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第二八話 バーデンボーデン 一〇 そして、逐電す


 真綾へ魔弾が命中する寸前に思わず目を閉じていたシュゼットは、唐突に違和感を覚えた。

 腕に食い込んでいたナハツェーラーの冷たい指と縄の感覚が消え、それどころか、自分は今、温かい誰かの腕で優しく抱き上げられているようなのだ。

 えも言われぬ芳香が彼女の鼻腔をくすぐり……それが、昨夜コッソリ嗅ぎまくったものと同一だと判断するや否や、シュゼットはバチッと目を全開した!

 そこにあったのは――。


「大丈夫?」


 ――と、心配そうな眼差しで自分を見下ろしている、真綾の顔。


「マーヤ様っ!」


 その名を呼ぶシュゼットの両目から、見る見る涙が溢れ出したのは、自分は助かったのだという思いよりも、真綾が無事であったことへの喜びのため。

 その白い頬を薔薇色に染めているのは、真綾にお姫様抱っこされている現状を瞬時に理解したため。

 そして、その鼻の穴がいつもより大きく開いているのは、少しでも多くの芳香で肺を満たすため……。

 そこへ、彼女の知らない女性の声が聞こえてきた。


「真綾様! 奇跡です! バッチリ水平を保っておりますよ!」

「ヒッ!」


 いきなり聞こえた明るい声に驚き、シュゼットはキョロキョロと首を巡らせた。

 しかし、声の主らしき人物の姿はどこにもない……いや、それよりも、城壁上にいたはずの自分が、城壁の下で立っていたはずの真綾に抱かれて、まったく見知らぬ場所にいるのだ。

 向こうに見えているのは、さっきまでいた城の裏山だろうか……。

 無論、密かに召喚した熊野丸をハブにして瞬間移動を繰り返すことで、真綾はシュゼットを無事救出していたのだが、救出されたほうがそれを知るよしもなく、彼女は真綾の腕の中で何度も目を瞬かせている。


「ここは、いったい……」

「世界で一番安全な場所」


 少しだけ得意げに答えた真綾は、シュゼットを抱いたまま後ろへ向き直ると、手すりのある場所まで歩き始めた。

 その歩みとともに、最初は空と遠くの山だけしか見えなかった風景が徐々に変化してゆく。

 やがて、手すりの向こう――といっても水平ではなく、そのはるか下に、先ほどまで自分のいた城壁が見えるに至り、シュゼットはようやく気づいた。


「ここは……お城の上、でしょうか?」

「はい、ご名答です~」

「ヒッ!」


 自分の口から何げなく出た疑問に、先ほど聞こえた女性の声が明るく答えると、またもやシュゼットは小さく悲鳴を上げた。


「ですが、正確には、お城の上に載ったわたくしのさらに上、でございますね。――あ、申し遅れました。わたくしは真綾様の守護者をしております、熊野と申します。以後お見知りおきを」

「マーヤ様の守護者っ! ――あら? でも、クマノ様はいったいどちらに?」


 熊野の自己紹介で相手が真綾の守護者だと知るや否や、シュゼットは興奮気味にキョロキョロしたのだが、守護者らしき姿はどこにも見当たらない。

 不思議に思ったシュゼットの問いに、またもや、熊野の澄んだ声が明るく答える。


「ここでございますよ。先ほど申しましたように、真綾様が現在お立ちになっている場所が、わたくしの本体の上でございます」

「え……」


 熊野の言っていることが理解できなかったシュゼットは、あらためて、自分が現在いる場所を確認した。

 目の前には手すりがあり、それがどこまでも続いている。

 よく見ると、手すり向こう側の下には、何隻ものボートらしき物が手すりに沿って一列に並んでいた。

 真綾の肩越しには、赤く塗られた塔のような建造物が見える――。


「……申しわけございません、ここが塔を備えたお城のような施設であることは、どうにか理解できましたけれど、クマノ様のおっしゃることの意味がわたくしには……」

「はい、現在シュゼット様のいらっしゃる場所こそが、かつて〈南海の女帝〉と呼び讃えられた、わたくしの上なのです! ――あ、正確には、わたくしの遊歩甲板前部なのですが」

「南海の、女帝……」


 熊野が誇らしげに言った言葉の一部分に、シュゼットは衝撃を受けていた。


(この世界に存在する守護者は〈王級〉までのはず、なのにクマノ様は、たしかにご自分を〈女帝〉だとおっしゃったわ。このとてつもない大きさを見れば納得するしか……ということは、当然、マーヤ様は……)


