第二三話 バーデンボーデン 五 温泉
バーデンボーデンで最も大きい広場の一点に、人々の視線は集中していた。
彼らの視線の先にあるのは、この国では見かけぬ黒い衣装と長く艷やかな黒髪、スラリと高い身長が印象的な、ひとりの若い女性である。
もちろんその衣装も人目を引くのだが、老若男女を問わず口を開けて見入っているのは、神殿の女神像もかくやと思われる彼女の美貌と、その行動だった。
なんと彼女は、広場にある食べ物の屋台を片っ端から制覇しているのだ。
彼女の日本名が羅城門真綾であることは、言うまでもない……。
『宿と居酒屋以外に食堂がないとノーア様からお聞きした時には、いささか困惑してしまいましたが、このように屋台が並んでいてよろしゅうございましたね』
(はい、おいしいです)
屋台で買った奇妙な形をした菓子パン(店主はブレーツェルと言った)をモグモグしながら、真綾は満足げに答える。
まだ文明レベルが低そうなこの世界の料理と、熊野の作る洗練された高級料理では、もちろん比べるべくもないのだが、自分が食べる場合に限り、真綾のストライクゾーンは驚くほど広大であった。
みんな違ってみんないい、それが彼女の食へ対する姿勢なのだ。
『真綾様、そろそろ宿へ向かわれてはいかがでしょう』
(はい)
熊野の提案に脳内で答えると、菓子パンの最後のひと切れを口に放り込んだ真綾は、ノーアに教えてもらっていた宿へと歩き出した。
都市における政治経済の中心である広場を囲むようにして、ギリシャ風の神殿を始め立派な建物が並んでいるのだが、そのなかに、ノーアが教えてくれた宿は建っていた。
『は~ずいぶんと立派な宿ですね~。木組みの建物も素敵でしたが、これもまたヨーロッパという感じがします。――あ、窓をご覧ください、ガラスです。狩人ギルドにはなかったのに、ここの窓には牛乳瓶の底みたいなガラスが並んでいますよ』
(はい、素敵です)
石造りの重厚な建物を前に、乙女ふたりはすっかり観光客気分である。
遍歴職人や行商人の使うような安宿を、貴族である真綾にノーアが紹介するはずもなく、バーデンボーデンでも最高級の宿を教えてくれていたのだ。
『それでは、チェックインいたしましょうか』
(はい)
真綾が歩を進めると、彼女に見惚れていたドアマンは慌てた様子で扉を開けた。
いかにも格式高そうな異国の宿を前にした場合、普通の女子中学生なら気後れしそうものだが、真綾は彼女らしいきれいな姿勢で堂々と入ってゆく。
その姿は誰が見ても、彼女が高貴な身分であることを物語っていた。
異世界の宿といえば、玄関開けたらすぐ食堂のイメージがあるのだが、この宿は現代のホテルに近く、さりげなく絵画や彫刻が飾られたロビーの奥にフロントらしきカウンターが見えている。
(猫耳幼女……)
何からの影響で何を期待していたのか知らないが、カウンターの向こうにいるのが壮年の男性だと知って、真綾はいたく残念そうである。……いや、普通はいないだろう。
『残念です……』
真綾の頭に、こちらも残念そうな熊野の声が流れた……。
◇ ◇ ◇
無事にチェックインを済ませ、とりあえず二泊ぶんの宿代を前払いした真綾は、ベルガールに案内してもらった三階の客室に入り、【船内空間】から出した銘菓〈旅鴉〉と日本茶でまったりしていた。
宿に入ったらまず和菓子とお茶、これは日本人としての基本である。
さて、いまさらではあるが、〈真綾たちがまったく気にも留めていないため、あえて言及しなかったこと〉について、これから少しだけ述べよう。
……そう、真綾はなんの不自由もなく異世界人と会話し、読み書きも問題なくできているのだ……。
異世界の文字が日本のそれと異なることは間違いないのだが、なぜか真綾と熊野には違和感なく理解でき、スラスラと書くことも可能なのである。言葉に至っては、もはや相手が日本人だとしか思えないレベルであった。
