第三五話 伯爵の葡萄畑 一 加速装置
明るく澄んだ秋空の下、見渡す限り広がる葡萄畑の中を、のたりのたりと蛇行する大河。今、その水面を滑るようにして、二隻の船が追いかけっこしていた。
追う側が屈強な男六人で漕いでいるのに対し、追われる側は女性がひとりで漕いでいる。それはもう尋常ではないピッチで……。
「待てえ~い! そこの船、御用だ~!」
追う側から怪盗アニメの某警部のような声が飛ぶが、追われる側はなんのその、ただ黙々と船を漕ぎ続け、その差はまったく縮まらない。
もう一度言おう、追う側が屈強な男六人で漕いでいるのに対し、追われる側は女性がひとりで漕いでいるのだ……。
「え~い、止まれ~い! 止まらんと射つぞ~!」
などと言ったそばから、追う側の艇長は逃げる女性を目がけ矢を射掛けた。どうもこの男、かなり短気な性格らしい。
もちろんそう簡単に中るはずもなく、放たれた矢はポチャリと川に落ちたのだが、はなから彼も一射目が命中するなどとは思っていない。部下に全力で漕がせつつ次々と矢を放ち続ける。
そのうち一本の矢が女性の頭に中りかけ、軽く首のひと振りで躱されるに至り、艇長は少し冷静になって考えた。
(あれ? 何かがおかしい……。あの女、飛んでいる矢を楽々と躱したぞ。それに、女がたったひとりで、これほど速く船を漕げるものだったか?)
その答えが出る前に、追われている船の上では黒髪の女性がボソリとつぶやく。
「加速装置」
意味不明な言葉が終わると同時に、なぜか奥歯を噛みしめた彼女は……これまで以上に爆漕ぎを始めた!
速い! 恐ろしく速い! 六人漕ぎの船がどんどん引き離されていく!
彼女は奥歯に加速装置のスイッチを埋め込まれた、戦闘用サイボーグだとでもいうのだろうか!
「……あ、わかった。……櫂上げ、もう追わなくていいぞ。……あれ、貴族だ」
追跡中止を部下に伝えたあと、見る見る小さくなってゆく船を見送りながら――。
(あっぶねえぇ、中らなくてよかったあぁ……)
――と、ホッと胸を撫で下ろしたこの艇長、実は河川通行税の徴税吏なのだが、おそらく、追われていた側がそれを知ることはないだろう。
◇ ◇ ◇
『さすがは真綾様、見事なお逃げっぷりでございました』
「仰天号は無敵」
『それにしても、いきなり矢を射掛けられたのには驚きましたね~。いったい何者だったのでしょうね、海ではないので川賊?』
徴税吏の船を完全に撒いたカッターボート、仰天号(真綾命名)の上で、熊野と真綾はのんびり会話していた。……もはや説明不要だとは思うが、先ほど逃亡していた女性は真綾であり、また、彼女が言った「加速装置」に深い意味などない。
急に近づいてきた船からの停船命令をガン無視して、彼女は逃亡を図ったのだ。やはり真綾、トンズラする快感に目覚めたようである……。
その後は特に変わったこともなく、しばらく漕いでは昼食を摂り、またしばらく漕いではおやつを食べ、真綾は爽快な川旅を満喫していた。
やがて、川が大きく左へカーブしたところで、何かに気づいたらしい熊野が明るい声を上げた。
『そこそこ大きな川が東から合流してくる地点を過ぎて、これまで北上していたレーン川がグイッと西へ向きを変えた角辺り……あ、間違いございません、左舷前方に見える都市、あれがモインツでございますよ! シュタイファーの市長様に教えていただいた情報どおりです』
「大きいですね」
真綾の感想どおり、このモインツという都市は、彼女がこれまでに訪れた異世界都市のどれよりも規模の大きい都市であった。
石材を城壁のように積んだ護岸と川港の奥に、都市を囲む市壁が延々と続き、その向こうには、壮麗な建造物群の上層部分や屋根が覗いている。
『本当に大きいですね~。――さて真綾様、もうひと息でございますよ、適当な場所を見つけて上陸いたしましょう。楽しみですね~』
「はい、楽しみです」
感情が極めて表へ出にくいため、彼女の祖父か親友でもない限り表情から判断するのは難しいが、真綾は内心ウキウキと進行方向左側にあるモインツ――ではなく、なぜか、その逆である右側へ向かって仰天号を漕ぎ始めた……。
