第四八話 伯爵の葡萄畑 一四 老人の名
戦場に背を向けた元代官がいくらも進まぬうち、不幸な偶然が起こった。
カール宅の前にある空き地から農道に入ったところで、彼とヨーナスがバッタリ出くわしてしまったのだ……。
「うわっ!」
代官の顔をした霜の巨人を目にして叫んだあと、恐怖に固まってしまったヨーナス。その幼い顔をまじまじと見つめ、元代官は己の内にある記憶の引き出しを探り始める。
(このガキ、たしか昨日の……)
動けない自分を喜々として棒でつついていた子供……。それがヨーナスだと気づいたとたん、元代官の中に沸々と怒りが込み上げてきた。
「オマエ、ヨグモ、ワシヲ、ツツイタナ……」
ヨーナスの瞳に浮かぶ恐怖の色を見て取ると、たどたどしくも昨日の恨みを口にし始める元代官。何しろ弱い者にはとことん強いのが彼の本性、今まで吹かれていた臆病風などどこへやらだ。
「ば、ばけもの……」
「ダレガ、バケモノカ!」
ヨーナスが震える声で発したひとことに、霜でできたカイゼル髭をピンと立てて激高し、かつて人間だった魔物は巨大な腕を振り上げ――。
「セイバイ!」
どこかの誰かが好んで使うセリフとともに、渾身の力で振り下ろした!
身長二メートル半ばを超える巨体からの一撃が、今まさに、幼い命を叩き潰すかに思われた、その時――。
「ジ、ジジィ……」
――元代官は、あまりの驚愕に声を漏らした。
彼の腕は、ヨーナスを庇い立ち塞がった老人によって、ピタリと受け止められていたのだ。
それにしても、それを一瞬で行なった老人のなんと敏捷なことか……いや、さらに驚くべきは、〈伯爵級〉である巨人の一撃を片手で受け止めたことだろう。それは、ただの人間、しかも痩せこけた老人になど、絶対に不可能なことなのだから……。
伯爵である自分がいくら力を入れても枯れ枝のような老人の腕はピクリともせず、それどころか、節くれ立った指がメキメキと音を立て、〈伯爵級〉の防御魔法で守られた腕に食い込んでくる……。そのありえない状況に焦り始めた元代官が耳にしたのは、ドスの利いた老人の声――。
「わしの孫に手を上げたな……」
「ヒッ」
老人の、長い前髪から覗く眼光の鋭さに、立ち昇る鬼気の凄まじさに、元代官が思わず悲鳴を上げてしまった――直後、彼の腕は音を立てて握り潰された!
「ギャアアアァァァ!」
元代官の上げる悲鳴が夜の静寂に響き渡る――だが、老人は容赦しない。
ヨタヨタと数歩下がった元代官の、苦し紛れに振り回し始めたもう一本の腕を、老人は巧みな足捌きで躱し……ついには、手にしていた杖で突き砕いたのだ!
「ギャアアアァァァ!」
両腕を失い、ふたたび絶叫しながら後ずさる元代官だったが、ここで、今の自分には異能があったことをを思い出す。
(そうだ! 今のわしは伯爵なのだ! もっと大規模な損傷を与えられぬ限り再生する。それに、たとえ腕の一本や二本ぐらいなくとも、この能力で――)
気を取り直した元代官は、悪鬼のようにたたずむ老人へ、コールドブレスを吹きかけた!
彼のコールドブレスはジャックフロスト数体分の威力を有するため、人間など一瞬で凍りつくはず、――なのだが、なんということか、老人はコールドブレスをものともせず、無造作に歩いて来るではないか。
元代官のほうへ、一歩、また一歩……。
(なぜ……なぜ歩ける!? クソッ! かくなるうえは――これを喰らえ!)
元代官が焦りながらも放ったのは、ベイラも使った魔法の氷槍。ベイラの氷槍より威力が弱く一本だけしかないものの、彼と同格である〈伯爵級〉の魔物さえ刺し貫くほどの威力がある。
その恐るべき氷槍が、近距離から老人の顔面を襲う!