会話についてはクレメンティーネと出会った時に、文字ともなると古城探索をした時に、当然ながら気づいていてもおかしくないのだが、すっかり花によって洗脳されているふたりは、異世界転移とはそういうものだと思い込んでいるため、カケラも不思議だとは思わなかったようである……。
『真綾様、お気づきでしょうか?』
「はい?」
『先ほどフロントで気づいたのですが、こちらでは活版印刷と紙がすでに発明されているようです。まだ紙のほうは、木を原料とする植物紙のひとつ手前である、ボロをほぐして作るもののようですが……。サスペンション付きの馬車や、クラウン法で作られたガラスの窓も普及していることから、この世界の文明レベルは、中世よりも近世に近いのかもしれませんね』
「おー」
熊野の鋭い洞察力と高い見識に、真綾がパチパチと手を叩く。
熊野……そこには気づくのに、なぜ……。
『真綾様、ご夕食までまだ時間がございますし、ノーア様が教えてくださった〈例の場所〉に行かれますか?』
「行きます」
熊野が意味深に誘うと、真綾はカラッポになった湯呑みを【船内空間】へと収納し、すっくと立ち上がる。楽しみにしていた〈例の場所〉へ向かうために。
◇ ◇ ◇
(降、臨)
博物館や図書館のように立派な石造建築を前に、真綾はバッと両手を天に掲げて、仁王立ちしていた……。
彼女がそのポーズを取った瞬間、近くを通りかかった人々がビクッとなったのだが、まあ致し方あるまい。
『は~ご立派な建物ですこと。これを見て温泉だと思う日本人は、なかなかいないでしょうね~』
感心しきりな熊野の言うように、日本人には少々違和感があるかもしれないが、この壮麗な石造建築、なんと公共温泉浴場である。
――ノーアいわく、このバーデンボーデンは温泉が湧出しているため、高級温泉保養地として近隣国からも貴族がやってくるほど人気なのだとか。
狩人しか使わなくなった東門方面の街区が古い街並みなのに対し、他の街区に隣国セファロニア風の石造建築が多いのは、湯治客にセファロニア貴族が多いためらしい。
ちなみに、温泉のない他の町や都市では、わざわざ湯を沸かさなければならないため、公共浴場は早朝から一定時間のみ開けられるのだが、バーデンボーデンでは深夜でもない限り、いつでも入浴が可能なのだそうだ――。
きれい好きで温泉好きなうえ、もう何日も湯に浸かっていない真綾にとって、それを見逃すという選択肢はなかったため、このように嬉々として公共浴場に来た次第である。
『温泉地を教えてくださるなんて、クレメンティーネ様には感謝しかございませんね。――ささ、真綾様、ここで立っていても疲れは取れません、さっそく入ってみましょう。レッツゴ~!』
(おー)
異世界の温泉に興味津々の熊野から誘われるまま、真綾は内心ウキウキと公共浴場へと入っていった。
そして数分後――。
『……』
(……)
無言で引き返してきた。
『まさか、混浴だったなんて……』
(脱衣場は別々だったのに……)
つまり、そういうことである。
服を脱いだ真綾が嬉々として向かった先に待っていたのは、大理石製の円形浴槽にジュゴンのごとく浸かる、全裸のオジサンとオバサンたちだったのだ……。
それが視界に入った瞬間、彼女が全速力で脱衣場に戻ったのは言うまでもない。
失意のうちに、真綾が黄昏空の下を宿へ向かってトボトボと歩き始めた、その時! 彼女の耳に、絹を切り裂くような悲鳴が聞こえた!
とっさに振り向いた真綾の目に、通りの真ん中で転んでいる幼児と、そこに急接近する馬車の姿が飛び込んでくる。
その刹那、真綾の姿が消えた――。
◇ ◇ ◇
――子供の存在に気づいた御者は慌てて避けようとするが、その行動はわずかに遅かった。馬はぎりぎりで躱せそうだが、その後ろにある馬車はどう見ても無理だろう。
ある者は顔を手で覆い、ある者は顔を背け、またある者は固まったように凝視するしかないなか、今まさに、小さい頭が巨大な車輪に踏み砕かれようとした――瞬間!