 ひとつの結論に達すると、憧れ度マックス状態で真綾の顔を見上げ、彼女は気づいた、憧れの人が冷たい表情で一点を見つめていることに。

 その凍てつくような視線を追ったシュゼットの口から、その先にあるモノの名がこぼれ出る。


「ナハツェーラー……」


 ――そう、そこにあったのは、あんぐりと口を開けてこちらを見上げている、魔物の蒼白い顔だったのだ。


「行くね」


 その声をシュゼットが聞いた瞬間、お姫様抱っこをする者とされる者、ふたりの姿は、ふたたび忽然と消えた。


      ◇      ◇      ◇


 ナハツェーラーにはまったく理解できなかった、自分が今、目の当たりにしている光景のことが。

 彼が立っている城壁の内側は広場になっており、その向こうには、城の本体である建造物が天に向かってそびえていたはず……。

 しかし、今はどうだ! 無残にも半壊した城の上に、つり合いの取れた天秤のような感じで、ナニカが載っているではないか!

 彼の居城よりもはるかに巨大なナニカが……。


「あ……」


 呆けたように口を開けていたナハツェーラーは、その巨大なナニカの上に、シュゼットを抱き上げている真綾の姿を見た。

 そのとたん、彼の頭は高速回転を始める。


(まさか、アレが彼女の守護者だとでも……。いやしかし、〈伯爵級〉はもちろん〈諸侯級〉にも、あそこまで巨大なモノは存在しない。まさか〈王級〉……いやいや、バケモノ揃いの諸侯をも超える王などという規格外が、そう都合よく……いや、待て。〈王級〉のドラゴンですらアレよりもっと小さかったはず……。ならばアレは……アレを召喚した彼女はいったい何者だと……)


 自分の中にあるアードルフの知識を総動員していた彼は、とうとう気づいてしまった。実在が確認されている限り、絶対的存在である〈王級〉にさえ、あれほど巨大なモノは存在しないという事実に。

 そして、悟った――。


(……なんということだ、私は彼女のことを見誤っていた。彼女は伯爵などではなかったのだ、断じて、そんな可愛らしいモノでは……。私は決して怒らせてはならないモノを怒らせてしまったのだ……)


 ナハツェーラーの心が絶望の淵に沈んだ、その時――。


「成敗」


 彼の頭上から、美しくも冷たい声が聞こえた。


「え――」


 それが、かつてアードルフ・フォン・バーデンベルクだった魔物の、この世界で最期に発した声だった。


      ◇      ◇      ◇


 自分のすぐ下からナハツェーラーの短い声が聞こえた直後、シュゼットの視界は一メートル数十センチほど縦に流れた。

 ……そう、彼女を抱き上げたままナハツェーラーの頭上に転移した真綾は、短時間だけ体重を数十トン増加して、憐れな魔物を一気に押し潰したのだ……。

 真綾がこのようなエグい方法を採ったのは、単に両手が塞がっていたからなのか、それとも、シュゼットに従兄だったモノの最期を見せまいと気遣ったからか、それは定かではないが、シュゼットは後者であると確信した。


「……終わったのですね」

「うん、もう大丈夫」


 ナハツェーラーの残滓である光の粒子が、彼女たちの足元から立ち昇ってはサイダーの泡のように消えてゆく。

 その中で、ふたりの少女は見つめ合っていた。ひとりはウットリと、もうひとりは至って平常運転で。

 そんな真綾の脳内に熊野が話しかけてきた。

 その声が非常に申しわけなさそうなのは、おそらく、お姫様抱っこされて幸せの絶頂にいるシュゼットの気持ちを、熊野なりに忖度してのことだろう。


『あの~、お取り込み中のところ誠に恐縮でございますが、城内で腰を抜かしている方々はどういたしましょう? いちおう拘束しておきますか?』

(はい)


 こうして、真綾の連続瞬間移動によって片っ端から捕獲された男たちが、次々と熊野丸へ送られては熊野に拘束され、最終的に城内の一角へ積み重ねられていくという、漁業関係の食品工場にも似た一連の流れ作業が、しばらくの間続けられたのであった。

 ちなみに、拘束用に召喚物のロープではなく、あえて男たちの着衣を使用したのは、この世界で召喚物のロープが悪用されることを、とある理由により熊野が警戒したためであって、決して彼女の趣味嗜好ではない。

 また、その作業に入る前、真綾の腕から降ろされたシュゼットが、この世の終わりが来たような顔をしたのだが、それはどうでもいい話である。


      ◇      ◇      ◇


 米俵のごとく積み上がった男たちの頂上へ最後に執事を載せ、真綾はその出来栄えに満足していた。


(完璧)

『さすが真綾様、きれいに積み上がりましたね~。米俵みたいです』

(お米……)

