第六二話 エーデルベルクの薔薇 五 連行される者と解放される者
あのあと、たいへんであった、エーリヒが……。
馬車を守る騎士たちの前を横切り、真綾とエーリヒが宿の玄関前に立ったところで――。
「兄上! なんというみすぼらしい格好を!」
――と、立派な身なりと体格をした初老の紳士が、血相を変えて馬車から飛び出してきたのだが、それから彼とエーリヒの間で交わされた怒涛のやり取りは以下のとおり――。
「おお、ゼバスティアン、久し――」
「久しいも何も十数年ぶりです! 今までいかに生きつないできたかは知りませんが、見る影もなく老いさらばえてガリガリではないですか! 正門の役人から外見の報告がなかったら、弟の私でも浮浪者だと思ったでしょうよ!」
「うむ、お前は息災そうで何より。ところで、なぜに従僕ではなく、わざわざ家宰であるお前がこのようなところ――」
「兄上を連行するために決まっておりましょうが!」
「連行……。いや、それにしても、ちと早すぎんか? 火急の用でもない限り数日は宿で待つのが慣例――」
「はあ!? 火急ぅ!? これが火急でなくて何が火急か! 宮中伯閣下より『大至急、首に縄をかけてでもお連れしろ!』と命じられたのですぞ! 十数年も消息を断っていた重鎮が急に現れたおかげで、城内は蜂の巣をつついたような大騒ぎです! さあさあ、さっさと馬車に乗ってください!」
「え? いや――」
「さあ!」
――そんなわけで、弟と思われる紳士にえらい剣幕で馬車へ押し込められ、ドナドナされていくエーリヒ……。
「すまぬマーヤ、わしは城へ行くことになった。夕食までには戻ると思うゆえ、昼は市場で買い食いでも――」
窓から顔を出したエーリヒの言葉を残し、馬車は見る見る遠ざかっていった……。
『……さて、真綾様、パパッとチェックインを済ませて市場に参りましょうか? どのような食べ物に出会えるか楽しみですね~』
(楽しみです)
馬車の姿が見えなくなると、熊野に言われたとおり手早くチェックインを終わらせて、ルンルン気分で市場へと向かう真綾。なんだかんだで兄弟仲良さそうな雰囲気だったため、ドナドナされていったエーリヒを心配する気持ちは、彼女の中にこれっぽっちもないのであった。
◇ ◇ ◇
彼は夢を見ていた、今よりもずっと幼いころの夢を――。
自分の城からほど近い森へ出かけた時のことだ。煩わしい家臣を撒いているうち、可憐な花の咲き乱れる場所へ迷い込んだ彼は、そこで『フローラ』と名乗るひとりの少女と出会い、自分より少し幼いその子とすぐに打ち解けると、家臣に見つかるまでの時間を楽しく笑い合って過ごしたのだった。
今となっては、もう何を話したかさえ覚えてはいないが、彼女のアッシュブロンドの髪がサラリと揺れた時、あるいは、やや青みがかった明るいグレーの瞳を輝かせ、そこに咲いていたプリムラの花よりも可憐に彼女が笑った時、幼いながらも自分の心臓がドクンと高鳴ったことは、ハッキリと彼の記憶に焼きついている。
彼は今、花の妖精を思わせる少女との幸福な時間を、夢で追体験しているのだ。
「――起きたまえ、レオンハルト・フォン・ランツクローン君、いつまで寝ているつもりだ」
いきなり聞こえてきた渋い声によって、彼の淡く甘ずっぱい夢は一瞬でかき消され、カビくさい現実の世界が彼を迎えた。
北向きの窓から差し込む寒々しい陽光に浮かび上がっているのは、煤で汚れた天井と壁一面を埋め尽くす落書き、床の上にポツンと置かれた簡素な机と椅子、そして、クッション性などまるで考慮されていない古ベッド。
「最悪の朝だ……」
不機嫌そうにつぶやいて、そのベッドから均整のとれた長身を起こした若者、レオンハルトは、戸口で肩をすくめている壮年の男を恨めしそうに睨んだ。
そんな彼の視線をサラリと躱し、身なりのよい男は片方の眉を器用に吊り上げる。
「朝? 今は昼だ。もう出ていいから、その目で太陽の位置を確かめてきたまえ」
「もう? ……ヴォルフスヴァルト教授、少し早くないですか?」
呆れ声で言う男の言葉に首をかしげるレオンハルト。たしか、自分が釈放されるまであと三日はあったはずなのに……そう、ここは、独自の裁判権を有するヘッケンローゼ帝立学院の、罪を犯した学生が入れられる学生牢なのだ。
ヤンチャな学生を少しでも驚かせられたのが嬉しいのか、してやったりと言わんばかりに、学院教授であるヴォルフスヴァルトはニヤリと笑って答える。
「きみを擁護する者が新たに現れてね、その証言を鑑みて刑期を短縮することになったんだよ。ネズミに鼻をかじられなくてよかったじゃないか、まあもっとも、ネズミの歯では我々の体に傷ひとつ付けられないがね」
「証言……」
「さあ若者よ、陽光を浴びに行きたまえ、男前な顔にカビが生えては一大事だ」
訝しげにしながらも、レオンハルトは教授に促されるまま部屋を出た。
少し癖のあるダークブロンドの髪と深い青の瞳。スッと通った鼻梁の下には意志の強そうな口。精悍だが、まだ少しあどけなさも残るその顔は、たしかに教授が言ったとおりの男前だ。
教授の後ろについて階段を下りたレオンハルトは、階段ホールの壁際にアッシュブロンドの髪を認めると、自分でも気づかぬままに足を止めた。
「フロー…………チッ、ノイエンアーレ、お前か」
夢の余韻のせいで呼びかけた名を引っ込めると、バツが悪そうに眉をひそめたレオンハルト。そんな彼の様子を見て、アッシュブロンドの髪の少女はホッと胸を撫で下ろす。
「よかった、体のほうは問題なさそうだね、レオンハルト。……あの子たちが教えてくれたよ、許可なく市街で守護者を召喚したのは、人さらいに捕まった子を助けるためだったんだね。……もう、きみはなんでそんな大事なことを証言しないかなあ、たまに孤児たちと遊んだり食べ物をあげたりしていたことって、そこまで人に知られると恥ずかしいことなの――」
ドン!