『市長様は本当によいことを教えてくださいましたね。近くに温泉都市があると知らなければ、きっとこのままモインツに泊まっていたことでしょう』
「温泉三昧」
……そう、温泉。
シュタイファーの市長いわく、モインツの対岸から北へ少し歩いたところに、バーデンボーデンと同じような温泉保養都市があるのだとか。
バーデンボーデンで温泉の素晴らしさを再認識した真綾に、それを見逃すという選択肢は存在しないため、シュタイファーから一〇〇キロメートル以上はあろうかという距離を、彼女はひたすら爆漕ぎし続けて来たのである。
侮りがたし、温泉の魅力。
『あ、あの辺りがよさそうですよ、接岸いたしましょうか』
「はい」
上陸に適したポイントを教えてくれる熊野に従い、真綾は船を寄せていった。
◇ ◇ ◇
西へと向きを変えたレーン側の北岸に上陸した真綾は、葡萄畑の間を縫うように延びる農道をスタスタと北へ向かって歩いていた。
『真綾様ご覧ください、あんなに急な斜面まで葡萄畑が続いていますでしょう? ああして水はけがよく日当たりのよい斜面が、葡萄を栽培するのに適しているからなのですよ』
「なるほど……」
ワインに関する知識も豊富な熊野が解説すると、低い山並みの急斜面まで続く一面の葡萄畑を、真綾はさも感心したように眺めたのだが、内心、たわわに実った葡萄が気になってしょうがないのは、まあ彼女らしいと言えよう。
『おそらくワイン用の品種ですから、この葡萄をそのまま召し上がると、少々すっぱいかもしれませんよ』
どうやら熊野にはお見通しのようだ。
道の両側から誘惑してくる黄緑色の果実を、真綾が恨めしそうに眺めていると――。
「なんだ? 行き倒れか?」
「おい、ジイさん、聞こえるか?」
――葡萄畑の向こうに見える馬車のほうから、そんな声がかすかに聞こえてくるではないか。
何しろ真綾である。「行き倒れ」、「ジイさん」、このふたつのワードを耳にした彼女は即座に駆け出すと、自分が歩いていた農道と交差する道を曲がり、声の聞こえてきた場所まであっと言う間にたどり着いた。
そこに彼女が見たものは、停止した二頭立て荷馬車の前方で死んだように横たわる人物を、馬車の護衛らしき男ふたりが遠巻きにして、槍の柄でツンツンと突っついている光景。
長く伸びた髪とヒゲの色からすると、やはり、倒れているのは老人だろう……。
「汚いジイさんだなあ。――おい、早くどけろよ! 邪魔だ!」
大きな四輪荷馬車の上から汚物を見るように老人を一瞥すると、小太りかつ生意気そうな少年が、護衛の男たちに高圧的な態度で命令した。
それにしても、十代前半と思われる子供にここまで偉そうな態度をとられて、それでも怒りを抑えられる護衛たちは、ある意味、高い職業意識を持つ立派な大人だと言えるかもしれない
「しかし坊っちゃん、まだ息があるみたいですぜ?」
「ヴァイスバーデンの救貧院にでも連れてったほうが――」
「うるさい! なんで僕がそんな汚い――っ!?」
自分の目を見ながら真っ当な発言をし始めた護衛たちに、顔を真っ赤にして怒り出した少年だったが、なぜか反論の途中で言葉を失った。
「坊っちゃん、何をそんなに――うわっ!」
「いつの間に!?」
目を丸くしている少年の視線をたどり振り向いた護衛たちが、思わず驚きの声を上げてしまったのも当然だ。何しろ、さっきまではいなかった黒衣の女性が、いつの間にか老人の傍らで両膝をついているのだから……。
老人の顔を覗き込んでいる彼女の顔はよく見えないが、着ている衣装、よく手入れされた艷やかな黒髪と、老人の手を取る手が白くきれいなことから、良家の若い娘であろうことが窺える。……少なくとも護衛たちには。
つまり、そのことに気づかぬ者もいるわけで――。
「なんだお前? そんなに汚い手を握って。バカじゃないのか?」
「……」
行き倒れた老人の手を握っている女性(まあ、もちろん真綾なのだが……)を、馬車の上から蔑むように見下ろして、いささか失礼な発言をした少年だったが、まったく彼女からの返事がないことに苛立ちを覚え始める。
「おい、耳が聞こえないのか! 僕を誰だと思ってる! このレーンガウ一帯じゃ泣く子も黙る大商人――」
