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第三六話 伯爵の葡萄畑 二 老人と真綾


 力なくベッドに横たわる老人の手を、まるで壊れ物であるかのように握る真綾。その頭に響いたのは、いつもの明るさをどこかへやった熊野の真剣な声――。


『ずいぶんと衰弱していらっしゃいますね……。真綾様、しばしの間、お体をお借りしてもよろしいでしょうか?』

(はい)


 言われたとおり体の主導権を真綾が譲ると、熊野丸に乗っていた船医の知識とスキルを持つ熊野は、テキパキと手慣れた様子で老人の診察を始めた。


(どうですか?)

『貧血、低体温、それに脱水の症状も見られます。脈拍も弱いですね……。筋肉や脂肪の落ち方からしても、やはり極度の栄養失調からくるものかと。それに――』


 診断を終えて真綾に体を返した熊野は、心配そうに聞いてくる彼女へ説明を始めたのだが、老人の病状は相当に深刻なようだ。


『――眼振が見られることからウェルニッケ脳症の疑いが、歯茎や皮下の出血から壊血病の疑いが、その他にも、感染症を併発している恐れがありますし、肝臓や腎臓にも重度の疾患があるかもしれません。正直、まだ生きていらっしゃることが不思議なくらいで……』


 熊野の沈痛な声を聞いた真綾は、ふたたび老人の手を優しく握った。

 老人の痩せこけた手が、病床にあった祖父のものに思えてならない真綾は、熊野を困らせると知りつつも、彼女らしくもないワガママを口にしてしまう――。


「熊野さん、お願いします。助けてください」

『…………はい、最善を尽くします』


 珍しく感情をあらわにした真綾にそう答えはしたものの、熊野は深く考え込んだ。

 そもそもの原因が極度の栄養失調だったとしても、栄養補給だけで済む時期はとうに過ぎている。すでに複数の合併症が重症化し、老人がここまで衰弱しきっている今、おそらく何をしても手遅れだろう……。

 しかし、祖父の死をようやく乗り越えた真綾を、ふたたび悲しませることはできない。

 決して諦めず、考えに考えた熊野は、やがて、ひとつの可能性にたどり着く。


『そうです! 真綾様、アレでございます!』

(アレ?)

『はい、アレでございます。まずは――』

(――なるほど)


 熊野から説明を受けた真綾は、【船内空間】から取り出した吸い飲み(病人が寝たまま水を飲めるようにした容器)に、同じく【船内空間】から出した少量の白湯を入れ、そこに細かく磨り潰した何かを混ぜた。

 この何かこそ、熊野がたどり着いた可能性の正体である。


『このお薬に賭けてみましょう。何しろクレメンティーネ様のお墨付きでございますし、シュゼット様のような能力も存在する世界ですから、地球の常識を超えた効能があっても決して不思議ではございません』

(はい)


 そう、真綾が白湯に混ぜた物は、苔女から貰った丸薬を磨り潰した物なのだ。

 真綾は老人の上半身をわずかに起こすと、彼の干涸らびた唇の隙間へ、まずはほんの少しだけの薬湯をそっと流し込んだ――。

 するとどうだろう! その直後から、老人は嚥下していないというのに、割れていた唇が見る見る治っていくではないか!


『すごい……すごい効き目ですよ! ほんのわずかに口内粘膜から吸収しただけで、これほど急速で劇的な変化が起こるなんて! 真綾様、今の要領でまた少しだけ投薬いたしましょう。おそらく、そうするうちに嚥下できるようになると思いますので、それから少しずつ、ゆっくりと、流し込む量を増やしていきましょう』

(はい)


 苔女から貰った薬の尋常ならざる効能に、たちまち熊野は明るさを取り戻し、真綾は顔を輝かせた。

 彼女たちの脳裏に、モフッとした緑色の姿が浮かぶ。

 愛らしい苔の精霊に心からの感謝を捧げ、真綾は熊野の指示どおり、時間をかけてゆっくりと老人への投薬を続けるのだった。


      ◇      ◇      ◇


 苔女から貰った丸薬は熊野の読みどおり、常識ではありえないほどの即効性と効能を発揮した。

 眼球の震えは収まり、体温や脈拍もほぼ正常値に戻っている。歯茎や皮下などに見られた出血が止まっているだけでなく、あちこちに見られた小さな傷そのものまでキレイサッパリ消えているのは、いったいどういうことだろうか。

 恐るべし、ファンタジー世界……。


『古傷以外は小さな傷跡ひとつ残さないなんて、本当に素晴らしいお薬です。顔色もずいぶんとよろしいので、心臓などの機能を回復しつつ、血液量も増えているのかもしれません。この様子なら合併症なども治っていることでしょうね。――真綾様、もう最悪の状態は脱しましたよ』

(よかった……)


 熊野の言葉を聞いた真綾の目が少し潤んでいるのは、今度は救えた、という思いからだろうか……。

 ホッと胸を撫で下ろしている真綾に、熊野は釘を刺すことも忘れない。何しろ人命に関わることなのだ。


「ですが真綾様、まだ気を緩めてはなりませんよ。衰弱から回復しきっておりませんし、このまま栄養を与えませんと同じことの繰り返しです。ご高齢でいらっしゃることを考慮すれば、いつ何が起こるかわかりません」

(はい。何をあげればいいですか?)


