第三七話 伯爵の葡萄畑 三 名前で呼んで
「――いや~ホントに驚いたよ、ベッドがいきなり消えちゃうんだもん。見かけない衣装着てるし、マーヤは旅芸人か何かなの? ――おっと、今の揺れは大きかったね、おじいさんは大丈夫?」
小さな荷馬車の御者台で快活に話す、三十手前と思われるこの女性の名前はアンナ。なんでも葡萄農家の奥さんなのだとか。
ダークブロンドの髪を編み込み、大きく胸元が開いた袖なしの前開き胴衣の下に、これまた襟ぐりの深いブラウス、丈の長いスカートの上に大きなエプロンという、南ドイツの民族衣装〈ディアンドル〉のような衣装を着ている。とはいえ、もちろん現代のそれのように、高級生地を使ったり刺繍で飾ったりはしていない。
道端のベッドに横たわる老人の姿を見るや否や、彼女は――。
「おじいさん、どっか具合でもわるいの? 雨露しのげるとこで休ませたほうがいいね……。日が暮れたら物騒だし、行くとこないんならアタシんちにおいで」
――と、快く真綾たちを馬車に乗せてくれたのだ。
「それにしてもなー、マーヤかー。下の子と同じ名前だなんて、これも神様の巡り会わせかもしれないね。うん、きっとそうだ! よろしくね、マーヤ」
「よろしくお願いします」
「うん! でもさ、アンタって落ち着いてるし体もすっごく大きいから、全っ然、十四には見えないね。よく言われない?」
「……」
疲れたのか眠りに落ちてしまった老人と、口数の少ない真綾を乗せているのだが、こうしてアンナが明るくしゃべり続けているため、暗くなりそうな雰囲気を大幅に緩和してくれている。……しかしアンナ、真綾の体が大きいことには、あまり触れないでやっていただきたい、これで結構気にしているのだ。
「ホントにまあ、スクスク育って――あ、着いたよ! ここがアタシんち」
アンナが馬車を止めたのは、葡萄畑広がる急斜面の下に建つ一軒の農家。
どうやら、中庭を取り囲むようにして、母屋や納屋、家畜小屋その他諸々が建っているようだ。おそらく外敵への備えや防犯を考えてのことだろう。
門の脇にたくさん赤い花を咲かせているバラが、素朴な木組みの家を華やかに飾り、秋バラ特有の濃厚な香りを辺りに漂わせている。
「おーい、帰ったよー!」
馬車から降りたアンナが大きな声を上げると、しばらくしてから門扉がゆっくりと内側に開き、その中から顔を覗かせた男の子と女の子がテテテと馬車に駆け寄ってきた。
「母ちゃん、おかえり! 異常なかったぜ、ちゃんとマーヤも……」
留守中の報告を元気いっぱいに始めた男の子が、荷台に乗る真綾の顔を見たとたん呆けたように固まってしまったのは、幼くとも男の悲しいサガを持つゆえか……いや、女の子も同じ状態であるから、真綾の美貌恐るべしと言うべきか。
「あらやだ、この子たち、きれいな娘さんに見惚れてるよ」
子供たちの様子に呆れてから楽しげにカラカラと笑うと、アンナは馬を引いて門の中へ入っていった。
◇ ◇ ◇
アンナが真綾と老人に貸してくれたのは、中庭の奥にある大きな納屋の一角……などと言えば、現代日本人はひどい扱いだと思うかもしれない。
しかし、リビング兼ダイニング兼キッチン兼なんでも兼である土間の他は、寝室がひとつしかない母屋に、客人を泊めるような余剰スペースなど存在しないのだから、こうなるのはしかたないことなのだ。
むしろ、こちらが頼まずとも泊めてくれるアンナは相当に善良な人物であり、そんな彼女とこうして出会えたことは、真綾たちにとって喜ばしい奇跡以外の何ものでもないだろう。
ただ、真綾が老人を抱えて馬車から降り立った時――。
「でっけー! 父ちゃんみたいだ!」
「……」
――と、男の子が無邪気に心を抉ってきたのは、真綾にとって決して喜ばしいことではなかったが……。
まあ、それは置いておくとして、納屋の掃除は、何かと忙しいアンナに代わり子供たちが手伝ってくれた。
