第三八話 伯爵の葡萄畑 四 収穫開始
何処とも知れぬ闇の中、ソレらは集い、蠢動していた。
ソレらは、シュタイファー参事会に返り咲こうと企む商業ギルドの面々……ではなく、それどころか人間ですらない――。
「グリューシュヴァンツのほうはどうなっておる? 厄介な宮中伯の戦力を削ってゆく手はずだったが」
「はっ! レーン宮中伯麾下の伯爵八家のうち、宮中伯からの信頼厚い一族と大鴉の一族、この二家は絶えたまま未だ新たな家も興ってはおりません。また、要衝バーデンベルク城を守る城伯の息子をナハツェーラーに変え、城伯を殺害させることも成功いたしました。……ですが、ナハツェーラーからの連絡が途絶えております」
大地を震わせるような重々しい声が響くと、明らかに下位と思われるモノがそれに答えたのだが、そこに含まれた緊張から、いかにその上位者を恐れているかが窺える。
「宮中伯に気取られたか……まあよかろう、城伯家をひとつ潰せたことに変わりない。それにしても、未だ両翼を失ったままとは宮中伯も憐れなものよ。――それで、シュタイファーは? たしかワイバーン使いを送ったはずだな」
「はっ! ワイバーンに都市を襲撃させ、駆けつけた領主を始末する。それが無理ならば領主の眼前で召喚解除することにより、ワイバーン使いを有する彼の国とグリューシュバンツとの不和を招く、という計画でございましたが……」
「どうした?」
それまで自分に報告していたモノが言葉を詰まらせると、重々しい声の主は不機嫌そうに尋ねた。
「……実は、都市で暴れつつ領主の到着を待っていたワイバーンが、何者かに拳の一撃で倒されたようで……。一瞬のできごとゆえ召喚解除する間もなかったらしく……」
「何ぃ! ワイバーンを素手で一撃だと!?」
その報告を聞いて驚きの声を上げたのは先ほどとは違うモノ。若々しいが、どこか軽薄そうな男の声だ。
まあ、〈伯爵級〉をワンパンと聞けばこの反応は当然なのだが。
「はっ! やったのは〈黒髪の女〉であったとの報告です」
「黒髪……まさか! ヤツが現れたのか!? どど、どうすれば……」
「みっともない声出さないでよぉ。それほどの力があって〈黒髪の女〉って言ったら、もうアイツ以外には考えられないでしょう? 予言のとおりじゃないの。……二国間の不和どころか、これは思いがけない大物が釣れたみたいねぇ」
狼狽の色を隠せないでいる若い声の主を嘲笑するかのように、今度は気怠げな女の声が流れた。
「それでぇ? ちゃんと見張ってるかしらぁ?」
「はっ! ワイバーン使いへの命令を変更し、現在その女を監視させております」
「はい、よくできましたぁ。――あの薄汚い大鴉どもがまだ保護していないところを見ると、経験を積ませて成長を促すように、とでも占いが出たんでしょうねぇ」
「つまり、ヤツはまだ完全ではないか……ふむ。――至急刺客を送れ! 始末できればよし、できずとも力のほどを窺えよう」
女の言いたいことを推し量り、重々しい声の主が下した命令に、納得、焦燥、不安、人ならぬ彼らはいったい何を思ったのだろう――。
◇ ◇ ◇
アンナの夫であるカールは、髪と同じ濃い茶色のヒゲで顔の下半分を覆われ、その上に草食動物を思わせるつぶらな瞳がちょこんとついた、この世界としてはたいへん大柄な男だった。