その場にいた者は、等しく自分の目を疑った。
なんと、突如として出現した黒ずくめの女性が、車輪をガシリと片手で掴んで馬車を止めていたのだ。
二頭の馬に引かれて走っていた馬車が、たおやかな腕一本でピタリと静止させられている光景を、いったい誰が信じられよう。
やがて車輪から手を離したその女性が、顔を上げて振り向くと、人々はまた別の意味で息を呑んだ。
艷やかな黒髪の下から現れたのは、天上の女神と見まごうばかりの美貌だったのだ。
その女性、日本名を羅城門真綾というのだが、それを知る者はここにいない。
そして、彼らの頭上で消えてゆく巨大な魔法陣に気づいた者も、また、ここにはいなかった。
「大丈夫?」
真綾がしゃがんで声をかけると、子供は目をパチクリとしたあと、ようやく声を上げて泣き出した。幸い大きな怪我などはなさそうだが、転んだ時にできたらしい傷が可愛いおでこにある。
絆創膏で大丈夫だろうかと真綾が考えているうちに、ガチャリと馬車の扉が開き、その中から真綾と同世代と思われる少女が飛び降りてきた。
黄昏空の下、本当の色はわからないが、少女の髪は美しい黄金色をしているように見える。
「わたくしにお任せを」
品のよいドレスに身を包んだその少女は、そう言うと真綾のとなりにしゃがみ、静かに息を吸い始めた。
するとどうだろう、子供の傷口から黒い霧のようなものが出始め、彼女の小さな口へ吸い込まれていくのだ。
しかも、それとともに、子供の傷が見る見る消えていくではないか!
「フウゥゥ――」
今度は白い顔を空に向け、少女が息を吐く。
するとその口から黒い霧が立ち昇り、黄昏空へと散っていった。
「これでもう大丈夫、大事なくてよかったわ。あまりひどいケガだと治せないもの」
そう言って少女が優しく微笑みかけた時には、さっきまで子供のおでこにあった傷はきれいに治っていた。
内心、(すごいなー)と感心しながらも、真綾は少女に礼を言う。
「ありがとう」
「いいえ、あなたのほうこそ――」
言葉を返そうと、となりにいる真綾の顔を見上げた少女は、そこにある美貌を認識したとたん――声を失くした。
少女のパッチリとした目はさらに大きく開かれ、白い頬が見る見る薔薇色に染まってゆく。
『少女は、初めて恋を知ったのだ……』
(なんですか?)
『……いえ、お気になさらずに……』
――などと、熊野と真綾が脳内会話している最中、唐突に若い男の声がした。
「シュゼット、早く乗りたまえ」
立ち上がった真綾が声の主を確かめると、豪奢に飾られた馬車の窓から、若い男が不健康そうな色の顔を覗かせていた。
男は明らかに侮蔑のこもった目で窓の外にいる人々を見回したあと、子供の傷を治した少女に言葉を続ける――。
「ああ、優しいシュゼット。君はなんて慈悲深く、そして愚かなんだい? 君のその力は貴き者を救うためだけに使われるべきなのに。そんな下等な――」
「アーディ! それ以上言わないで!」
とっさに少女は立ち上がると、男の嘲るような言葉を強い口調で遮った。
「シュゼット、こいつらに慈悲をかけても増長するだけだ。……ああそうだ、貴族の馬車を止めたらどうなるのか、子供には教育が必要だね、これから――」
「アーディ!」
冷たい声をふたたび大きな声で遮ると、怒りと悲しみの入り交じる視線で男を睨みつけていた少女は、やがて諦めたように息を吐いてから声を落とす。
「……気分が優れないわ。悪いけど、やっぱり今日は宿で降ろしてちょうだい」
「……フン、いいだろう」
男のつまらなそうな返事を聞いてから、シュゼットと呼ばれた少女は悲しげな表情で真綾を見上げた。
彼女の青い瞳に、真綾の美しい顔が映っている。
「申しわけございません」
そう言って目を伏せた少女は、両手でスカートの裾をつまんで膝を軽く折ったあと、静かに馬車の中へと消えていった。
恭しく扉を閉めた従僕が後ろへ飛び乗ると、ふたたび馬車は走り出す。
『真綾様、あれは――』
(はい)
紋章の描かれた豪奢な馬車が走り去る姿を、なぜか真綾は、珍しく厳しい視線で見送るのだった。
どうも、作者です。
皆様におかれましては、ゴールデンウィークいかがお過ごしでしょうか。
私はどこにも行けません……。
さて、今回のサブタイトルは『温泉』でしたが、直接的な入浴シーンはございません。この作品、肌色少なめでやっていこうと思っておりますゴメンナサイ。
それでは、これからも真綾たちのことを温かく見守っていただけると幸いです。