しかも、躱せば後ろにいるヨーナスを貫くかもしれないという、嫌らしさこの上ないコースをたどって。
しかし――。
「むん!」
老人はそれを、自分の眼前で掴み取った……。
なんという動体視力、なんという速さ、そして、なんという力だろう。これではまるで――。
「ジジイ、マサカ、オマエ――」
そう言いかけた元代官は、自分の頭上が急に明るくなったことに気づき、恐る恐る見上げた。
そこに彼が見たのは――。
「リントヴルム……」
その名を口にした次の瞬間、彼の二度目の生は幕を閉じた。
◇ ◇ ◇
満天に煌めく星の下、襲撃者たちが落としていた松明と、新たに加わった松明の明かりが照らすなか、善き人々と一体の翼竜の作り出す影が揺れていた。
「ああ……ヨーナス、ヨーナス、よく無事で……」
「ウッウッ、ゴベン、ゴベンよ、母ぢゃん、ゴベンよ――」
追いついてくるなりヨーナスを抱きしめ、はらはらと涙を流すアンナと、泣きながら何度も謝り続けるヨーナス。
抱き合う親子の姿を満足そうに眺めた老人は、自分の傍らに寄り添う巨大な相棒、リントヴルムを優しく撫で、脳内で話しかけた。
(ゴルト、まだ待っていてくれたとは……)
『アア、アイタカッタヨ、エーリヒ』
(貴族を辞めると言って一方的に契約破棄したわしを、お前は許してくれるのか?)
『ユルス? ウランダコトナンテ、イチドモナイヨ、アイボウ』
その言葉を聞いた老人の目に、歓喜と悔恨の入り交じった涙が込み上げてくる。
(……ゴルト、すまなんだ……。そして、ありがとう、お前が再契約してくれたおかげで孫を救えた、大事な孫の命を……)
『オヤ? エーリヒ、チョットミナイアイダニ、ズイブント、ナミダモロクナッタネ。トシカイ?』
(うるさい!)
『ハハハ、ソウソウ、ソレデコソ、アイボウダヨ』
古き友と脳内で軽口を叩いた老人は、抱き合うアンナとヨーナス親子、そして、そのふたりを温かく見守っている人々のことを、一度だけ愛おしそうに眺めて、どこか寂しげに微笑んだ。
(それでは、行くとするかの)
『イイノカイ?』
(……ああ、わしにはここにおる資格がない。それにのうゴルト、わしはここで多くのものを貰った、ここでの日々はこの身に余る幸福な時間じゃった。……もう思い残すことは何もない)
『ガンコモノ……』
精一杯の強がりを見抜いたらしい相棒の背に、苦笑を浮かべたまま老人が跳び乗ろうとした、その時――。
「父上、どこへ行かれます!?」
兜と面頬を外したカールが、ガシャガシャと鎧の音を響かせながら老人に駆け寄ってきた。
ゴルトのほうを向いたままピタリと止まった老人の背に、そのまま語りかけるカール。いつものように、見た目に似合わぬやわらかな声で……。
「お姿がずいぶんと変わられていたので気づけませんでしたが、さすがにゴルトを見ればわかります。……あなたは私の父上なのでしょう? ゴルトとの契約を切り、宮中伯に領地を返上したまま行方知れずになったと聞き、どれほど心配したことか……」
諦めたように振り返った老人へ、この時ばかりは普段の寡黙さを忘れたように彼は話し続ける。
かつて、カール・フォン・エックシュタインという名で呼ばれていた男は。
「父上、やっとお会いできたのです、どこへ行かれるというのですか」
「……そうと知られた今、お前たち夫婦に向けられる顔がわしにあるか。お前たちの仲を認めず追い出したわしに、ここにおる資格はない。ただ……」
「ただ?」
ようやく老人が返してくれたのは重い言葉……。その続きが気になり、思わずカールは聞き返した。
そんなカールを見つめる老人の眼差しは、春の陽のように温かい。
「これだけは言っておかねばのう……。カール、わしが間違っておった、お前の見初めたアンナは素晴らしい女性じゃ。遅ればせながら、ふたりの結婚を祝福しよう。――アンナ、己の狭量と頑迷さゆえ、お前たち夫婦につらい思いをさせたわしじゃ、許してくれとは言わぬ、だが謝罪だけはさせてほしい。――すまなかった」
そこまで言うと自分の胸に手を当て、老人はアンナに向かい頭を垂れた。
「やめてよおじいさん! ……じゃなかった、やめてくださいよ伯爵様!」
思いもよらぬ展開に頭が追いついていなかったが、頭を垂れている老人を見たとたん慌て出すアンナ。……そう、この老人こそ、かつてこのレーンガウ一帯を治め、タウルス=レーンガウ伯、エーリヒ・フォン・エックシュタインと呼ばれていた貴族であった。
「アンナ、今までどおり、おじいさんでよい」
「じゃあ……おじいさん、一緒に暮らそうよ、ね?」
嬉しいことを言ってくれるアンナに、老人ことエーリヒは頭をゆっくりと横に振る。罪を犯した自分が許され、のうのうとここで暮らすわけにはいかない。
「……ありがとうアンナ、本当に世話になった。――マーヤも本当に――!?」
「確保」
命の恩人である真綾にも心からの礼を言ってから、イイ感じで立ち去ろうとしていたエーリヒだったが、声をかけようと彼女に移した穏やかな眼差しを……一瞬で見開いた!