アンナの夫だけあって善良そうな彼は、真綾たちの逗留を快諾してくれたのだが、そんな優しいカールおじさんを見て某スナック菓子を思い出した真綾が、密かにツバをゴックンしたことは、まあ、別にどうでもよい話だろう。
それから数日間、真綾とアンナが甲斐甲斐しく世話をしたこともあり、老人は驚異的な回復を見せ、杖があれば歩き回れるほどになった。
そして――。
「よーし、頑張るぞー!」
「おー!」
夜も明けきらぬ空の下、アンナの明るい声に大勢の声が続いた。
いよいよ、カールの所有する葡萄畑の収穫が始まるのだ。
先に収穫を終えた農家からの援軍にカール一家を加えた、総勢二十人足らずが、急斜面にある葡萄畑のふもとで横一列に並んだあと、そこから上へ向かって一斉に収穫してゆき、先に終わった者はまだ終わっていないところを上から収穫する、というシステムである。
その中に、中学校指定の紺色ジャージに身を包み、髪をポニーテールにした真綾の姿があった……。
ちなみに、今日の彼女がジャージ姿なのは、学校行事で芋掘りなどの収穫作業をする際に染みついた習慣である。
「おい、アレ……」
「あのベッピンさん、正気か?」
「うわあ……」
この世界、少なくともこの辺りの女性は、農作業をする際でもディアンドル姿が当然らしく、真綾のジャージ姿はとにかく目立った。
そのうえ村で見たこともない極上のベッピンさんであるため、応援の村人たち、特に若い衆は、真綾を見た瞬間からずっとマークしていたのだが、現在彼らが驚いているのは容姿とはまた別のことである。
通常の収穫作業は、葡萄を摘む〈摘み子〉が多数と、大きな桶を背負う〈運び役〉数人に分かれ、手持ちの籠がいっぱいになった摘み子に呼ばれると、運び役はそこへ行って籠の中身を背中の桶に入れてもらい、やがて桶がいっぱいになると荷馬車まで運ぶのだが、なんと真綾は、手持ち籠の代わりに運び役用の大きい桶を背負って、摘み子を始めたのだ……。
「嘘だろ……あの桶の重さって、しまいにゃ大の男ひとりぶんになるぞ」
「俺、ちょっと言ってくるわ」
「あ、ズリぃ!」
などと彼らがザワつくのも当然だろう、何しろ立っているだけでも疲れるほどの急斜面である。重量物を背負ったまま何時間も中腰で作業し続けるなど、どう考えても正気の沙汰とは思えない。
こんな芸当ができるのは彼らが知る限り、タフで力持ちなカールぐらいだ。
「コラ、アンタたち! うちの子に見惚れてないでしっかり働きな! 休憩のチーズ抜きにするよ!」
「そうだぜあんちゃんたち、しっかり働かないとマーヤねえちゃんに笑われるぜ。うちのマーヤねえちゃんはスゲーんだ、見て腰抜かすなよ!」
カール一家は前日に収穫方法のレクチャーをした際、すでに真綾の異常なスペックを知っている。だからアンナたちは今さら驚きもしないのだが、そんなアンナとヨーナスに活を入れられて首をすくめていた若い衆は、やがて刮目することになる――。
「やべぇ! なんちゅう速さだ!」
「あれって、ちゃんと選別してるのか?」
「いや、やってんじゃねえか? 速すぎてよく見えねぇけど……」
始動した真綾は、鎌のように先の曲がったナイフを駆使して摘み取った房を、悪い粒だけ正確に除外してから次々と背中の桶に入れてゆく。
速い! 恐ろしく速い! 持ち前の几帳面さと運動能力、そして鋭い勘と熊野の完璧なサポート、そこに食への異常な執念が加わった今、彼女は一機の葡萄収穫マシーンと化しているのだ!
