第四三話 伯爵の葡萄畑 九 打ち明け話
「なんだと! それは本当かっ!?」
ヴァイスバーデンで最も大きいフクス商会の商館に、その主であるギュスターヴ……ガマ男の大声が響き渡った。
生け捕りにした真綾をどうやって可愛がるか代官とアツく語り合い、色欲に目をギラつかせたまま夜遅く帰った彼を、商館で待っていたのは……大番頭からの信じがたい報告と、厳しすぎる現実だったのである。
「……はい、本当でございます旦那様。恐ろしい魔物の面を着けた賊が――」
憔悴しきった様子の大番頭が彼に語ったのは、こうだ――。
暗くなってからガマ男が代官館へ向かったあと、商館の分厚い扉がいきなり消滅し、恐ろしい魔物の面を着けた賊がたったひとりで押し入ってきた。
警備の者たちを一瞬で倒した賊は、手近にいた奉公人から〈今ここにいる中で一番偉い人〉、つまり大番頭のことを聞き出し――。
「こうなりたい?」
――と、大番頭の目の前で奉公人をひとり消したあと、他の奉公人たちも次々と消滅させてから、恐怖のあまりガタガタと打ち震える彼に、ガマ男が拉致してきた村娘たちの場所まで案内させて、商館以外の場所に軟禁されている者も含む娘たち全員を消したのだ。
そして今度は、大番頭とともに商館へ戻ると、同様に案内させた地下金庫室を物色して帰ったらしい。
結局、金庫室の中に残されていたのは、それまで消されていた奉公人たちの放心している姿、そして、猫の顔が可愛く描かれた紙切れ一枚だけであった――。
「旦那様、アレは……アレは決して人ではございません! 私はこうしている今でも、あの感情のカケラもない、『没収』と言う声が耳から離れないのです……」
その言葉を聞くや否や、大番頭と同じようにガチガチと震え始めるガマ男であった。
◇ ◇ ◇
収穫作業三日目――。
「よーし、今日も頑張るぞー!」
「おー!」
夜も明けきらぬ空の下、アンナの明るい声に大勢の声が続いた。いつもよりはるかに多くの……。
声の半数以上は、昨日までいなかった若い女性たちのものである。
この二十人近い若い女性集団の正体、実は、ガマ男によって拉致されていた村娘たちであった。
勘のいい真綾がガマ男の約束など信用するはずもなく、彼女は昨夜、夕食でしっかり胃袋を満たしてから、彼らの向かった都市までひとっ走りすると、村娘たちを救出してきたのだ。
最初、【船内空間】から取り出された直後は、何が起こったかもわからずに狼狽していた村娘たちも――。
『いきなり目の前が見知らぬ場所に変わっているのです、しかもその直前に恐ろしい般若の顔を見たのですから、さぞや皆様も驚かれたことでしょう。――真綾様、ここはひとつ、ゴニョゴニョ……』
――との熊野の進言により、オ○カル様風軍服を着た真綾が、ガマ男から救い出したこと、借金の証文も破棄するから心配いらないことを説明すると、頬を薔薇色に染めて聞き入って、最後はポロポロと涙を流して喜んだのだった。
そして、さすがは葡萄栽培の盛んな地方だけあって、彼女たち全員が葡萄農家の娘であったため、これから収穫作業をすると言う真綾に、せめてそれぐらいはと、自ら進んで手伝いを申し出てくれたのである。
いきなり真綾が連れてきた村娘軍団に最初は驚いていたアンナも、真綾からの説明を聞いたとたん――。
「……そうか、ひどい話だね…………よし! さっさと作業を終わらせて、早く家に帰してあげよう」
――と、同情し、この日は大人数での収穫となったのだ。
若い、それも結構見目のいい女性が大量に増え、若い衆のテンションが狂気を帯びるほど上昇したこともあり、この日の収穫作業は最短記録を更新した。
これで収穫もあと一区画を残すのみ、明日にはすべて完了するだろう。
そんなわけで――。
「お願いします」
「よろしくお願いしま~す」
「え……」
広い醸造所の中、真綾の言葉にピタリと声を揃えて続く村娘軍団と、目を点にしているラッツハイム男爵の姿があった……。
◇ ◇ ◇
「――なるほど、そういうことでしたか。いきなり現れた集団に『お願いします』と言われた時は、頭の中が真っ白になりましたよ……」
「海より深く反省」
ひとりドナドナされてきた応接室の中、遅ればせながら事情を説明して、ラッツハイム男爵にペコリと頭を下げる真綾……。
拉致された娘たちのなかには、ここから実家までの距離が遠い者もいて、若い娘ひとりで帰すのは何かと物騒だ。
また、デリケートな問題であるため、村には帰りづらい者もいるだろう……。