 もちろん真綾もそれは承知で、素直な返事とともに思ったことを熊野に尋ねた。


『そうですね~。通常でしたら、飢餓状態にあるところへ急に栄養を与えますと、急激な糖代謝が進んで再栄養症候群を引き起こしてしまうのですが、苔女様に頂いた不思議なお薬のおかげで、おそらくその心配もないでしょう。でも、念のため今日のところは、そば湯を薄めたものを少しずつお飲みいただきましょうか』

(そば湯?)

『はい、そうでございます。そば湯には再栄養時に大切なビタミンやミネラルなど、さまざまな栄養素が含まれているんですよ』


 そういうわけで、さっそく用意したそば湯を冷まし、真綾が老人の上半身を起こしたところで、彼のまぶたがゆっくりと開いた。

 最初は空中をさまよっていた視線が真綾の顔を捉え、今まで朦朧としていた意識が鮮明になると、ようやく自分の置かれている状況に気づいた老人……だが、その表情が落胆しているように見えるのはなぜだろう。


「……余計なことを……」


 一度そうつぶやいてから、老人は暗い瞳で真綾を見上げると、かすれる声で話しかけてくる。


「……お嬢さんに救われたようじゃな、……感謝する」

「いえ」


 真綾に感謝を述べた老人だが、彼が続けて発したのは信じられない言葉だった。


「……もう充分じゃ。……わしのことは放っておいてくれ」

「……」


 それは、善なるものも悪しきものも関係なく、この世界のすべてを拒絶しているような硬い声……。

 どう返してよいかもわからず固まっている真綾の様子に、罪悪感を覚えたのか、老人は弱々しく息を継ぎながらも、言いわけするかのように言葉を続ける。


「命を救われておきながら、……勝手なことを言ってすまぬ。……しかし、野垂れ死にして当然の罪を犯した身。……それに……わしが死んで悲しむ者も、……今はもうおらん」


 老人の言葉の最後は寂しげな声で結ばれた……だが――。


「います」


 キッパリと言いきった真綾の言葉に、老人は目を見張った。


「……私が悲しいです。だから――」


 今こうして自分の話している相手が、行き倒れていた老人なのか自身の祖父なのか、真綾にはもうわからなくなってきていた。

 ただ、これだけはハッキリしているのだ、かつて自分が、病床にある祖父に言いたくても言えなかった言葉、それを今こそ――。


「――おじいちゃん、生きて!」


 真綾の心から飛び出してきた声が老人の胸に突き刺さり、彼女の大きな目からぼろぼろとこぼれ落ちる涙が、老人の乾ききった心に干天の慈雨のごとく沁み込んでゆく。


(見ず知らずの老いぼれのために、この娘は涙を…………ああ、わしはまた過ちを……)


 善良なる者を悲しませたことに深く恥じ入る老人……。だが、彼は気づいただろうか? 今まで自分の世界を覆っていた闇が、すっかり消えてしまっていることに。

 結局のところ、人の心を救えるのは、人の真心でしかないのだ。


「お願い、おじいちゃん、死なないで、……お願い……」

「ああ、わしが悪かった、本当にすまなかった……」


 子供のように泣きじゃくる真綾へ何度も謝りながら、老人は、自分の涙がまだ残っていたことに驚いたのだった。


      ◇      ◇      ◇


 その後、真綾にそば湯を飲ませてもらい人心地ついた老人は、ポツリポツリと自分の身の上について語り始めた。

 

 ――老人にはひとり息子がいたのだが、ある日、良家との縁談を持ちかけたところ、その息子が、自分には結婚したい相手がいると言って断ったのだそうだ。

 息子の言う相手の家柄が自分の意にそぐわなかったため、厳格な封建的家長であった老人は猛反対し、ついには、頑として折れない息子を勘当してしまったのだとか。

 最初は息子を忘れようとした老人だったが、やがて、最期まで息子のことを心配していた妻が他界したことで、頑迷さゆえに大切なものを失ってゆく己の愚かさに気づき、消息不明の息子を探す贖罪の旅に出たのだった――。


「……そして、息子を見つけられぬまま十年余りが過ぎ、路銀もとうに底を突き、ただ生ける屍のようにさまよった挙げ句、こうして行き倒れていたというわけじゃ。……他人には聞かせられぬ恥ずかしい話じゃが、お嬢さんには話しておきたくてな……」

「……」


 弱々しく苦笑する老人に、真綾はかける言葉を見つけられない。

 こんなとき、彼女は口下手な自分のことが悲しくなる。そして思うのだ、花ちゃんならなんて言うのだろう、と……。


「無理に言葉を探さんでもよい、お嬢さんの気持ちは充分に伝わったから。……ありがとう、心優しき娘よ」


 真綾の心を見透かしたようにそう言うと、老人は彼女の頭にそっと手を置いた。

 頭に置かれた手のぬくもりを感じながら、自分にいつもそうしてくれた大切な人のことを思い出し、また涙を滲ませる真綾であった。

 するとそこへ、一頭立ての二輪荷馬車が通りかかり、その上から真綾たちへ――。


「こんな道端でどうしたの!?」


 ――と、驚いたような声がかけられた。これにより真綾と老人の運命がどう動くのか、それはもう少しだけ先の話。





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