第五〇話 伯爵の葡萄畑 一六 新たなワイン
「無理だったか……」
「あれだけあった葡萄から、わずかこれだけですか……」
葡萄を圧搾してチョロチョロと流れ出てきた果汁を前に、カールとラッツハイム男爵は並んで肩を落とした。
ここは男爵の城館敷地内に建てられた例の醸造所である。みんなの頑張りにより夜明け前に収穫し終えることができた葡萄を、こうして圧搾しているところなのだ。
ちなみに、アンナは子供たちと一緒に家でお留守番中だが、伯爵の力が戻り今や鬼のように強いエーリヒが守ってくれているので、何があっても心配ないだろう。
まあ、アンナたちの話は置いておくとして、すっかり暗い雰囲気になってしまった男ふたりに、熊野は優しく声をかける――。
「『それでよろしいのですよ』」
「……お言葉ですがクマノ様、やはり、凍った葡萄などから良いワインが生まれるとは思えませんし、そもそも果汁がこれだけしか採れないのでは……」
「『ラッツハイム男爵様、ご心配はごもっともでございます。それでは――』」
ワインこそ人生と言うだけあって、あれほど恐縮していた相手にさえ反論する男爵の前に、熊野は【船内空間】からテーブルを取り出すと、続いてその上に、小ぶりなチューリップ型ワイングラスをふたつ出現させた。
「ほほう、これはまた見事なグラスですな。それに見たことのない形だ……これも異世界の品でしょうか?」
「なんという透明度の高さだ……」
こちらの世界ではここまで透明なガラスは珍しいのか、ワイングラスを持ち上げて、しげしげと眺め始めた男爵とカールに、熊野は淑やかに頷いてみせる。
「『はい、あちらの世界では、各種ワインの特徴にそれぞれ合った形状のグラスを使用しております。こちらをお楽しみいただくには、この形か、細長いグラスがよろしいのですよ。……あの~失礼ですが、グラスを置いていただいても?』」
「ワインの特徴に合わせてグラスを…………あ、はい、これは失敬……」
「クマノ様、『こちら』、とは?」
ふたりがテーブルの上にグラスを戻すと、熊野はコルク栓を抜いた状態のボトルを出現させ、その中身をグラスに少量ずつ注いだ。
「『こちらでございます。どうぞ、召し上がってくださいませ』」
「おお! これは白ワインですな」
明るい琥珀色をした液体を見たとたん、ラッツハイム男爵の目がキラリと光った。それはもう、食べ物を見つけたときの真綾のごとく。
「それではクマノ様、遠慮なく――」
「では、私も――」
ゴクリとつばを飲み込むや否やグラスを手に取った男爵を見て、そそくさとあとに続くカール。ワインこそ人生と言ってはばからない親友ほどではないにしろ、やはり彼もワイン好きなのだ。
「おお、なんと華やかで豊かな香り。素晴らしい……」
まず香りを嗅いだラッツハイム男爵は、ウットリとした様子で感嘆の声を上げると、今度は少量、グラスの中で揺れている琥珀色の液体を口に含んだ。
そして――。
「甘い! なんという甘さだ! しかも、それでいて甘ったるくなく、むしろサッパリとして上品な飲み口、これは……ほどよい酸のおかげか! それにしてもなんと濃厚な甘さ、そして風味……」
――グルメマンガの登場人物のごとく、目ン玉ひん剥いて絶賛する男爵。
その横では、カールもつぶらな瞳を輝かせ、こことは異なる世界のワインに感動していた。
そんなふたりの様子を真綾らしからぬ笑顔で見守っていた熊野が、このワインについて説明を始める。
「『このワインはあちらの世界で〈アイスワイン〉と呼ばれております。――凍った状態の果実を圧搾いたしますと、当然ながら水分も凍っておりますので、ごく少量の果汁しか採れません。しかしながら、水分以外の成分が凝縮されているため、その果汁からはこうして、たいへん糖度の高く風味豊かなワインが生まれるのです。――そして、このワインに使われている葡萄は、カール様の農場で栽培されている葡萄とほぼ同じ品種かと。つまり――』」
「まさか、この果汁が!?」
「〈アイスワイン〉に!?」
熊野の説明を聞き終えたふたりは、息もピッタリに圧搾機を振り返った。
「若、このワインなら、国中の……いや、各国の貴族家や裕福な家のご婦人方が、金に糸目もつけず、こぞって求めること間違いなしです! そうなれば、生産量が少なくとも十分に採算が――」
「ああフィデリオ。それに、文化後進国と誹りを受ける我が国から、新たな流行を生み出せる」
男爵とカール、興奮した様子で頷き合うふたりだったが、熊野はここでも釘を刺しておくことを忘れない。
「『……ですが、今、召しあがったワインは、あちらの世界の醸造家たちが長年にわたる試行錯誤を繰り返し、ようやく完成させたものですので、こちらでこのたび醸造したものは、おそらく同じ品質にはならないでしょう。完成させるためには並々ならぬ努力が必要かと……』」
まさしく熊野の言葉どおり、質の良い〈アイスワイン〉を作るには、収穫のタイミングに関する諸条件や醸造方法など、研究の必要なことが山積みであり、一朝一夕ではいかないだろう。
