第二六話 バーデンボーデン 八 シュゼット、奮戦す
シュゼットと一緒に観光する約束をしていた真綾は、ギルドを出たあと真っすぐ宿へ帰ったのだが、彼女が宿の中へ入るなり、ロビーに若い女性の声が響いた。
「ラ・ジョーモン様!」
真綾が声の主を確かめると、それはシュゼットの侍女であった。しかし、なぜかその顔は蒼白で、明らかに尋常ではない様子だ。
彼女はそのまま泣きそうな声を上げながら、真綾のもとへと駆け寄ってくる。
「ラ・ジョーモン様、シュゼットお嬢様が!」
「落ち着いて」
取り乱している侍女の両肩を、真綾は優しく掴んだ。
すると彼女は少しだけ落ち着いたらしく、シュゼットの身に何があったのかを語り始めた。
「は、はい……。実は、あなた様をお見送りしたあと、バーデンベルク家の馬車がお嬢様を迎えに来たのです。お嬢様はあなた様とのお約束どおり、城へ行くことを断ろうとなさったのですが、使いの者が言うには、ご当主が急に倒れられ一刻を争う状態なのだとか。命をお救いできるのはお嬢様しかいないと言われて、お優しいあのお方が放っておけるはずもなく……」
「行ったんですね?」
「はい、お嬢様はわたくしに、『あなたはここに残って、このことをマーヤ様へ直接お伝えなさい』と……。お嬢様には護衛がおりませんし、ここまで便乗させていただいた子爵家ご一行も、ちょうど他の都市へ遠出なさっています。どういたしましょう、ラ・ジョーモン様、わたくし嫌な胸騒ぎが! お嬢様の身に何かあったら――」
シュゼットが彼女をここに残したのは、信頼の置ける者に伝言を頼みたかったからか、それとも危険から遠ざけるためだったのか……。
いずれにせよ、シュゼットを心配する侍女の様子を見ただけでも、互いに強い信頼で結ばれていることがわかる。
ふたたび取り乱し始めた侍女の目を、真綾は真っすぐ見つめ――。
「大丈夫」
――と、優しく微笑んだ。
その、あまりにも美しく、あまりにも男前な表情を目にして、侍女の白い頬は彼女の主と同様、見る見る薔薇色に染まってゆくのだった。
その後、魂までとろけてしまったような侍女を置いて宿の外へ出ると、真綾の頭に澄んだ声が響いた。
『行かれますか?』
(はい、行きます)
短い言葉に短く返すと、真綾は一陣の風になった――。
◇ ◇ ◇
バーデンベルク家の居城に着いたシュゼットは、執事に案内されて城内を歩くうち、得体の知れない不安に襲われていた。
亡くなった伯父は当然として、誠実で気のよかった家臣たちの姿もなぜか消え、その代わりに見かけるのは、どこか後ろ暗そうな顔をした見知らぬ者ばかり。
かつては隅々まで掃除が行き届き清潔だった城内が、今では蜘蛛やネズミたちの巣窟と化しているではないか。
(それに、……かすかに血の匂いがするのは、気のせいかしら?)
幼いころから何度も訪れていたこの城が、まったく知らない場所に感じられて、シュゼットは軽く身震いをした。
「シュゼット様、こちらの部屋でお待ちを」
やがて、重厚な両開き扉の前まで来ると、見知らぬ執事が亡者のごとき声で告げた。
勝手知ったる他人の城、この部屋が何なのかを知るシュゼットは首をかしげる。
(あら? ここは……大食堂よね、なんでこんな部屋に?)
