第六一話 エーデルベルクの薔薇 四 エーリヒの真意
あのあと、たいへんであった、ウルリヒが……。
「閣下、お召し物ならば従来どおり当方にお申しつけくださいませ。今でこそ幅広く商いをいたしておりますが、当方は仕立屋が前身、品質の高さと仕事の速さにはいささか自信がございます、必ずや明後日の朝までにはご用意いたしましょう。もちろん、どこよりもお安い価格で承らせていただきます」
「うむ、そうしよう」
「ありがとうございます。そうと決まれば、さっそく採寸をいたしましょう。ささ、閣下、どうぞこちらへ――」
「う、うむ……」
などと、エーリヒを追い立てるように別室へ案内していったかと思ったら、そそくさと帰ってきたウルリヒは――。
「マ、マーヤ姫殿下! 誠に無礼かとは存じますが、もしよろしければ、お飲みになったあとで構いませんので、そちらの茶器をお見せ願えないでしょうか!」
――と、眼球を血走らせ興奮気味に言ってきたのだ。もはや姫殿下呼びで……。
無論、心臓に鋼の毛が生えている真綾はそれくらいで動じないし、姫様呼びにも慣れている。(紅茶を飲みたいのかな?)と思った彼女がウルリヒのぶんも出現させると、ようやく我に返った彼は心底恐縮しつつも、湯気の立つカップへ震える手を伸ばしたのだった。
――はるか東方大陸東部よりこの大陸西部へもたらされた、茶という飲み物は、最初は薬として珍重され、一部の好事家の間で細々と飲まれるだけであったが、〈貴重な磁器へ注いだ貴重な茶に、これまた貴重な砂糖をブチ込んで飲む〉、という高貴なスタイルが発見されたことに、東方文化への憧れも相まって、流行に敏感な貴族女性たちの間で見事にバズり、文化後進国との誹りを受けるグリューシュヴァンツ帝国でも、一部のイケてる貴族女性らの間で流行り始めていた――。
「素晴らしい……。高貴なお方々と接する機会の多い職業柄、わたくしも茶を嗜んでおりますが、このような色の、しかもこれほどまでに香り高く、味、コク、香りのバランスが絶妙な茶は初めてでございます――」
真綾から貰った紅茶をひとくち飲み込んで、ウットリと感想を述べるウルリヒ。
何しろこの紅茶、あちらの世界で、西洋人の好みに合わせ長年かけて開発されたものである。しかも、熊野丸で客に出されていた最上級のダージリンを、熊野が最高の技術で入れた逸品なのだ。東方国家が輸出用に放出したクズ茶葉、それも無発酵の緑茶葉を、まだ茶に不理解な西方の人間が入れたモノとは、何もかもまったくの別物であった……。
地球の西洋人と嗜好が似ていると思われるウルリヒの感動は、至極当然のものであろう。
「――さらにはこの茶器。これほど見事な磁器、我が国はおろかセファロニアの王宮ですら保有しているかどうか……。なんと美しい……」
目の前に持ち上げたティーカップをまじまじと見つめながら、ウルリヒは思わずため息を漏らした。
このティーカップも熊野丸で使われていたものなのだが、日本の皇族や各国の王族も利用するであろう貴賓室用にと、熊野丸建造当時の有田の名工が超絶技巧を駆使し、魂を削るようにして生み出した、現代ではもう再現不能な名品中の名品である。
精緻な絵付けを施された上に金を焼き付けた金彩紋様がゴージャスで、西洋人の嗜好というものを的確に突いたデザイン……。これまたウルリヒの感動は当然のものであろう。
ちなみに、とある葡萄農家のチビッ子たちは、この国宝級のティーカップを使い、砂糖のタップリ入った紅茶をガバガバ飲んでいるのだが、そのことを知ったら彼は卒倒するに違いない……。
「そしてこの形状……。何しろ茶を注ぐと磁器はたいへん熱くなりますから、強力な【強化】で守られた上位のお貴族様ならいざ知らず、そうではないお貴族様や守護者のいないご家族様は堪りません。熱くなった磁器を使い高貴な者らしく優雅に茶を飲むにはどうすればよいか、皆様たいへん頭を悩まされておいでなのですが、……まさか磁器に取っ手を付けるとは……」
地球の西洋人たちは、ティーボウルに注いだ茶を受け皿に移し替えて冷ます、という荒技を経て、ティーボウルに取っ手を付ける、という結論に至り、現在のようなティーカップを誕生させたのだが、こちらの西方世界では未だに磁器製造ができず、東方から輸入した磁器茶碗に頼っているため、ティーボウルとそれに合わせた受け皿のセットを作る、という発想がなく、ましてや取っ手付きのティーカップなど夢のまた夢なのだ。
