲショ? あれほど美しく気品溢れる人間を、アッシはまだ見たことがないでゲス……」
「……ああ。しかし、それだけではない。卿は感じないか? 〈諸侯級〉の守護者を持つ学院長に勝るとも劣らない、あの桁外れな威圧感を。……昼食代を賭けてもいい、私が思うに、可憐なフローリアンたまとは別属性の、大人な雰囲気をかもし出しているあの長身美女は、おそらく異国の姫君……ブヒ」
――こうして、真綾たちが入り口に現れてから現在に至るまでの間、神々しい美貌と王者の風格を併せ持つ彼女に誰もが気圧され、声をかけようと思うことすらできなかったのだ。……いや、男くさい食堂に降臨した女神様を一秒でも長く見ていたい、同じ空気を吸い続けていたい、そう願った者も多かったに違いない。
結局、カフェテリア方式の料理カウンターを数周(ヘンゼル一周、グレーテル二周、真綾が五周である)して満足げに帰っていく謎の三人組を、ただ黙って見送ったあと、レーン団を含めた学生全員は醜い言い争いのことなどすっかり忘れ、夢でも見ているような表情で静かに食事し始めるのであった……。