伯爵である彼の動体視力にすら捉えられぬ超高速で接近し、真綾が彼を羽交い締めにしたのだ。それはもう、信じられない力で……。
「は、離してくれ! マーヤ、頼むから行かせてくれ!」
「ダメ」
「わしにはここにおる資格が――」
「知らない」
ジタバタともがきながら真綾に懇願するエーリヒ、そして、彼を羽交い締めにしたまま聞く耳持たぬ真綾。
このまま行かせたらエーリヒはまた孤独な日々に戻ってしまう……。真綾にそれを看過するという選択肢は微塵もないのだ。
「マーヤ、頼むから、このまま行かせ――」
イイ感じで立ち去るはずが滑稽な感じになってしまったが、それでも放してくれるよう真綾に懇願していたエーリヒは、自分のマントの裾をクイクイと引っ張る者がいることに気づいた。
「……おお、ちっさいマーヤ、起こしてしまったか、すまぬのう……」
自分の足元で目をこすりながら見上げてくる眠そうな顔に、見る見るトーンダウンしてゆくエーリヒ。馬車の荷台でスヤスヤと眠っていたマーヤを、どうやらこの騒ぎで起こしてしまったらしい。
そして――。
「おじいちゃん、おしっこ」
「それは一大事!」
慌ててマーヤを抱え、すぐ近くにあるカール宅まで直行するエーリヒ。再契約したゴルトの加護が戻っているため、その動きは機敏極まりない。
そして、それから数分後――。
「……」
「…………」
ふたたび眠りについたマーヤを背負ったまま、カール宅のトイレからすごすごと帰ってきたエーリヒと、その姿を黙って見守っていたカールたち。
その間に、ビミョーな空気が漂っていた……。
「……父上、これからのことは、じっくり話し合ってからということで……」
「……そうだね、アタシもそれがいいと思う。それにね、目が覚めて大好きなおじいさんがいなかったら、マーヤが可愛そうだよ」
「……ああ、うん……」
しばしの沈黙のあとで息子夫婦が出した提案に、大人しく頷くエーリヒ。すっかり旅立つタイミングを逸していた彼に、もはや、それを断る気概は残っていなかったのだ……。
「ねえ火野さん、作者が画像作成AIを触ってみたらしいよ」
「なんやそれ?」
「えーとね、呪文ってのを打ち込んだら勝手にAIが絵を描いてくれるんだよ。ちょうどここに私を描いてくれてるのがあるから見てみよう」
「おお、なんやオモロそうやなあ花! 見よ見よ」
「ほい」
「…………」
「ブッ! なんやコレ! どれが目ぇや! 腕も3本あんで……あ、せやけど絶妙に花っぽいわ」
「うるさいわ! ……まあ、もう一枚あるから見てみよう」
「…………」
「ブフー! 花や!」
「笑うな!」
「花ちゃん……。私も花ちゃんの絵を……AIに描かせてみたんだけど……見る?」
「え? ムーちゃんも?」
「ええやん、オモロそうやん、見よ見よ」
「これなんだけど……」
「目一杯……呪文を綴ったの……」
「きしょっ!」
「怖いわ!」




