第二七話 バーデンボーデン 九 真綾、爆走す
シュゼットは堪らず、その場に崩折れた。
体中の力が急速に失われていくのを感じる……。
治癒魔法に特化しているカラドリオスのおかげで、男爵としては高い魔法抵抗力があるためか、なんとか即死だけはまぬがれたようだが、このままではやがて死に至るだろう。
魔物に捕まった白い鳥が光の粒子になっていく……。その光景を、どこか遠いことのように眺めながら、彼女は憧れの人の美しい顔を思い浮かべた。
(マーヤ様、お約束を守らず、申しわけございませんでした……)
シュゼットの白い頬を、ひとすじの涙が伝った……その時である!
『ご当主様、急ぎ報告が!』
扉の向こうから、慌てた様子の声がかけられた!
「チッ、――どうした、この忙しい時に!」
『はっ! 尋常ではない速度で城へと走って来る〈黒い人影〉が! どうやら女のようですが、ふもとの門を一瞬で突破し、なおも山道を接近中でございます!』
その報告が聞こえた瞬間、貴族と魔物、まったく異なる二者の脳裏に、まったく同じ人物の姿が浮かび上がる。
「マーヤ様!」
「あの女か!」
喜びと畏怖、それぞれが異なる感情を含んだ声を上げた者のうち、後者のほうは考え込んだ。
(マズい、さすがに伯爵はマズい。〈アレ〉を使えば倒せるだろうが、躱されてしまえば終わりだ、どうすればいい、どうすれば……)
その時、床に倒れ込んでいるシュゼットに視線を止めると、ナハツェーラーの蒼白い顔は見る見る綻び始め、まぎれもない安堵の声が流れ出した。
「ああ、シュゼット、きみが生きていて本当によかった。今から僕と一緒にお客様をお迎えしに行こう」
◇ ◇ ◇
温泉保養都市バーデンボーデンを見下ろす山の中腹には、山体から突き出した崖があり、その先端部分に、バーデンベルク家の居城は建てられていた。
三方が断崖絶壁なうえ、山道とつながる唯一方向に横堀を切って守りを固めた、要害堅固な名城である。
今、その横堀に架かる跳ね橋を上げ、城門も固く閉ざした城壁の上に、かつて城主の息子だったモノと、両手を縛られた少女の姿があった。
「さあシュゼット、お客様がいらっしゃったよ」
山道を爆走して来る人影が視界に入ると、血縁殺しの魔物は囚われの少女に声をかけた。
ほどなくして、その人影、羅城門真綾は、城壁から二〇〇メートルほど離れたところまで来ると、城壁上のシュゼットを見つけて立ち止まった。
その様子を見たシュゼットは、力の限り大声を上げる。
「マーヤ様! お気をつけて!」
しかし、その声を合図にしたように、城壁上の〈バリスタ〉群が、ボルトと呼ばれる矢を次々に発射した!
巨大なクロスボウともいえるバリスタは、空飛ぶ魔物も存在するこの世界では、都市や城の防衛に不可欠な兵器であり、当然この城にも設置されていたのだ。
全長二メートルはあろう巨大なボルトが、唸りを上げて真綾へ迫る!
鎧を着た兵士すら数人まとめて貫くというそれを、生身の人間がまともに食らえばどうなるか……。
だがしかし――。
「よ、ほっ」
真綾は難なくそのすべてを回避した、まるで遊んでいるかのように……。
しかも、最後に飛んで来た一本をガシリと空中で掴み取ると――ゴブリン弓兵を倒した時と同様、投げ返した!
音速をも超える速度で帰省したボルトは、実家であるバリスタへ正確に帰着し、その勢いのまま粉砕する! その様は、ゴールデンウィークに帰省した新社会人が実家で荒れている光景にも、どこか酷似しているのではなかろうか。
さらに真綾は、地面に深々と突き刺さっているボルトを軽々と引っこ抜き、次々に帰省させてゆく。几帳面にも、すべて実家へ向けて……。
「ぎゃああああ!」
「ひいいいいい!」
「バケモンだぁぁ!」
金で雇われていた有象無象どもの、ティッシュペーパーよりも薄い忠誠心は、ここに崩壊した。
「やはり躱されたか……フン、まあいい」
悲鳴を上げながら城内へ逃げ去っていく配下たちを尻目に、ナハツェーラーは確信した。考えもなく〈アレ〉を使わずに正解だった、あの厄介な女貴族を確実に倒すには、やはりあの手しかないと。
勝利への道すじが見えた彼は、横堀の前に到着して自分を真っすぐ見上げている真綾へ向け、しらじらしい笑みを浮かべたまま手を叩く。
「いや~、お見事です伯爵、余興はお気に召しましたか? ご挨拶が遅れ誠に申しわけございません。私はアードルフ・フォン・バーデンベルク子爵――」
「マーヤ様! コレはアードルフの姿をした魔物です!」
自分の言葉がシュゼットに遮られると、ナハツェーラーは不機嫌そうに彼女の美しい金髪を引っ張った。
「うっ!」
「シュゼット、はしたないよ。僕がしゃべっている途中じゃないか」
彼女の耳元に顔を寄せたナハツェーラーは、ささやくように言ってから、ふたたび真綾へ話しかける。
「不作法な従妹が失礼しました。さて伯爵、ここで私と取り引きなさいませんか?」
その言葉を聞いてか聞かずか、感情の読めない表情で自分を凝視している真綾へ、ナハツェーラーはさらに話を続けた。