(マーヤ姫殿下のご本国は、文化的にも技術的にも、どれだけ我々の先を行っているのだろう……。姫殿下にお願いして、この茶葉と茶器を取り寄せられればよいのだが、おそらくこのお方は、やんごとなきご事情でこの国へいらっしゃったに違いない。残念だがそれは諦めるしかないだろう……。ならば、せめて茶器だけでも、東方の陶工にこの形を指定してオーダーメイドすれば……)
などと頭をフル回転させつつも、あえて考えないようにしていた事実をついつい考えてしまうウルリヒ……。
(……マーヤ姫殿下、間違いなく虚空から熱々の茶をお出しに……。このお方の能力なのであろうが、もしかすると姫殿下は、内部の時間が止まった魔法の倉庫をお持ちなのでは? だとすれば、商人にとってこれ以上ない能力……いやいや、駄目だ、大恩ある閣下のお命を救われたお方を、商売のためなどに利用することはできない。そもそも、これほどのお力をお持ちなのだ、万が一にも勘気をこうむれば一巻の終わりだ。やはりここは見なかったことに……)
身の丈を超えることは考えないに限ると、あらためて自分に言い聞かせるウルリヒをよそに、熊野の紅茶とティーカップを褒められて気をよくした真綾が、ここで――。
「どうぞ」
――と、彼の前に手のひらをスッと差し出した。
その上には、甘く蠱惑的な香りを放つ暗褐色の物体が……。
「……こ、これは?」
「チョコ」
この世界の人間(カール一家を除く)が、初めてチョコレートを目にした瞬間であった……。
◇ ◇ ◇
その後、シュナイダー商会の馬車を出してくれるとの申し出を丁重に断り、真綾とエーリヒは宿へ向かうことにしたのだが、商館前で見送ってくれるウルリヒに背を向けるなり、エーリヒが人の悪い笑顔を浮かべた。
「愉快愉快、あやつの顔といったらなかったぞ」
「いい人だった」
クククと笑うエーリヒの横で、別れ際に山ほど土産を貰った真綾は内心ホクホク顔だ。
その気持ちを感じ取ったのか、エーリヒは満足げに口を開く。
「これでシュナイダー商会は確実にマーヤの味方になったぞ、何かあったときは遠慮せずに頼るがよい」
……そう、確実に味方になったはずだ、エーリヒの目論見どおり――。
わざわざ真綾を伴って彼がシュナイダー商会を訪ねたことには、〈真綾の味方を増やす〉という真の目的があったのだ。
しかし、残念ながら人間という生き物は、善へ変わるよりも悪に変わる確率のほうがはるかに高い……。エーリヒの知る商人は誠実な男だったが、ふたりが会わなかった十数年という時間は、人を変えてしまうには充分であった。
そこで彼は一計を案じたのだ。再会した商人から悪しきものを感じたならば即座に立ち去り、そうでない場合は真綾を見せれば話が早い、彼女のことだから商人の前で何かやらかすはず、聡い商人ならばそれを見て、彼女の味方となるか敵となるか、いずれが得か判断するだろうと……。
結局、エーリヒの知る商人は亡くなっており、その息子ウルリヒが跡を継いでいたのだが、ウルリヒが父親同様に誠実な人間であり、その眼前で予想どおり真綾がやらかしたおかげで、これから真綾のことは、シュナイダー商会が全面的にバックアップしてくれることになった。
採寸を終えて部屋へ戻ったエーリヒを迎えたのが、調子に乗った真綾の出した異世界の品々と、正気を失いかけているウルリヒであったことは、今さら言うまでもなかろう……。
「マーヤよ、あやつの商館は国内各地に留まらず近隣諸国にもある。もしもこの先、お前さんが旅に出たとしても、シュナイダー商会という寄る辺があれば心強かろう」
「おじいさん……」
エーリヒの優しい声を聞いた真綾は、長い前髪とヒゲに隠れた彼の顔を少し驚いたように見つめた。――この人は、気づいていたんだ――。
「ふん、マーヤが悩んでおったことくらいお見通しよ。故郷へ帰るための手立てを探したいのであろう?」
どんな顔をして答えたらいいかわからず言葉を失った真綾をよそに、エーリヒは続ける。