「黙って」
「へ?」
何やら言い始めたところを真綾に命令口調で遮られ、少年は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で固まった。
「おじいさん、聞こえますか?」
しかし、彼に対しては冷たい口調だった真綾が、行き倒れの老人には丁寧な言葉遣いと優しい声で話しかけると、その様子を見た少年の中に沸々と怒りが込み上げ――。
「なあ、お嬢さん、助かりそうかい?」
「わかりません……」
「すまねぇな、俺たち仕事中なもんでよ、雇い主にダメと言われちゃあ……」
「あとは私が看ます」
――さらには、狩人ギルドで雇ってやった護衛ごときにまで、彼女が丁寧な言葉遣いで受け答えするのを聞くに至り、少年の脆弱極まりない堪忍袋の緒は切れた。それはもうプッツンと……。
「おいお前! 頭おかしいのか! 薄汚いジジイにまで丁寧にしゃべりかけてるのに、なんで僕にだけ偉そうなんだよ! 普通は逆だろう、何せこの僕は――」
「黙れ」
激高した少年が目を充血させて言った抗議の言葉も、真綾の冷たい言葉によってぶった斬られた。それはもうプッツンと……。
彼には気の毒な話だが、同級生である木下に対する親友たちの極めて雑な扱いを、小学生のころから日常的に見ているため、真綾に同世代男子を敬うなどという意識はさらさらないのだ。一ミリも。
「なっ! ……くそうっ! ――おい、お前ら! この僕に逆らえばどうなるか、この女の体に教えてやれ!」
真綾からの粗雑な扱いに顔を真っ赤にした少年は、呆れ顔で突っ立っている護衛たちに、悪役の教科書というものがあれば必ず載っていそうな命令を下した……のだが、命令されたほうは困惑するばかり。
「いやあ、坊っちゃん、悪いことは言わねぇ、手荒い真似はやめといたほうがいいと思いますぜ。――なあ」
「ああ。――坊ちゃん、ひょっとしたらこの娘さん、お貴族様かもしれませんぜ」
真綾の体に教えるどころか、お互い顔を見合わせて頷き合った護衛たちは、信じられないことを少年に教えてくれる始末。
しかし、彼らの諌めるような眼差しに、まるで自分が子供扱いされたような気がして、甘やかされて育ってきた少年は怒りの炎をさらに燃え上がらせた。
「バカかお前たち! 女貴族がひとりでこんなところにいるか! だいたい、わざわざ行き倒れの汚い手を握って、丁寧な言葉遣いで優しい声をかけてやるような貴族が、いったいどこの国にいるんだよ! いいから僕の言うとおりにしろ!」
「……まぁたしかに、そんな貴族がいたら奇跡だ。でもなあ……」
「……そうだなあ」
ツバを飛ばしながら力説した少年は、真綾を痛めつけるよう命令を繰り返すが、護衛たちは彼の説に納得しつつも困り顔を見合わせるのみ。もし貴族ではなかったとしても、行き倒れの老人を気遣う優しい真綾の姿に、彼らの良心は動かされていたのだ。
どうやら、彼らは善良な部類の人間らしい。
「お前たち! 僕の言うことを聞かないと、父さんに言いつけて――え?」
「なんと!」
「おお……」
雇っている側と雇われている側、双方はその信じがたい光景に自分の目を疑った。
真綾が老人を優しく抱き上げたかと思ったら、その直後、今まで何も無かった道の脇に、いかにも高級そうなベッドが魔法のように現れたのだ。
(ほらぁ、言わんこっちゃねぇ。クソガキ、どうなっても知らねぇぞ~)
(あーあ、だから苦労知らずのボンボンは……。それにしても、人のいい貴族もいるもんだなあ)
などと心の中で言いたい放題の護衛たちと、タラタラと汗をかき始めたボンボンをよそに、そっと老人をベッドに寝かせる真綾。
すると、彼女が自分に関心を示さず背中を向けているのを好機と見たのか、少年はポカンと口を開けていた御者の頭を力いっぱい引っ叩き、裏返った声で逃走の命令を下した。
「何してるウスノロ! 早く行け! 今のうちに逃げるぞ!」
「へ、へい!」
そうやって全速力で走り出した馬車と、それを追いかけてゆく護衛たちのことなど気にも留めず、ひたすら心配そうに老人の手を握る真綾であった。