「コレの言うように私はナハツェーラー。自分の影に触れた者の命を奪うことができます。コレはもう長い時間、私の影に触れていたため、私が次に能力を発動すれば一秒ほどで死に至るでしょう。そのような短時間でこの距離を詰め、あまつさえコレを助け出すことなど、いかに伯爵といえども不可能なのではございませんか? それで提案です――」
「いけません! こんな――うっ!」
「シーッ」
ナハツェーラーはふたたび話を遮った少女の髪を引っ張ると、わざとらしく、自分の口の前に人差し指を立てた。
そしてまた、何ごともなかったかのようにしゃべり出す。
自分が今、劫火に油を注ぎ続けていることにも気づかず……。
「――それで提案です。これから私があなたに対して一回だけ攻撃しますので、あなたはそこを一歩も動かず、その攻撃を受けてください。そうしていただければ、シュゼットを必ず解放いたしましょう」
「何を――うっ!」
その理不尽な提案に猛然と抗議しようとしたシュゼットだが、またもや髪を強く引っ張られてしまった。彼女の毛根は大丈夫なのだろうか。
「――伯爵にとって難しい話ではないと思いますが? たかが〈城伯級〉の魔物でしかない私ごときの力が、伯爵であるあなたに通用するはずもございません。そうでしょう? 私はただ、伯爵のお力がどれほど偉大なものなのか、純粋に見てみたいだけなのです。いかがでしょう? お断りなされば、憐れなシュゼットを道連れに――」
「受ける」
真綾は凛とした声で即答した。
自分の言葉を最後まで聞くこともなく、相手があっさり提案を受け入れると、ナハツェーラーの口元は三日月のように吊り上がった。
「素晴らしい! なんと気高き精神か! それでは――」
「いけませんマーヤ様! わたくしなどのために――」
「シュゼット! 貴族である彼女が受けると言ったのだ、きみは伯爵の顔に泥を塗るつもりかい?」
「クッ、卑劣な……」
強引にシュゼットを黙らせると、ナハツェーラーはコートの下から一本の棒を取り出した。
魔石が嵌め込まれたその棒には、何やら幾何学的な模様や文字がビッシリと彫り込んである。
それを見るなりシュゼットの目は大きく見開かれ、口からはひとつの名がこぼれ出た。
「カノーネ……」
――カノーネ――。
それは、嵌め込まれた魔石の魔力を使い、魔素を凝縮させた〈魔弾〉を発射する、〈魔導武器〉である。
この世界の人間は、自分の守護者より一級格上の魔石を素材にした魔導具まで使える。
そのため、守護者を持たぬ一般人は〈男爵級〉、男爵は〈城伯級〉の魔導具が使用可能なのだが、〈城伯級〉以下の魔石では魔力が低く魔導武器にはならない。つまり、一般人やシュゼットたち男爵では魔導武器を使えない。
だが、〈城伯級〉の魔物であるナハツェーラーなら――。
「マセキサ、ネムリス、オオギェチ、カラヨ――」
「やめて!」
シュゼットは呪文の詠唱に入ったナハツェーラーを阻止しようと、残る力を振り絞って体当たりした!
しかし、ナハツェーラーの影に触れていた彼女の力はあまりにも弱く、アードルフの虚弱な力しかない魔物にすら、片手で容易に制されてしまうのだった……。
その間にも詠唱は続き、カノーネに刻まれた模様が光を放ち始める。
「――デグレ、ワーノ、テキツ、ラヌイデケ。――魔弾よ穿て!」
詠唱を終えたナハツェーラーがカノーネの先を真綾に向けると、まばゆい光を帯びたその先端から、煌々と輝く魔弾が発射された!
(終わったな)
「マーヤ様!」
その瞬間、魔弾の射手は己の勝利を確信し、シュゼットは悲痛な声を上げた。
――カノーネなどの魔導武器は、貴族が格上の魔物と戦うため、錬金術師たちに長年かけて開発させたものだ。これを使えば、〈城伯級〉の魔物であるナハツェーラーでも、本来なら歯が立たない伯爵に大ダメージを与えられるだろう。
伯爵の魔法抵抗力によって、ある程度は魔弾の威力が減少するだろうが、重症を負わせられさえすれば、シュゼットの死体を連れて逃げることができるし、運がよければ伯爵の血肉も手に入る――。それが、彼の作戦であった。
だがしかし――。
「そんな……バカな……」
バリスタのボルトをはるかに上回る速度で飛んだ魔弾が、真綾の胸に命中する直前に跡形もなく消失すると、その様を見たナハツェーラーは何が起こったかもわからず、呆然とその場に立ち尽くした。
その時、彼の手が掴まえていたシュゼットと、城壁の下にいた真綾の姿が――忽然と消えた。
「……な、何が起こったというのだ? ふたりはどこへ消えた? まさか、あれは伯爵ではなく諸侯だったと……いいや、それはない、この帝国とセファロニアの諸侯家にあんな女は存在しない。ならば諸侯ではありえない、諸侯などというバケモノがそう何人もいてたまるか。それではいったい……」
アードルフの記憶にある上級貴族に関する情報と、真綾の特徴を照らし合わせながら、ナハツェーラーが蒼白い顔をさらに蒼くしていると――。
「なんだアレは!」
「うわああああ!」
「逃げろおおお!」
――突如として配下たちの悲鳴が聞こえ、その直後、耳をつんざく轟音と激しい振動が彼を襲った!
思わず身をすくめたあと背後を振り返ったナハツェーラーが、呆然自失となったのも致し方あるまい。その澱んだ目に、想像を絶する光景が映ったのだから……。
彼の手から落ちたカノーネが、カランと乾いた音を立てて転がった。