お兄ちゃんの名前はヨーナス。年齢は八歳で、かなり濃い茶髪の下にヤンチャそうな顔を輝かせている。
妹はマーヤ。身長はヨーナスと大差ないが、これでまだ五歳なのだとか。名前が同じなだけでなく体が大きいうえ、人見知りなのかあまりしゃべらず、さらには黒髪と黒い瞳をしているため、真綾は親近感を覚えてしょうがない。
そんな幼いふたりが頑張ってくれたおかげで、掃除は滞りなく完了したのだが……。
「うわっ! スゲー! でっかいねえちゃんスゲー!」
「…………名前で呼んで」
納屋の隅に【船内空間】からベッドを二台出したとたん、ヨーナスが目を輝かせながら無邪気な刃を突き立ててきたため、堪らず懇願する真綾だった……。
「えー、マーヤと同じだからややこしいよー。うーん、マーヤもでっかいから、〈でっかいマーヤ〉だと変だしなあ……あ、それじゃあ、〈もっとでっかいほうのマーヤ〉は?」
「……」
「なんだよ黙って、そんなとこまでマーヤと同じかよ……。じゃあもう、〈マーヤねえちゃん〉でいいや、つまんないけど」
「一件落着」
ようやく無難な呼び名に落ち着いたところで、干し草の上に寝かせていた老人をベッドへ移した真綾は、子供たちを中庭に連れ出して【船内空間】から出した水で手を洗わせた。
彼女の指先からジョボジョボと流れ出したキレイな水に、ヨーナスは「スゲー」を連発し、無口なマーヤも黒い瞳を輝かせている。
蛇口を捻れば安全な水が出てくる現代日本とは違い、この世界でそれを手に入れるにはそれなりの労力を必要とする……いや、安全な水など存在しない土地も多いのかもしれない。
幼い子供たちの目には、真綾の何げなくすることのひとつひとつが、お話で聞いた女神様の御業のように映ったことだろう。
「スゲー! ふかふかだ!」
「ふかふかー」
などと感動する子供たちの手を、優しくタオルで拭いてやった真綾は、使用後のタオルを【船内空間】へ戻すと同時に、今度は銘菓旅鴉を三個取り出すと、不思議そうに見つめる子供たちの前で、ひとつを自分の口に放り込んだ。
「ふぁい」
真綾が口をモグモグさせながら旅鴉を差し出すと、それが食べ物だとわかった子供たちは一斉に飛びつき、口に入れたとたん、キラキラと瞳を輝かせ始める。
「なんだコレ! 甘い! なんだコレ! うまい!」
「……」
乏しい語彙で旅鴉を絶賛するヨーナスと、ひたすら無言でモグモグするマーヤを眺めながら、(花ちゃんと私みたい……)と、自分たちの姿を顧みていた真綾の頭に、熊野の満足げな声が流れる。
『……どうやら、餌付け作戦は成功のようですね』
(大成功)
熊野と真綾、心の中でほくそ笑むふたりであった。
それからしばらくして、アンナが納屋の様子を見に来たのだが――。
「どう? 掃除終わった? 汚いとこでホントごめんね――って何コレ!」
彼女は納屋の中を覗いたとたん、ただでさえ大きな目をひん剥いて驚いた。
そこで彼女が目にした光景は、農家の納屋に不釣り合いな高級ベッドが二台と、これまた高価そうなダイニングセット、そして――。
「……」
「……」
「……」
白いテーブルクロス上にズラリと並んだ食べ物の数々(和洋菓子のオンパレードである)を、ただ黙々と食べ続ける真綾と子供たち……。
「ずるい!」
そう言ってから、そそくさと自分も参加するアンナであった。
◇ ◇ ◇
お腹いっぱいになった子供たちが真綾のベッドに上ってスヤスヤと眠り始めると、アンナは真綾のために畑から葡萄をひと房採ってきてくれた。
それから彼女が真綾から貰った紅茶をフウフウしながら語ったのは、この葡萄畑についての話である。
その話によると、アンナたち夫婦は結婚後しばらく放浪した末に、この土地へ流れ着いたのだとか。