修羅のごとく収穫してゆく真綾を前に、若い衆は身震いする他なかった……。
◇ ◇ ◇
午前九時を知らせる鐘の音がかすかに聞こえてくると、みんな一斉に斜面を下りて小休憩を取ったのだが、休憩が始まったとたん真綾の周りに人々が群がった。
最初は当然のごとく質問攻勢から始まったのだが、じきに話題は変わり――。
「――そうかぁ、マーヤちゃんは十四なのかぁ。よかったら――イデッ!」
「マーヤちゃん、俺んち牛も飼ってるんだ――グエッ!」
「お前らバカじゃねえか? こういうベッピンさんは、もっとこう、きれいな花とかでだな――ッテェ!」
などと、絞りカスから作った安ワインを水代わりにガブ飲みしながら、お互い牽制し合う若い衆はもちろんのこと――。
「お前さんスゲェな、よかったらウチの息子の――」
「何言ってんのさ、アンタんとこの子ってまだ九つじゃないか。……ははーん、アンタさては……嫁に言ってやろ」
「バッ! そんなんじゃねえ! それだけはやめてくれ!」
「口数が少なくて働き者、そのうえ体も丈夫だなんて、嫁に貰うには最高じゃないか。ウチの息子はアンタよりちょっとばかし背が低いけど気のいい子でね、どうだいマーヤちゃん? ウチの子の嫁に――」
オジさんオバさんたちも、パンとチーズを両手に熱烈なアピール合戦を繰り広げていた。
まあ、他人の倍以上の働きをするうえに余計なことを言わず、さらにこれだけ器量よしの超優良物件なのだから、彼ら彼女らの勧誘に熱が入るのも当然ではあろう。
「ダメダメ! そう簡単にやるもんか。うちのマーヤを嫁にしたきゃ、この子より仕事ができるようになってから出直してきな」
「そうだそうだ! あんちゃんたちにマーヤねえちゃんは勿体ねえや!」
「そんなの絶対無理だ~」
アンナ親子からダメ出しされた若い衆が揃って情けない声を上げると、人々の明るい笑い声が秋の高い空へと上ってゆく。
実りの秋、収穫が無事に終わるころは、彼ら農民の心が最も浮き立つ季節なのだ。
そして、少し離れた場所からその様を見つめる二対の目――。
「うむ、絶対にやらん……」
「うん……」
家の外に出した長椅子に仲良く腰掛け、パンとチーズを両手に揃って頷く老人とマーヤ(おじいちゃんのお世話係を拝命中)であった……。
◇ ◇ ◇
真綾の獅子奮迅の働きにより、本日ぶんの収穫作業は予定よりも早く終わり、気温の高くならないうちに葡萄の圧搾をと、カールが荷馬車で醸造所に運んでいるのだが……。
「食べる?」
「うん……」
カールと並んで馬車の御者台に座る真綾が、自分の膝に座るマーヤに飴ちゃんを与えていた。……そう、なぜか大小マーヤが出荷に同行しているのだ。
どうしてこうなったか? それはもちろん、運がよければ搾りたての葡萄果汁にありつけるかもしれないと、小マーヤが大マーヤにコッソリ教えてくれたからである。
まあそんな感じで、口数の少ない三人組がのんびり馬車に揺られているうちに――。
「さあ、着いた」
カールが体に似合わぬやわらかな声で到着を告げた。
『まあ! これはまた――』
(花ちゃんが好きそう)
すると、真綾の脳内で熊野が明るい声を上げ、真綾は親友のことを思い出した。
目的の醸造所は城の中にあったのだ。……と言っても、バーデンベルク城のように実戦一辺倒な山城ではなく、葡萄畑に囲まれた貴族の城館ではあったが。
やがて、城門を抜けた馬車がカッポカッポと城内の石畳を進み、大きな建物内に入ったところで歩みを止めると、いきなり、天井の高い大空間に男の声が響いた。
『若、――ゲフンゲフン、カールよ、よくぞいらっしゃ……よく来たな、予定よりずいぶんと早いのではないか? すぐにそちらへ向かうゆえ、しばしお待ち……待て』
そんな感じで少々頼りない声が聞こえてきた方向には、大きな木製ネジ式圧搾機が何台も並んでいる。グーテンベルクの印刷機の基になったというアレだ。
真綾が声の主を探してみれば、なんと、一台の圧搾機の上で、彼女も知っている小動物が人語をしゃべっているではないか。
「花ちゃ――」
『あの子はラタトスクですよ、真綾様』
思わず小動物じみた親友の名を呼びそうになり、熊野に訂正される真綾であった……。