『今日のお昼は和食にいたしましょうね』


 などと、真綾と呑気に脳内会話していた熊野だったが、ほどなくして、真綾の頭に緊張した声を響かせる。


『真綾様! 未確認飛行生物がこちらへ接近中です!』


 真綾は間髪入れず熊野丸へ瞬間移動し、積み上げ作業を甲板上から見守っていたシュゼットの横に現れた。


「ハーピーではございませんね、ずっと大きいです。――あら、上に人が乗っているようですよ」

「はい、楽しそうです」


 ――などと、双眼鏡並みの倍率で視認できる熊野と真綾が、飛来中の生物について〈通常会話〉で話し合っていると、そのとなりでシュゼットが声を上げた。彼女もまた加護により、カラドリオス並みの視力を持っているのだ。


「あれは……リントヴルム! ということは――」

「リントヴルムといえば、たしか翼を持つ小型ドラゴンですね。シュゼット様は心当たりでも?」

「はいクマノ様、おそらくは、宮中伯麾下の伯爵ではないかと」

「宮中伯とは、王領地を任されていた廷臣が諸侯化したものでしょうか?」

「はい、たしかそうだったと……。わたくしも他国の者ですので、詳しい歴史までは存じませんが、グリューシュヴァンツ帝国五大諸侯の一角にして、バーデンボーデンを含む大領地の君主です」


 そうやって熊野に説明しながらも、シュゼットは焦っていた。

 彼女自身は宮中伯と面識がないため、その人柄を詳しくは知らないが、宮中伯ほどの大貴族が真綾の存在を知れば、利用か排除、どちらかに動くことが考えられる。

 いずれにせよ、このまま真綾が見つかってしまえば、必ず面倒なことに巻き込まれるだろう。

 青い瞳で真綾の顔を見つめながら乙女は苦悩する。乙女ゆえに苦悩する。


(叶うことならばマーヤ様と離れたくない……。一緒にお食事するのはもちろんのこと、お風呂に浸かるマーヤ様の姿をもっともっと堪能したいし、この肺をマーヤ様の香りで満たしたい、毎日……。けれども、これほどのお方が孤独な旅をされているのには、おそらく、いいえ、きっと、やんごとなき理由があるはずよ! 決してこのような場所で足留めしてはならないわ! シュゼット、あなたもプランタジネット家次期当主なら、ここは涙を呑んで、やるべきことをやりなさい!)


 そしてシュゼットは、心を決めた!


「マーヤ様、ここから西に少し行けば、川船の往来する大河が北へ向かって流れていますし、街道も通っています――」


 静かに話し始めた彼女の青い瞳を、真綾の黒い瞳が見つめ返した。

 思わず頬を染めながらも、シュゼットは言葉を続ける。


「――宮中伯はたいへん恐ろしいお方だと聞いております。自分の庇護下にある城伯の城が破壊されたとあっては、おそらく黙ってはいないでしょう。……マーヤ様がやんごとなきご理由で旅をなさっていることは、わたくしも察しております。黙って面倒ごとに巻き込まれる手はございませんよ。ですので――」


 シュゼットは、そこで目を伏せてから――。


「マーヤ様、あとはわたくしにお任せになって、一刻も早くこの場をお離れください!」


 ――ふたたび真綾を見上げ、言い放った! いつもより美しい姿勢で、貴族としての威厳にも満ちて。


「シュゼット様、それではあなた様にご迷惑が……」

「クマノ様、お気遣いありがとうございます。でも、わたくしは大丈夫。城伯家とは縁戚ですし、他国の貴族にあまり強引なこともできないでしょう。それに、わたくしには心強い後ろ盾もいらっしゃいますので」


 心配してくれる熊野にやわらかい声で返すと、シュゼットはニコリと笑った。


「マーヤ様、もしもセファロニアへいらっしゃることがございましたら、ぜひとも、港湾都市〈ル・ポール〉にある〈王立リスブロン女学院〉をお訪ねください。わたくしはそこにおります」

「ありがとう、シュゼットちゃん」

「シュゼッ!」


 真綾が珍しく、やわらかい微笑みを浮かべて礼を言うと、シュゼットの鼻から赤い液体が噴き出すのであった。

 その理由が、微笑み、ありがとう、初めての名前呼び、この三連コンボであったのかなかったのか……真相はシュゼットしか知らない。


      ◇      ◇      ◇


 猛スピードで遠ざかる真綾の背中を城壁の上から見送りながら、鼻血の止まったシュゼットはひとりつぶやく。


「不思議ですマーヤ様、わたくし、あなたにまたお会いできる気がしてなりませんの。その時まで、どうかお元気で……」


 彼女の金糸のような髪が、優しく吹いてきた秋の風を受けて、フワリフワリと軽やかに揺れた。


 このようにして、さっそく城ひとつ潰した真綾は、初めて訪れた異世界都市から慌ただしく逐電し、バーデンボーデンを騒がせていた連続失踪事件は、この日を境にプッツリと途絶えたのだが、事件を解決したのが誰であったのか、都市住人の何人かには、なんとなく想像がついたのであった。




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