少女の高く澄んだ声を遮って、レオンハルトは彼女の背後にある壁を両手のひらで強く突いた。惚れ惚れするほど見事な壁ドンスタイルである……。
「うるせえ……」
少女の白い顔を上から睨みつけたものの、くぐもったように言うだけで怒鳴りつけられないのは、レオンハルトにもたやすく想像できたからだ、自分を牢から出すため、エーデルベルク中を駆けずり回ってくれていた彼女の姿が。
「余計なことしやがって……」
などと、なんとか憎まれ口を叩こうとしたレオンハルトの下で――。
「やっぱり優しいね、レオンハルトは」
――と、少女は笑った。やや青みがかった明るいグレーの瞳を輝かせ、あの森に咲いていたプリムラの花よりも可憐に。
その笑顔を見たとたん、レオンハルトの心臓が大きく音を立てる。
「っ!?」
思わず目を大きく見開いた彼は、その時になって初めて気づいた、息遣いのわかるほど近くに少女の顔があると……。ふわりと、何かの花の香りがした。
見つめ合う、明るいグレーの瞳と深い青の瞳。高鳴る心音はどちらのものか……。
「ヴォルフスヴァルト教授、世話んなりました、俺はこれで!」
レオンハルトはようやく我に返ると、ふたりのやり取りをニヤニヤと眺めていた教授にそれだけ言い、足早にその場を立ち去った。耳の先まで赤く染まった顔を片手で覆い隠すようにして、まるで逃げ出すかのように……。
「若いねぇ……。さて、ノイエンアーレ君、そろそろ私も失礼するよ」
「あ、はい、お世話になりました」
レオンハルトの背中を微笑ましく眺めたあと、今度は自分も立ち去るヴォルフスヴァルト教授。その後ろ姿を見送った少女は――。
「ライナー、そろそろ出てきたら?」
――と、どこへともなく声をかけた。
すると、彼女らと同じ黒マントを纏った若者がひとり、忽然と姿を現したではないか。
長身ではあるが、ガッシリとしたレオンハルトよりは痩せていて、その整った面立ちからはどこか冷たい印象を受ける。歳のころは彼女より少し上、レオンハルトと同じくらいだろうか?
その若者、ライナーに、少女は困ったような表情で語りかける。
「こんな場所までついてこなくてもいいのに……」
「いいえ、『学生の自主自立を尊ぶ』という学院の方針のおかげで、側仕えはおろか下仕えの者さえお付けできないのです。フローリアン様にもしものことあらば、この私が命に代えてでもお守りせねばなりません」
仏頂面で「命に代えてでも」などと言うライナーに、ますます困り顔のフローリアン。
自分より三歳上で昔から世話を焼いてくれる彼のことを、フローリアンは兄のように思っているのだが、何しろ、この学院へ自分が入学してからというもの、先に入学していた彼が、待っていましたと言わんばかりに気合いを入れ、どこへ行くにも影のように付き従ってくるため、フローリアンとしては窮屈でしょうがないのだ。
「ライナーの実家が代々うちの城伯だからって、学院ではそこまでしなくてもいいと思うんだけどな。『在学中は家柄や爵位を忘れ学友として接するべし』っていうのも学院の方針だったはずだよ」
「そうはまいりません」
「うーん、相変わらず堅いなあ……。きみは最上級生なんだから、むしろ下級生であるボクのほうが気を遣うべきなのに、どうしたらわかってもらえるんだろう……」
いくら言っても臣下としての態度を崩そうとしないライナーに、フローリアンは細いアゴに片手を当てて考え込んだ。
その可愛らしい仕草を見てクスリと笑ったあと、表情を引き締めて話題を変えるライナー。
「どうぞお気になさらず。……それよりもフローリアン様、あなたのお優しいお人柄は誰よりも存じておりますが、なぜあのような者などのためにご尽力なさいました、相手はあの野蛮なランツクローンですよ?」
「だって、いいことをした人がつらい目に遭うなんて放っておけないよ。それに、レオンハルトはボクの大切な人だから。ライナーと同じくね」
問いかけにサラリと返したフローリアンが最後に笑うと、そのあまりにも可憐な笑顔にライナーは我知らず頬を染め、そして思うのだ――。
(ああ、この笑顔だ……。フローリアン様、その笑顔を守るためだけに私はあるのですよ、決して一族の務めなどではなく。……それにしても、私はレオンハルトと同じですか……)
――と。
レオンハルトと同列に置かれたことが喜ぶべきことなのか、はたまた嘆くべきことなのか、複雑な想いを胸に抱えたまま、ライナーは歩き始めたフローリアンのあとを影のように追うのであった。