そういうわけで、『いい人』箱に入っている偉い人に丸投げ……相談に乗ってもらおうと、真綾が【船内空間】に娘たち全員をいったん収納して、ラッツハイム男爵の城館まで連れてきたのだが、やはり、前置きなしで娘たちを出現させたのはマズかったか……。
「ラ・ジョーモン様、どうか頭をお上げください。――それにしても、あの代官を返り討ちにしたうえ、ヴァイスバーデンを牛耳る奸商の身ぐるみを剥いだ挙げ句、やつの商館を襲撃するとは、やりましたなあ……」
「ダメでしたか?」
「いえいえ、愉快痛快、胸のすく思いでございますよ。おかげで今宵のワインはまた格別でしょう」
さすがの真綾も、昨日はほんの少しだけやりすぎたかと思っていたのだが、ニヤリと笑うこの表情を見るからに、むしろ男爵的にはウェルカムなことらしい。
「南を流れるレーン川と北のタウルス山地に挟まれたこの地は、古くからタウルス=レーンガウ伯の領地だったのですが、十数年前に伯のお家が途絶えましてな、領地はレーン宮中伯に返上されたのです。それによってヴァイスバーデンも宮中伯の直轄都市となり、宮中伯の代官が置かれたのですが、数年前に着任してきた今の代官というのがまあ、実家の家柄ばかりを誇るクズでして、フクス商会のギュスターヴという悪徳商人と組み、それはもうやりたい放題で――」
眉間に皺を寄せて語る男爵。ことさら「クズ」と言うところを強調している様子からも、よほど腹に据えかねていたと見える。
「――まあ、そんなわけですので、あのクズどもに不幸があったところで、歓喜に打ち震える者こそあれ、怒る者、悲しむ者などひとりもおりません。それに、これまで行なった悪事の露見を恐れ、連中は宮中伯に泣きつくこともできませんので、まず確実にそちらも問題ないでしょう。……ただ、あのクズどものことです、汚れた人間を集めて仕返しする可能性がございますので――こちらをお貸しいたしましょう」
そう言って差し出された男爵の手のひらに、小さな召喚陣が浮かぶと、そこから通常サイズのラタトスクが現れた。
そのとたん、真綾の瞳がキラリと光る。
「連中のことは私が目を光らせておきます。何か動きのあったときは、このラタトスクを通じてお知らせいたしましょう。襲撃が事前にわかっていれば、ラ・ジョーモン様なら対処も容易かと」
その言葉が終わるや否や差し出しされた真綾の手を伝い、彼女の肩に駆け上るラタトスク。そして、思わぬモフモフご褒美に内心喜ぶ真綾。
この時をもってラッツハイム男爵は、真綾の脳内で、『いい人』箱から『とてもいい人』箱に栄転することとなる。
喜べ、ラッツハイム男爵。
「ところでラ・ジョーモン様、フクス商会から没収した金銭は、本当に、すべて娘たちに分配してもよろしいのですか?」
「はい」
当然そのつもりで没収してきた真綾は、男爵の問いかけに遅滞なく頷いた。
そんな彼女の様子をじっと見ていた男爵は、しばらく目をつむってから、大きく深く息を吐く。
「……なるほど、わかりました。貴き者の心構えというものを、あらためて教えられた思いです。――拉致されていた娘たちのこと、このフィデリオ・フォン・エーベルバッハにお任せください。しばらく当家で預かったのち、可能な限り本人の希望に沿った処遇をいたしましょう」
「ありがとうございます、ラタトスク男爵」
「ラッツハイムです……」
男爵の瞳に真摯な光を認めた真綾は、深く頭を下げて感謝の意を伝えると、出されていた焼き菓子をちゃっかり頂いてから、圧搾作業中のカールとのところへ戻っていった。
(……それにしても驚いた。この館すらスッポリ収納できるとおっしゃっていたが、【船内空間】とは、とんでもない加護もあったものだ。もはや、このお方が王侯であることは間違いないか……。しかし、何処の国、領邦の姫君かは存ぜぬが、一介の村娘たちのために心を砕き骨を折り、下級貴族でしかない私に頭までお下げになるとはな……。即位なされば必ずや善き王、善き領邦君主と…………うん? このお方がもし、配下の貴族と騎士を【船内空間】に収納しておいでなら、もはや歩く国軍そのもの。その気になればどの国でも切り取り放題なのでは……)
真綾を醸造所へと案内しながら、自分の背後を歩く彼女の底知れぬ力に戦慄する男爵であった。
◇ ◇ ◇
その夜――。
真綾はカール夫妻と老人に、自分が異世界から来た人間であること、両親を亡くした自分を祖父が育ててくれたこと、十三歳になったころに〈熊野さん〉と召喚契約を結んだこと、そして、大切な祖父を亡くしたあと突然この世界に飛ばされて来たことなど、思いつくすべてを打ち明けた。