「はい、それはもちろん承知しております。――しかし、努力するだけの価値は十二分にございます。――クマノ様、来年からは葡萄畑の一区画を研究用に充て、いずれはこのワインにも負けない、最高の〈アイスワイン〉を生み出してご覧に入れましょう!」
それでもラッツハイム男爵が力強く拳を握り、双眸に静かな闘志をみなぎらせて言い放つと、そんな親友に手を差し出すカール。
「フィデリオ、私も協力を惜しまないぞ!」
「はい若、やり遂げましょう!」
ガッチリ手を握り合うカールと男爵。希望に燃えるふたりを眺め――。
『このおふたりなら、成し遂げられるかもしれませんね』
そう思う熊野であった。
さて、レーンガウでのひと幕はこれにて無事閉幕となり、このわずかのち、長らく不在だったタウルス=レーンガウ伯の地位へ、とある一族が返り咲くこととなる。
その任へ就くにあたり、一族の新たな紋章が作られたのだが、その紋章に描かれていたのは、葡萄の縁取りとリントヴルム、そして珍しいことに、髭を生やし鍬を担いだ農夫の姿であった。
また、そのさらに数年後、醸造家として名高いラッツハイム男爵の醸造所で、〈伯爵の葡萄畑〉と呼ばれる農場産の葡萄を使った〈アイスワイン〉が誕生し、瞬く間に近隣諸国のご婦人方を魅了することになるのだが、その契機となった夜に、ちっさい親友と葡萄ジュースを飲み交わす夢を見ていた真綾には、まったく関係のない話である。
◇ ◇ ◇
時は遡り、ベイラの体が爆散した時――。
戦場となった場所から数百メートル離れた茂みに身を潜め、事の成り行きを窺っていた男ふたりが声を上げた。
それにしても、これほどの距離から星明かりだけを頼りに、あの戦いが彼らには見えていたと言うのか……。
「信じられん、〈諸侯級〉のベイラ様が……」
「まあ、それだけ〈運命の子〉が強かったってことだろう。冬の女王ベイラ様も大口叩いていたわりに呆気なかったな」
ベイラの最期に唖然としていた男が、あまりな物言いをした仲間の顔を睨みつける。
「おい、不敬だぞ!」
「何が不敬だ! ベイラ様をここへ運ぶだけだったはずの我が相棒まで、そのベイラ様の思いつきで駆り出された挙げ句、リントヴルムの竜騎士に倒されてしまったんだぞ! おかげで再召喚が可能になるまで帰れないじゃないか、まったくとんだ災難だ。お前だって可愛いワイバーンを駆り出されたんだから、俺の気持ちもわかるだろう」
「……まあ、な……」
最初は批難していた男も、仲間の憤懣やるかたない言いぶんを聞いては、矛を収めるしかなかった。
彼らこそ、カールに倒された二体のワイバーンを召喚した術者なのだ。
「それにしても、いったい何者なんだ、あのやたらと腕の立つ竜騎士は。お前からの報告にはなかったぞ」
「いや、この数日間、本当にただの農夫として暮らしていたんだ。まさかアレが竜騎士だとは……すまん」
真綾の監視役を仰せつかっていた男は、仲間に痛いところを突かれると不承不承に謝ったが、たしかに彼の言うように、カールの生活を見て伯爵だと思う者はいないだろう。監視していた彼が不運だったとしか言う他ない。
「ともかく、再召喚が可能になったら俺は報告に戻る。お前は引き続き〈運命の子〉の監視を――」
「させないよ」
「!」
「誰だ!」
自分たちの会話を遮って女性の力強い声が聞こえた刹那、素早い動きで振り向き武器を構える男たち。
その極めて迅速な反応と合理的な身のこなしから、彼らが相当の手練れであることを窺える。
だが、そんな男たちが、声の主を視線に捉えたとたん思わず言葉を忘れてしまった。
わずかな星明かりだけで色の判別さえ可能なワイバーン、それと同じ目を持つ彼らにはわかる。闇を払うかのように堂々と立っていたのは、真紅のドレスに身を包み、真っ赤な髪を夜風になびかせた、絶世の美女。
彼女の紅玉のような瞳から、いや、均整の取れた体のすべてから、燃え盛る炎のような力強さが溢れ出している。
「……その赤い髪、まさか、お前は……」
「なんで、こんなところに、こんな……」
彼女のことを知っているのか、男たちがようやく上げた声に含まれている感情は、紛れもない畏怖……。
そんな彼らを一瞥した女性は、紅を差した艷やかな唇を開く。
「ちょっと気になってひとっ飛びして来たら案の定か……。アンタらがどうやって嗅ぎつけたのかは知らないけど、アタシに見つかったのが運の尽きさ。これ以上、あの子にちょっかい出させるわけにゃいかないんでね、覚悟しな」
「クッ、こうなれば!」
「死ねぃ!」
女性が伝法な口調で話し終えると、それが合図であったかのように、男たちは彼女へ同時に斬りかかった!
ワイバーンを召喚できる彼らは〈伯爵級〉でも上位の加護を受け、力も速度も人外の域に達していた。しかも、剣には【武器強化】と【毒付与】まで施されている。
そんな彼らの凶刃が今、赤髪の女性に――届くことはなかった。
なんと、振り上げた腕ごと、彼らの首が落ちたのだ……。
「アンタら遅すぎ、動きが止まって見えんだよ……。さてと、早く帰らないと、また姉貴に説教されちまう。――頑張れよ、〈運命の子〉」
音を立てて転がった骸を憐れむように見たあと、真綾のいるほうへ視線を移した女性は、温かな声だけを残して空中へ舞い上がり、巨大な鴉に変じると北西の夜空へ消えていった。