「カールから聞いたぞ、あのベイラとやらの話しぶりでは、マーヤを狙う魔物どもが他にもおるらしいのう。……お前さんのことじゃ、わしらを巻き込みたくないとでも思ったのであろう、そのことが、旅立とうかと迷うマーヤの背中を押したのかもしれぬな」
「うん……」
「何がマーヤを狙おうとも、わしとカールが命懸けで守るのじゃが……お前さんにはそれもまた、堪えられぬのであろうのう……。優しい子じゃ」
図星だった。
あの時ベイラは、たしかに自分のことを〈運命の子〉と呼び襲ってきた。自分が一緒にいる限り、愛すべき人々をこれからも危険な目に遭わせてしまうかもしれない。そのことが真綾の頭から離れなかったのだ。
胸の内を見透かされコクリと頷いた真綾の頭に、ポンと、温かい手のひらが載った。
「旅立つ若者を留めるほど無粋ではないが、もう少しだけ孫たちと一緒におってやってはくれぬか? わしも寂しいでのう……」
「うん……」
ふたたびコクリと頷く真綾を、前髪の隙間から温かい眼差しで見つめながら、エーリヒは、長く伸びたヒゲの下で少しだけ寂しげに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
シュナイダー商会からはさほど歩いていないだろうか、やがて、目的の宿に到着したことをエーリヒが告げた。
「ふむ、昔のままじゃな。――マーヤよ、ここがわしらの泊まる宿じゃ」
入市手続きの際にいくつか提示された高級宿からエーリヒが選んだのは、かつて彼が贔屓にしていたという格式高い宿だ。
さすがは宮中伯を訪問する貴族が泊まる宿の一軒だけあって、地球でいうところのバロック建築に近い豪奢な石造建築で、日本の小市民なら気後れ間違いなしの威圧感がある。
この建物が本日の宿泊先であると知ったとたん、真綾の頭に熊野が明るい声を響かせた――。
『ご立派な宿ですね~、これは今日の夕食も期待できそうです……あら? これまたご立派な馬車ですこと』
彼女の言うとおり、宿の前には、豪奢な装飾を施された四頭立ての箱馬車が停まっていた。しかもその前後を守るように、騎乗している騎士たちの姿が……。
この世界に来てからというもの、真綾も様々な馬車を目にしてきたが、これほど風格のあるものは見たことがない。ガマ男が乗っていた成金臭漂う馬車など、この馬車と並んだとたん、恥ずかしさのあまり逃げ出してしまうだろう。
馬車を眺めつつ、(花ちゃんが見たら喜びそう)などと、ちっさい親友の姿を思い浮かべる真綾のとなりで――。
「うん? あの紋章は……」
馬車へ施された装飾の中に、口から何かを吐く無翼竜の描かれた紋章を認め、エーリヒは軽く首をかしげた。
【爵位と爵位号】
ここでは、エーリヒを例に、グリューシュヴァンツ帝国における爵位と爵位号について説明します。
〈爵位〉
貴族としてのランクです。
君主によって叙されるものではありません。
基本的には、十三歳になって守護者を得た時点で、守護者に応じた爵位が自動的に決まり、自称することを許されます。(もちろん詐称は重罪です)
帝国の人たちが、どこの誰とも知らない真綾の実力に触れただけで彼女を王侯だと推測し、勝手に納得するのは、この実力主義的なシステムのためです。
ただ、ゴルトと再契約したエーリヒが領地を持っていないように、爵位があるだけでは領主になれません。(実力で奪い取るという手段もありますが……)
〈爵位号〉
爵位にくっついてくる称号です。
君主によって叙されるもので、基本的には君主から任される領地とワンセットです。
かつて、レーン宮中伯からタウルスとレーンガウの地を任されていたエーリヒは、「タウルス=レーンガウ伯」として同地に君臨していました。
ちなみに、貴族の呼称についてですが、エーリヒが「タウルス=レーンガウ伯」と爵位号で呼ばれていたころ、まだ当主でなかったカールは、家名プラス爵位で「エックシュタイン伯爵」と呼ばれていました。
これでカールが「タウルス=レーンガウ伯」を継ぐと、隠居したエーリヒは「エックシュタイン伯爵」と呼ばれるようになります。……あ、そうそう、現時点でも隠居状態なので「エックシュタイン伯爵」ですね。
もし、エーリヒの存命中にヨーナスが〈伯爵級〉の守護者を得ると、「エックシュタイン伯爵」と呼ばれる貴族がひとり増えることになります。