家族のように接してくれる彼らに嘘をついているようで、真実を隠していることに耐えられなかったのだ。もちろん、そのことは熊野にも相談して了承を得ている。
暖房用と調理用を兼ねた暖炉の明かりのみが仄かに部屋を照らし、ときおりはぜる薪の音だけが響くなか、口下手な真綾がポツリポツリと語る話を、三人は静かに聞いていてくれた――。
「異世界か……そういうこともあるのじゃのう。さぞや心細かったろうに……」
最初に沈黙を破ったのは老人だった。しかし、異世界と聞いてもあまり驚いた様子がないのは、やはり、魔物や精霊、神といった超常の存在が当たり前なこの世界で、こうして生きてきたからなのだろう。
次に口を開いたのはカールだ。彼はつぶらな瞳で真っすぐに真綾の瞳を見つめて――。
「マーヤ、信じてくれて、ありがとう」
言葉少なに礼を言った。
真綾が自分たちを信じ秘密を明かしてくれたことが、彼にとっては何より嬉しく、そして同時に、そのことへの強い責任を感じたようだ。
すると今度は、真綾の話を聞いているうちから涙ぐんでいたアンナが、しんみりとした様子で夫に続く。
「マーヤ、ホントにありがとね。おじいさんのこと、なんて言ったらいいか……」
現代日本より死が身近にあるこの世界において、孤児はさほど珍しい存在ではない。
しかし、だからといって、その境遇が幸福なものでないことに変わりないし、優しい真綾が大切な祖父を亡くした時、どれだけ悲しんだのか、この数日間彼女と過ごしたアンナには容易に想像がついたのだ。
アンナの言葉を聞いた真綾の脳裏に、死期を迎えた祖父の姿がよみがえる……。
「最期に、おじいちゃんが……」
真綾は少しうつむくと、静かに口を開いた。
「……『ありがとう』って……」
あの時、酸素マスクの向こうで、たしかに祖父はそう言った。
それは、自分が言わなければいけない言葉なのに……。
無愛想で可愛げのない自分のため、残された人生のすべてを捧げてくれた祖父は、本当に幸福だったのだろうか?
その疑問がずっと、真綾の心に、魚の小骨みたいに引っかかっていたのだ……。
「おじいちゃんは本当に――」
「幸福だったに決まっておろう」
疑問を口にしかけた真綾を遮り、さも当然といった感じで老人が言いきった。
「わしにはわかる。こんなに優しい子を育てるために余生を注ぎ込めたのじゃ、幸福以外の何があろう。マーヤの祖父殿が羨ましい限りじゃ」
ハッと顔を上げた真綾に、穏やかな声で老人は続ける。
「マーヤと一緒に歩き、食べ、見る、そういった些細なことのたびに、祖父殿は幸福を噛みしめていたに違いない……。日々成長してゆくマーヤを間近で見、『おじいちゃん』と呼び慕われることが、祖父殿にどれだけのものを与えたことか、それこそ感謝のひとつも言いたくなろう……。それにのうマーヤ、こんなにも素晴らしい子に育て上げられたのじゃから、祖父殿はきっと――」
前髪の隙間から覗かせた穏やかな眼差しで、真綾の澄んだ目を見つめたまま、老人は――。
「――誇らしく、胸を張って逝けたに違いない」
――と、たしかな口調で言葉を結んだ。
それは奇しくも、真綾と祖父が最後に交わした約束の言葉……。
報われた気がした真綾の白い頬を、はらりと涙がひとすじ伝った。
そんな彼女の傍らに寄りアンナがやわらかく抱きしめると、この人々に出会えた奇跡を心から感謝する真綾。
思えば、サブロウから貰いプチガミ様の神力を込められた勾玉が、これまでずっと北を指し示していたのは、この出会いのためでもあったのかもしれない……。
そんな真綾に、アンナは優しく語りかける。
「……カールとも話し合ったんだけどね、マーヤ、アンタさえよかったら、ずっとここにいない? 出会ってそんなに経ってないけどね、アタシらみんな、アンタのことが家族みたいに思えてならないんだよ。――おじいさん、アンタもだよ、子供たちはアンタにすっかり懐いちゃってるし、カールもアタシも親不孝者だからね、少しは親孝行の真似事をしてみたいのさ。だから、おじいさんもいてくれないかな?」
真綾を抱きしめたままそんなことを言い出したアンナの顔を、真綾と老人は驚いたように見た。
だが、そうやってイイ感じの雰囲気が漂うなか、真綾の膝に乗っていたラタトスクが声を上げる。極めて申しわけなさそうに……。
『……あのー、お取り込み中のところ、たいへん恐縮ではございますが、ラ・ジョーモン様、ヤツらに動きがございました。…………あの、くれぐれも、くれぐれも、盗み聞きしようと思ってしたわけではございませんので、そこは何とぞお許しを……』
どうやらラタトスクを通して、ラッツハイム男爵には筒抜けだったらしい……。
 