彼女は疑問に思いながらも、恐る恐る大食堂の中へ足を踏み入れた。
薄暗い食堂内に、魔導ランプの光だけがユラユラと揺らめいている。窓を塞いでいるのはなぜだろう……。
突然、シュゼットの背後で、バタンと重い音が響いた。
「ヒッ!」
その音に驚いてシュゼットが振り向くと、入ってきた扉が固く閉じられていた。
一抹の不安が、彼女の脳裏をよぎる。
「シュゼット」
「ヒッ!」
唐突に名を呼ばれたシュゼットは、小さく悲鳴を上げて再度振り向き――目を丸くした。
そこには、いつの間に現れたのか、生死の境をさまよっているはずのアードルフが、蒼白い顔に笑みを浮かべて立っていたのだ。
「アーディ! 騙したのね!」
「シュゼット、きみこそひどいじゃないか。今日も僕との約束をすっぽかすつもりだったんだろう?」
「それは……」
激しい剣幕で食ってかかったシュゼットだが、アードルフに言い返されたとたん言葉に詰まった。このあたり、人生経験の不足と正直で善良な人柄が、彼女の足を引っ張っているようだ。
「僕の命が危ないと言えばきみは必ず来てくれる、そう信じていたよ。――シュゼット、ああ、優しいシュゼット、君はなんて慈悲深く、そして愚かなんだい?」
昨日と全く同じセリフを言ったアードルフの口が、無垢な少女を嘲るように歪む。
「クッ! アーディ、わたくしをどうするつもり? はっ! まさか、あんなことやこんなことを……」
「……きみは少しも変わらないなあ。そういうところも、優しいところも、そして愚かなところも……。この僕がそんなゲスな真似をするものか。僕はねシュゼット、きみとおいしい料理を食べたいだけなんだよ……」
「本当に?」
淫靡な妄想を膨らませていたシュゼットは、呆れたように言うアードルフの言葉を聞くと、考え違いだったかと胸を撫で下ろした。だが――。
「ああもちろん……いや、少し言葉を間違えたかな? ……うん、そうだ。『きみとおいしい料理を食べたい』じゃなく、シュゼット、『きみで作ったおいしい料理を食べたい』だったよ」
アードルフはそう言うと、黄ばんだ歯を剥き出した。
「……あなたは、誰?」
「僕かい? もちろん、きみの優しい従兄、アードルフさ」
「嘘よ! アーディはそんな笑い方しないわ!」
蒼白い顔に邪悪な笑みを貼り付かせた男の答えを、シュゼットは全力で否定した。彼女の知っている従兄は、病床にあっても優しい笑みを絶やさない、春の陽だまりのように穏やかな人なのだ。
断じて、目の前の男とは違う。
「ああ、すまないシュゼット、また間違えたよ。『アードルフだった』と言ったほうが正しいのかな? ……いや、しかし……」
「あなた、何を……」
わけのわからないことを言い出した相手にシュゼットが混乱する一方、しばしうつむいて考え込んでいたアードルフは、いいことを思いついたと言わんばかりにパッと顔を上げた。
「うん、そうだ! まずはこの話をしておかないとね。――実はね、僕は先月、死んだんだよ」
「え……」
「そう、とうとう僕は息を引き取ったんだよ、眠るように。――シュゼットも知ってのとおり、病弱な僕は今まで何度も死にかけて、仮死状態になったこともあったよね? だから、本当に死んでしまった僕が〈ナハツェーラー〉になっても、誰も気づかなかったというわけさ」
「ナハツェーラー……」
彼女が愕然としたのも無理はない、親しかった従兄が亡くなり、最悪の魔物に成り果てていたと聞かされたのだから。
――ナハツェーラーとは、人間の死体が変じた〈城伯級〉(シュゼットの国では〈子爵級〉だが)の魔物のことだ。
厄介な能力を持つうえに心臓を刺したくらいでは倒せず、その性質は極めて邪悪で人の血肉を好むという。
「……教えてちょうだい、そこにアーディの魂は……いるの?」
たとえ少女といえど、シュゼットもこの世界の貴族である。彼女は気丈にもショックから立ち直ると、最も気掛かりなことを聞いた。
「きみは学院で習ったのだろう? 魂から変じた死霊のたぐいと違って、死体から変じたナハツェーラーなどは、死んだ時点ですでに魂が天に召されていると」
「じゃあ、あなたは……」
「僕に魂があるとすれば、アードルフ・フォン・バーデンベルクという人間の記憶と、かつて彼だった肉体を持った、まったく別の魂じゃないかな?」
従兄だったモノがおどけたように答える、まるで彼女の絶望を味わおうとするように。
だがしかし――。
「……そう、よかった……。それなら、――消えなさい!」
優しかった従兄の魂がそに存在しないと知るや、シュゼットは隠し持っていた短剣をひらめかせ、ナハツェーラーへ躍りかかった!
(アーディの姿で罪を犯すなんて絶対に許さない! 彼が亡くなった時点で召喚契約は解除されたはず。守護者がいないのなら、たとえ相手が〈子爵級〉でも勝機はあるわ!)