「――ここは一番近い村からも離れてるし斜面もかなり急でしょ? そのうえ大きな石もゴロゴロしてたから手つかずだったの。それから石だらけの急斜面を夫婦ふたりで開墾して、十年ほどかけて、ようやくここまでの葡萄畑にしたんだよ。ここ数年は葡萄のできがいいもんだから、とうとう去年は念願の荷馬車も買えて――まあ、たまたま安く買えたボロだったんだけどね、おかげでいちいち村まで借りに行かなくてよくなったの。――どう? うちの葡萄おいしい?」
「はい」
明るい黄緑色をした果実を黙々と口へ運んでいた真綾は、そんな自分を温かく眺めているアンナにコクリと頷いた。
熊野が言っていたように、ワイン用の葡萄は酸味が強かったが、それに負けないくらいの甘みと、なんとも言えない華やかな芳香もあり、彼女には掛け値なしでおいしいと感じられるのだ。
「……それは、さぞかし苦労も多かったろう……」
「うわっ! ――あ、おじいさん、目が覚めちゃった? 大丈夫?」
あらぬ方向から急に聞こえた声に驚き、ティーカップを落としてしまいそうになったアンナだったが、ベッドで上体を起こそうとしている老人に気づいたとたん、心配そうに椅子から腰を上げた。
すかさず駆け寄った真綾も介助しようとしたのだが、彼女を手で制止して老人は自力で起き上がる。
「ありがとう、おふたりさん、おかげでずいぶんと楽になった。――お嬢さん、わしはこのとおり大丈夫じゃ、さあ席にお戻り」
そうやって真綾たちに礼を言う老人の眼差しは、生きることを拒絶していた人物とは別人のように温かく、真綾を深く安堵させた。
もちろん安心したのはアンナも同じだ。
「おじいさん、その調子ならすぐ元気になるよ。よかったね、マーヤ」
「はい」
「ああそれと、おじいさんがさっき言ってたことだけど――」
老人の様子を見て、真綾と微笑み合っていたアンナは、急に何かを思い出したように老人へ話しかけ――。
「苦労なんてね、生きてりゃ誰でもしてることだよ。ちょっとしたご褒美があれば、あとは気の持ちようでなんとかなるモンさ。――こうして、授かった子供たちが元気に育ってくれて、これ以上のご褒美はないね。アタシはホントに幸せだよ」
――最後に、子供たちの眠るベッドへ視線を送ると、誇らしげにそう言いきった。
子供たちの寝顔を眺める彼女から溢れ出す母としての強さと愛情、そして喜び、そういった諸々を感じた真綾は、ふと思ってしまうのだ、自分の母も、こんなふうに自分を見てくれていたのだろうかと……。
『真綾様、もちろんでございますよ。……それに、この熊野もついております』
頭の中に流れた熊野の優しい声に、真綾の胸の奥がほんわりと温かくなった――その時である!
『はっ! 熊でございます!』
突如として、大きな熊が真綾たちのいる納屋の入り口に姿を現した!
威嚇するためか二本足で立ち上がっている熊の体高は、でっかさには定評のある真綾よりも大きいだろう。
しかもこの熊、真綾が大鴉の森で相撲を取った個体とは違い、信じられないことに、なぜか人間の服を着ているのだ……。
『この熊には、襲った人間の服を着るほどの知能があるとでも……なんと恐ろしい』
戦慄する熊野。老人も大きく目を見開いたまま固まっている――だがしかし、そんな緊迫した状況のなか、なんとアンナがスックと立ち上がり、仁王立ちしている熊に敢然と立ち向かっていったではないか!
これこそ、我が子を守る母の強さというもの――。
「おかえりなさい、カール」
「ただいまアンナ。みんな母屋にいないと思ったら、お客さんかい?」
嬉しそうに迎えるアンナの声に、意外とやわらかい声で熊が返した。
熊に見えたのはアンナの夫だったらしい……。
『あら、アンナ様のペットだったのですね。人語を解するとは、なんてお利口な熊さんなのでしょう』
などと、未だ真実に気づかない熊野をよそに、老人の心臓が止まっているのではないかと気が気でない真綾であった。
……それにしても、真綾の勘が警鐘を鳴らしていない時点で気づきそうなものだが、それでいいのか? 熊野よ……。