シュゼットのその考えは、あながち間違ってはいない。
同じ〈子爵級〉でも相手がレッドキャップなら、恐ろしく素早い動きと、屈強な成人男性並みの筋力があるため、女男爵の彼女では歯が立たないだろう。
しかし、ナハツェーラーの身体能力は基になった人間に準ずるため、この個体には病弱だったアードルフの貧弱な身体能力しかないのだ。
つまり、男爵家次期当主として戦闘訓練を積んでいる彼女ならば――。
ズブリ――。
壁際まで追い詰められたナハツェーラーの胸に、深々と白刃が刺さった。
これで終わったとシュゼットが安堵した、次の瞬間――。
「やっと捕まえた」
暗い喜びを含んだ声がシュゼットの鼓膜を震わせ、氷のように冷たい手が彼女の細い手首を掴んだ。
シュゼットの背筋に悪寒が走る。
「シュゼット、勉強不足だよ。ナハツェーラーを倒すなら、せめて首を斬り落とすくらいはしないとねぇ」
憐れむようにそう言うと、ナハツェーラーの口が醜く歪んだ。彼女は忘れていたのだ、死者の心臓を刺しても意味がないことを。
「離して!」
「いいや、離さない。――何しろ狩りをしすぎてね、そろそろ宮中伯に気づかれそうなんだ。エーデルベルクから恐ろしいアレが出てくる前に、さっさとここを逃げ出さないといけないから、今のうちに高級な肉を食べておきたいじゃな――っ!」
嫌がるシュゼットに近づいていた蒼白い顔が、慌てて遠ざかった。
その顔へ向かって、白い鳥が猛然と襲いかかる!
「クソッ! 〈カラドリオス〉か!」
「――次はちゃんと、その首を斬り落とすわ」
ナハツェーラーが鳥を振り払っている間に短剣を構え直したシュゼットは、青い瞳で相手を見据えた。
――この白い鳥こそが彼女の守護者、カラドリオスなのだ。鴉よりもひと回り小さい体に【治癒】の加護を持ち、〈男爵級〉としては最も重宝がられる守護者である。
「まったく貴族というのは厄介な相手だ。こうして、加護を持った本人と守護者、その両方が襲いかかってくるのだからね。父上の時は本当に苦労したよ」
「あなたが伯父様を!」
「ああ、最初の狩りがバレてしまってね。さすがに城伯だ、僕ではまったく歯が立たなかったよ。――だから、この能力を使わせてもらった」
ナハツェーラーはそう言いながら服の袖をめくった。すると――なんということだろう、あらわになった腕の一部が、噛みちぎられたように欠けているではないか!
「いかに魔法抵抗力の高い守護者を持つ父上といえど、対象を局限したこの〈呪い〉を防ぐことは無理だったよ」
生々しい傷を目にして、シュゼットはナハツェーラーの持つ能力を思い出した。
彼らは己の肉体を貪り食うことで、血縁を死に至らしめる呪いを発動するのだ。そしてその呪いは、血縁が濃くなるほど飛躍的に強化される。
相手が父親なら、己と同格の魔法抵抗力を破って即死させるほどに――。
「なんてことを……」
「心配しなくともシュゼットには使わないよ、さすがに従妹まで血縁が薄まると、格下である男爵が相手でも呪いの効力は見込めないからね。――まあ、かくして僕は魔石に成り果てることなく、父上は天に召されたというわけさ」
血縁殺しの魔物が道化のような笑みを浮かべると、その邪悪な存在を今度こそは滅ぼそうと、怒りに燃えるシュゼットは深く身を沈めた。
(あいつの目をカラドリウスに狙わせて、その隙にわたくしが――)
そんな彼女の考えを見透かしたのか、石造りの広い室内にナハツェーラーの声が陰々と響く。
「シュゼット、もう遅い。――つくづくきみは勉強不足だね、ナハツェーラーの能力が他にもあると習わなかったのかい? ほら、自分の足元を見てごらん、きみは今、どこに立っているのかな?」
「何を――」
魔物に言われたとおり、チラリと足元へ視線をずらせたシュゼットは、それに気づくと心の底から後悔した。
壁の魔導ランプを背にしたナハツェーラーから伸びる影を、いつの間にか自分が踏んでしまっていたことに。
――影に触れた者の命を奪う――。
それこそ、ナハツェーラーという魔物が持つ、もうひとつの能力であった。




